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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
43/55

(15)

 勝頼の正面に真穂が座ると、彼はじっとその姿を見つめた。


「久しいのう。この3人で会うのは」


 ハハハ、と勝頼は笑った。しかし、彼の目は笑っていない。明らかに無理をして笑っているのがはっきりと分かり、伊織はやや心が痛んだ。勝頼はそこで、笑うことなく彼を見つめている真穂と蓮姫を順番に見て、すぐに真面目な表情に戻って言った。


「今日はそなたたちに大事な話をしようと思っておる。それはこの武田家の行く末じゃ。いよいよ重大な局面になってしまった。このようになってしまった原因は、全てワシにある」


「何を仰せになりますか」


 蓮姫が即座に答えたが、勝頼は黙って手で制した。


「良い。ワシはただ事実を言ったまでじゃ。……それで、蓮姫に相談なのじゃが」


「何でしょうか」


「うむ……。そなた、北条の家に戻る気はないか」


 勝頼が言うと、蓮姫が息を呑んだのが分かった。


「な……何を仰せでございますか。それは一体どういう……」


「実は、北条氏政から書状が参った。蓮姫を離縁してもらい、小田原に戻してほしいとな」


「まさか、父が……?」


 驚く蓮姫の前で勝頼が頷く。


「既に迎えの者も来ておる。そなたさえよければ、すぐにでも出立できよう」


 勝頼は冷静に言う。すると蓮姫は勝頼を真っすぐに見つめて答えた。


「嫌でございます」


「……」


「私は殿のもとに嫁いできた身。子はおらぬとは言え、武田家がこのような状況になったからと言って、今更お家を裏切るようなことは考えもつきませぬ」


「どうしてもか」


 勝頼が低い声で問いただすと、蓮姫は「はい」とはっきりと答えた。しばらく勝頼は黙って彼女を見つめる。そして、懐から何かの紙を取り出した。


「仕方あるまい」


 勝頼はそう言って、その紙をビリビリと破り、近くに置いてあった火鉢の中に入れた。すると彼は突然、ハッハッハと笑い声をあげた。


「思うたとおり、そなたは強情な女子よのう。そなたに子ができていたら、さぞかし元気な子に育ったことであろう」


「殿——」


 蓮姫は勝頼を見つめていた。そして勝頼も蓮姫を見つめていたが、しばらくしてその視線を真穂の方に向けた。


「さて……ここからが本題じゃ」


 勝頼は静かに声を出した。


「梓、そなた……何かワシに隠しておることがないか」


「はっ……?」


 真穂はドキッとした様子で勝頼を見つめた。蓮姫も真穂の方に顔を向ける。すると、勝頼はフフっと静かに笑った。


「実はのう……早月が死ぬ直前に、梓のことに関してワシにだけ言い残したことがあるのじゃ」


「早月様が?」


 蓮姫が不思議そうに勝頼の方を見つめる。すると、勝頼は自分の脇に置いた木箱を自分の前に置き直した。その箱は、やや縦長な木箱のようだが中は見えない。まるで生首でも入っていてもおかしくないような箱だと気づき、伊織はドキッとした。すると勝頼はその箱の上部の蓋を開けて中を覗いた。


「うむ……。梓、これを見るがよい」


 勝頼は真穂に声を掛けた。箱の中の匂いなのか、何かのお香のような香りが部屋に漂ってくる。真穂も何か不穏なものを感じ取ったのか、表情が真っ青だ。しかし、深呼吸してゆっくりと立ち上がり、その箱の中を覗く。すると、真穂は「あっ」と声を出して伊織の方を振り向いた。


(な、何? 一体……)


 彼女は何を見たのだろうか。すると勝頼が尋ねた。


「どうした? これは何じゃ」


「これは……私が飼っている黒猫と、仲の良い虎政の猫です」


 真穂が勝頼の方を向いて静かに答えるのに、伊織もハッとした。


「そうじゃ」


 勝頼がそう答えると、蓮姫も驚いたように前に進み出て箱の中を覗いた。


「なんと……スミたちではございませぬか。一体、これはどうしたことです。殺してしまったのですか」


 蓮姫がそう尋ねたのにハッとした。すると、勝頼はゆっくりとその箱の蓋を持った。


「心配ない。眠っておるだけじゃ」


 カタンと木箱の蓋が閉まる音が部屋に響く。しばらく皆が黙ってしまってから、ようやく勝頼が口を開いた。


「早月はのう。死に瀕してこう言った。自分が死んで数年後、高遠の城が落ちた時、この武田家の滅亡はいよいよ避けられなくなる。その時に、二匹の猫——すなわち、梓の飼う黒猫と、それと仲の良い虎政の飼うサビ色の猫が揃っていたときには、必ず命を助けるように、とな」


