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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
46/55

(18)

 その夜、遅くなってから、勝頼の小姓がやって来て、梓姫にすぐに部屋に来るようにとの呼び出しを受けた。「虎政とお富も来るように」とのことなので、真穂の後ろから伊織とお富もついていく。館の奥の方の間で小姓が声を掛けると、「入れ」という勝頼の低い声が聞こえた。開けられた障子から、真穂が先に入り、伊織とお富もその後ろから部屋の端の方に座って頭を下げた。


「虎政とお富も、もう少し近くに寄れ」


 勝頼が言うので、お富とともに数歩進んでそこに座った。真穂はその数歩先で、勝頼の正面に座って彼の顔を見つめている。


「梓。不自由な想いをさせて済まぬな」


「いえ……そのようなことは」


「早速だが、呼び出したのは他でもない。そなたに頼みがあるのじゃ」


「頼み……ですか?」


 勝頼が頷いてから続けた。


「そなたにのう。穴山のもとに嫁にいってもらいたい」


 それを聞いて、隣にいたお富が息を呑んだのが分かった。勝頼はそのお富の方に顔を向ける。


「お富も一緒じゃ。分かったな」


「誠に恐れ入りますが……その儀は、前にお断りしたはずではございませぬか」


「状況が変わった。穴山の嫡男、勝千代のもとに嫁がせる」


 勝頼は即座に答え、尋ねたお富は言葉を失った。真穂は真っすぐに勝頼の方を見ていた。伊織もその様子をじっと見つめる。梓姫も虎政も本物ではないということは、勝頼も知っている。その上で、その偽の梓姫である真穂を穴山梅雪の息子に嫁がせようというのだ。


「どうしてでしょうか」


 しばらく黙っていた真穂が静かに尋ねる。勝頼はそれを予期していたかのようにじっと彼女を見つめる。


「あ奴はかねてからそなたを跡継ぎの嫁に欲しいと申しておった。それで、この期に及んで改めて奴から使者が来た。しかも、そなたを嫁に出せば、三河守(徳川家康)も和を結んでも良いという書状まで持ってきておる。この武田家の窮地の中では、もはや和を結ぶしか我らに道はない。故に、ワシはこの申出を受けようと思う」


 勝頼が言うのを真穂は黙って見つめていた。そして、少しだけ伊織の方を振り返ってから勝頼に尋ねた。


「虎政も連れて行って良いでしょうか」


「ならぬ」


 勝頼は即座に答えた。


「虎政は我が直参の家臣であり、名門甘利家の跡取り。そなたに渡す訳にはいかぬ。明朝、虎勝の軍勢に命じて、梓を穴山の軍勢の待つ寺まで送らせる。そこで虎勝に徳川と和議を結ばせる手筈じゃ。よいか」


 そこまで言うと、勝頼は立ち上がった。


「恐れながら——」


 伊織は勝頼の方を見上げて声を掛ける。


「それで織田や徳川と和を結べるとは思えません」


「何じゃと」


「織田と徳川の狙いは我ら武田家の滅亡。姫様を嫁に出しても、徳川はともかく、織田が攻撃をやめるとは思えません」


「黙れ!」


 勝頼は激しく叫んだ。その権幕にドキッとする。


「これはもう決めたこと。そなたの意見は聞かぬ」


 そう言って勝頼は伊織の前に足を進め、すぐ目の前で座った。


「それとも、そなたが敵の大軍に突撃して撃退してくれるとでも申すのか」


 勝頼が間近から大きな目で伊織を睨む。その鋭い視線に言葉が出なくなり黙っていると、彼は再び立ち上がった。


「もうよい。梓と虎政はもう下がれ。お富はワシについて参れ。向こうの間で皆と輿入れの相談をする」


 勝頼に呼ばれたお富は、伊織の方をチラッと見てからすぐに立ち上がり、勝頼の後ろからついて部屋を出て行った。静かになったその部屋から、小姓の案内で元の部屋に戻り障子を閉めて二人きりになると、真穂は伊織に抱きついた。


「どうして……」


 真穂はそれだけ言って、伊織の胸でウッ、ウッと嗚咽し始める。伊織はただその背中をそっと撫でていく。


「大丈夫だから——」


 彼女の背中と、その長い髪を撫でていく。彼女の体の温かさに胸がドキドキするが、一方で逃げることができない現実に絶望する。


 真穂の嗚咽を聞きながら冷静に考えてみる。おそらく、真穂を穴山氏に嫁に出すということ自体、ただの時間稼ぎなのだろう。本物の梓姫である黒猫が新府城を出たのは今日の朝。黒猫を連れた蓮姫は馬に乗っていたが、今どこまで進んでいるのか見当もつかない。おそらく、勝頼は「梓姫の嫁入り」によって、一時的にでも敵の攻撃を止めようとしているのかもしれない。つまり、真穂は囮であり、本当に和議を結ぶことができれば良いくらいにしか思っていないのだろう。しかし、それでは真穂はどうなるのだろうか。


「ごめん……伊織くん」


 真穂はしばらく経ってから、体を離して恥ずかしそうに俯いた。伊織も思わず「ごめん」と謝ると、真穂はゆっくりと首を振った。


「大丈夫。きっと……いつかこの世界から抜け出せる。今、お嫁に行ったとしても、生きていればいつかはきっと元の世界に戻れるわ」


 真穂は自分自身に言い聞かせるように言った。


「でも……」


「私は大丈夫。それよりも、伊織くんの方が心配」


「僕は……大丈夫だよ」


「何それ。だって敵に囲まれてるのよ」


 真穂はそう言って笑った。それは明らかに無理している感じがあった。たぶん、笑っていないと、自分の事が気になってしまうのかもしれない。根拠はないが、ただ「大丈夫」と繰り返し答えるしかなかった。


「私ね……。あなたの告白を、受け入れるつもりだったの」


「えっ——」


「あの時は急に言われたから、答えられなくて。でも、私も伊織くんの事が好き」


「真穂ちゃん……」


 思わず名前を呼ぶと、真穂はそこで頷いた。


「うん……。だからね。私、絶対に元の世界に戻りたい。どんなことがあっても、絶対にあなたと生きて帰りたいの。だから、あなたも絶対に生き残って」


 真穂は真っすぐに伊織を見ていたが、その顔が急に近づいてきたと思うと、伊織の唇に温かな感触があった。そして、再び顔を離した真穂は、笑顔になっていた。


「絶対だよ——」


 そう言う真穂の体を、伊織は無意識に再び抱きしめた。

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