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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
44/55

(16)

 それから1時間ほど経った後、伊織は城門の前に立っていた。空は雲に覆われて日差しもなく、辺りは冷え切っている。


(寒いな——)


 コートと呼べるようなものもなく、薄い着物の間から冷たい風が入ってくる。少しでも温かくなるのではないかと思い、両腕を掴んで擦り合わせていた。


 しばらくして、城の中から何人からの人間が出てきた。


「虎政。ご苦労であった」


「真田様——」


 伊織は彼に頭を下げた。すると、彼の後ろから紺色の手ぬぐいを被った女性がやって来て、そこに曳いてきていた馬に無言でまたがった。彼女は伊織の方をチラッと見て軽く頭を下げる。その後ろからもう一人、同じような手ぬぐいを被り、背中に竹製のカゴを背負った女性がそれに続いて馬にまたがる。


「それでは参るぞ」


 昌幸はそう言って馬に飛び乗る。その後ろで、馬に乗った真田家の者と思われる武士二人も同じようにした。すると、馬の上から昌幸は伊織を見つめた。


「一体、何がどうなっておるのか——」


 昌幸はそこで黙った。その鋭い視線が真っすぐに伊織に注いでいた。余りの鋭さにドキッとする。


「どういう事でしょうか」


「いや……何でもない。行くぞ」


 彼はそれだけ言って、手綱を引いた。馬がゆっくりと歩き出す。その後ろから女性の乗った二匹の馬と、昌幸の家臣たちの馬が続いていく。伊織以外に誰も見送ることもないその後ろ姿を見つめていると、ふと顔に冷たい感覚があった。


(雪だ——)


 空を見上げると、白い粉のような雪がゆっくりと降り始めていた。3月とはいえ、現代に比べると衣服のせいもあるのだろうが、かなり寒さが堪える。いや、それは寒さのせいだけではなく、自分達の役割なのかもしれない。少し前の勝頼の話を思い出してそう思うと、改めて鳥肌が立つ気がした。



 ******



 先ほどの部屋で勝頼が頼んだ内容に、蓮姫はハッと驚いた様子だった。


「私が、その猫を連れて越後に……」


「そうじゃ。それも、すぐに出立せよ。そなたの侍女一人だけを連れて行くのじゃ。昌幸に岩櫃いわひつ城までは案内させる。そこから先は、歩き巫女の一族に案内させるよう、昌幸に伝えておく」 


「どうしてそのような……。私は、殿とともにここで……」


「ならぬ」


 勝頼は厳しい声で言った。


「この猫が本物の姫だということは我らしか知らぬ。それゆえ、それを知るそなたには、何としてもこの猫を安全な場所まで連れて行ってもらわねばならぬ」


「しかし、この猫が本物の梓姫だという証拠が……」


「証拠なら、ここにある。……黒き石じゃ」


 勝頼はもう一度箱の蓋を開けて中を覗いた。


「この石は早月が死の直前に梓に与えたもの。これを持っている者が本物の梓姫である。早月はそのことも申しておった」


「なんと……」


「早月は梓が生きることを強く願っていた。おそらく早月は、この石に何かの術をかけたのであろう。梓の命を助けるためにな。それならばワシは、何としてもこの猫、いや梓を生かしれやらねばならぬ」


 勝頼はそこまで言い、蓮姫の方を向いて小声で言う。


「よいか。既にこの城内にも敵方の間者が紛れ込んでおるだろう。北条からそなたを引き取りたいという申出があったことは城内でも知られている。そなたが城を出てから、その申出に応じたという話を城内に広めれば、まさかそなたが越後を目指しているとは思うまい」


「それで、殿と、この者たちは……」


「この者たちには、引き続き本物の梓姫と虎政の振りをしてもらう。その間に、そなたたちは昌幸とともに信濃を、そして上杉の越後を目指して進むのじゃ。よいな」


 勝頼は蓮姫の肩に手を置いて、大きく頷く。


「しかし……しかし、私は……」


「そなたは、梓姫の母であろう」


 勝頼が静かに言うと、蓮姫はハッとしたように彼の顔を見つめた。


「確かに、猫になった梓や虎政が人間の姿にいつ戻るのかは分からぬが、いずれは術も解ける日が来るであろう。その時に誰も知る顔がないのでは、梓が可哀想であろうが」


「殿——」


「蓮。梓の命を守ってくれ。頼む」


 勝頼はそう言って、蓮姫の前で深く頭を下げた。

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