(17)
蓮姫を見送ってから、城内に戻った伊織は、梓姫の部屋に向かった。そこでは、お富が部屋の片付けを進めていた。
「おお、虎政。少し手伝ってくれ」
お富の言うとおり、棚を動かしたり、着物やら櫛やら身の回りのものを風呂敷の上に置いていく。既に勝頼は新府城を捨てるということを伝えたらしく、その部屋に来るまでの他の部屋でも慌ただしく人々が動いていた。すると、お富は伊織の隣に来て小声で言った。
「蓮姫様が城を出たというのはまことでございますか。北条家に戻るということでしたが」
「はあ。そのようです」
「なんと……。このような時になって、逃げようとは。全く頼りにならぬお人じゃ」
お富はそう言ってため息をついた。彼女までそう思っているのであれば、うまく城内はごまかせたかもしれない。しばらく片付けを進めて、一段落したところで、お富は正座して真穂の方を向いた。
「姫様。城を出たとしても、案ずることはございませぬ」
「お富——」
「私も年をとったとはいえ、武士の妻でございます。この先、どのような事があったとしても、私はただ姫様をお守りいたしますぞ」
お富はそう言って頷いた。
お富の手伝いが一段落したようだったので、伊織は一度部屋を出て城内の様子を見回った。勝頼は、女性や子供には親戚を頼っていくように伝えていたらしいので、大半の者は早々と城を出始めていて、残っているのは兵士と僅かな武田家親族だけだった。そして、その残った人間たちも僅かな荷物だけを持って、今日の午後にでも城を出て、甲府の館の方に向かうことになっている。
(城を出て、どうなるのだろう?)
この先の歴史は分かっている。勝頼は頼りにしていた小山田氏に裏切られ、天目山で自害することになる。新府城を捨ててから、天目山に至るまでどのくらいの日数があるのか分からないが、僅かな日数であることだけは確かだ。
伊織は、先ほど勝頼と会っていた部屋を去る時、「小山田氏を頼らず、信濃の真田氏のもとに逃げることができないか」と言った。しかし、彼は「下がれ」と言っただけでそれ以上何も言わなかった。やはり、この甲斐の国を捨てるという選択はできないのだ。
(僕達は……どうなる?)
こうしている間にも、織田軍と徳川軍が迫ってきているはずだ。どちらにしても、城に残っている兵士も少ないだろうし、これだけ不利な状況になればもっと裏切りも出て来るだろう。
ゲームの世界であればいくらでもやり直せる。しかし、これは現実の戦国時代だ。戦って殺し合わなければならない。死なずに捕まったとしても、命の保証はない。敵が来たら、自分達は生き残ることができるのか。いや、仮に生き残っていたとして、自分達は元の世界に戻ることができるのだろうか。
伊織はそう思いながら、城門から出ていく女性たちの姿をぼんやりと眺めていた。
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その日の午後には、残っていた兵士たちとともに伊織と真穂は城を出た。初めて鎧を付けたが、やはり重さを感じる。伊織は真穂の前に立ち、真穂の後ろをお富が歩いていく。列をなして歩いていく兵士たちは、いずれも疲れ切った表情をしているように思えた。
どのくらい歩いたのか分からないが、夕方になって街の中に入ってきた。甲府の街だろう。ただ、そこを行き交う人通りは少ない。もうすぐそこも戦いの場になると見越して、どこかに逃げているのだろうか。残っていた人達からも、武田軍を歓迎するムードは一切感じられない。
軍列は街外れにあった建物の中に入っていった。かがり火が焚かれていて、そこに先に到着していた兵士たちが集まっているようだ。すると、真穂の前に立って歩いていると、後ろから「姫様」と声を掛けられた。振り返ると、ガチャガチャと甲冑の音をさせながら男が近づいてくる。
「父上——」
伊織が言うと、虎勝はそこに膝をついて真穂の方を見上げた。
「姫様。どうしてここに」
「はい。殿がついて来るようにと」
「なんと……」
虎勝はそこで絶句し、伊織の方にも顔を向けた。そして、そこで大きく頷いた。
「分かりました。この館の周りはしっかりと我が甘利の者が固めておりますゆえ、どうぞご安心くだされ」
「ええ。ありがとうございます」
真穂も虎勝の方に頭を下げる。すると彼はハハっと言って頭を下げ、立ち上がって真穂を館の中に案内していった。その後ろから伊織もついていき、建物内の奥まった一室に真穂とお富を案内してから、虎勝は伊織とともに外に出た。建物の外では兵士たちが行き交っているが、辺りが暗くなってきたこともあり、それぞれの表情は見えなくなってきている。
「ついてきた手勢は千にも満たぬようじゃな」
虎勝は小声で言った。
「一体これはどうした事じゃ。殿もご了解だったはずじゃが」
「いろいろあって……すみません」
前を向いたままの虎勝に頭を下げる。すると彼は、大きくため息をついた。
「……まあ良い。間者からの情報によれば、既に徳川軍も織田軍も甲斐に侵入してきておるようじゃ。我らに残された時間は少ない」
「そう……ですか」
小声で答える。虎勝の「残された時間は少ない」という言葉に身震いする。それは残された自分の命と同じなのだ。
「虎政」
「はい」
「そなた……命は粗末にするな」
ハッとして虎勝の方を見る。髭にも白髪が見えている彼は、真っすぐに前を向いたまま言った。
「そなたの死ぬ時は、姫様のお命が尽きる時だと思うがよい。無闇に戦うことはない。そなた、月の里は知っておろう」
「はい。この前も行きましたが……」
「うむ。月の里のことは、昔から天子様をはじめ、遠国まで知られている存在じゃ。困ったら、里長を頼れ。姫様にとってはお母御のお里でもある。いかに織田や徳川とて、無闇に里を侵せば諸国の信義を失うことになるゆえ、そこまではせぬであろう。それに、歩き巫女の力も底知れぬところがあるからのう」
そこまで言った時、「殿」と呼ぶ声が聞こえた。虎勝の前に兵士が膝をつく。
「大殿がお呼びでございます」
今参る、と彼は答えると、伊織の方をチラッとだけ見て、そのまま歩いていく。その姿は暗闇に紛れてすぐに見えなくなった。