「猫の命を……?」


 蓮姫が不思議そうに呟く。


「そうじゃ。この香の匂いで眠ってしまう猫たちをじゃ」


 勝頼はそう言って真穂の方を見た。


「どうしてその猫の命を助ける必要があるのか。ワシは早月に尋ねた」


「それで……」


「早月は言った。その2匹の猫こそが、本物の梓姫と、虎政であると」


 すると蓮姫は、目を見張って勝頼と真穂の方を交互に見た。


「な、何をおっしゃいます。どういうことでございますか。姫はここにおるではありませんか」


「確かにおる。しかし……どうであろうか。のう、梓よ」


 勝頼は真穂に声を掛けた。そして、伊織の方にも顔を向ける。


「虎政も、どうじゃ」


 勝頼から声を掛けられて、伊織の背中を冷や汗が流れていく。勝頼は確信しているのだ。ここにいる梓姫と虎政は、本物ではないということを。そしてそれは、梓姫の母であった早月が伝えていたからに他ならない。何と答えれば良いか分からず黙っていると、「あの」という声が聞こえた。


「私は……梓姫ではありません」


 真穂ははっきりと言った。蓮姫が再び息を呑む。


「ど、どういう事じゃ。そなた、一体、何を言っておる」


「いえ……その通りのことです」


「なるほど。では、そなたは一体何者じゃ」


 勝頼は脇に置いていた刀を鞘ごと持ってゆっくりと立ち上がる。そして、鞘から刀を抜いた。キラリと輝く刀が座っている真穂の目の前に向けられる。蓮姫が慌てて腰を浮かせた。


「殿! お待ちを」


「静かにせよ。正直に申せば命だけは助けよう。どうじゃ。そなたはおそらく、織田か徳川の間者であろう」


 勝頼の目は本気だ。その冷たい視線が真っすぐに真穂の顔を見つめる。しかし、真穂はただ静かに勝頼の方を見つめていた。


「私は……織田の者でも、徳川の者でもございません」


「ほう。では一体、何者じゃ」


「私は、この世界の者ではないのです」


 真穂がそう答えると、勝頼は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに大声で笑った。


「ハハハ! では、そなたはあの世から来たとでも言うのか」


「いいえ……。しかし、ある意味ではそうかもしれません。私自身でも信じられないのです」


「何をたわけたことを——」


 勝頼が刀を握る手に力を込めたのを見て、伊織は慌てて叫んだ。


「お待ちを! 僕も虎政ではありません。彼女と同じ世界で生きていた人間です」


 そう言って真穂のすぐ前まで進み出て、座り直した。


「そなたらは……」


「僕達は、この世界よりずっと後の世界からやってきた人間なのです」


「後の世界じゃと……?」


 蓮姫も不思議そうに呟く。すると勝頼はイラっとした表情で伊織の方を睨んだ。


「何を馬鹿な……。ならば、この先、武田家がどうなるかも知っておるというのか」


「それは……分かります」


「では、申してみよ」


「殿は、この城を捨て、小山田氏を頼ります。しかし、彼らに裏切られてしまう」


「何っ——」


 勝頼はそこで絶句した。余りに突拍子もない話だ。信じろというのが無理だと思うし、そのまま斬られても仕方ないかもしれない。しかし、それは事実であり、自分達が未来からやって来た人間であることを証明することにもなる。


 伊織は勝頼をじっと見上げていた。勝頼も刀を持ったまま伊織の方を見つめる。どれくらいそのままであったか分からないが、勝頼は大きくため息をついた。


「一体、これは何なのじゃ。どうして、本物の梓姫と虎政が猫になどなり、そなたたちと入れ替わったというのじゃ」


 今度は真穂が勝頼の方を見上げて答えた。


「それは分かりません。ただ、私はその黒猫になってしまった本物の梓姫と話をすることができました。その黒猫は、間違いなく梓姫です。そして、このことは月の里の志月様も知っています」


「志月が……」


 勝頼はそこでうなった。伊織も続けて言う。


「殿。僕もサビ猫と話ができました。その猫は本物の虎政です。僕も信じられないのですが、志月様に聞いてもらえれば全て本当だと分かります」


 伊織は「お願いです」と畳に頭を付けた。すると、頭の上でカチャンと音が聞こえた。恐る恐る頭を上げると、勝頼は刀を鞘に収めて真穂の前に立っていた。


「これも、歩き巫女の秘術だというのか。早月よ」


 勝頼は静かに言った。しばらくじっと黙って立っていたが、やがて頷いて蓮姫の方に顔を向けた。


「蓮姫。そなたに頼みたいことがある」

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