(14)
翌朝、伊織は早朝に目を覚ましてしまった。気が付くと、いつの間にかサビ猫もその部屋に戻っている。何時くらいなのか分からないが、体を起こすと、サビ猫も目を覚まして、起き上がって背伸びをした。
サビ猫の指示で、少ない荷物を風呂敷に包んでいく。館の中は静まり返っている。両親もまだ寝ているのだろう。サビ猫が先に歩いていき、玄関で草履を履こうとして体を屈めた時だった。
「虎政」
急に声を掛けられてドキッとして伊織は顔を上げた。玄関の前には、父の虎勝が立っている。
『父上——』
サビ猫は玄関に座ってその姿を見つめていた。伊織も頭を下げる。
「おはようございます。もう起きていたんですか」
「もうすぐ敵が来るのだと思うと、寝られなくなってのう。血が騒ぐとはこのことじゃなあ」
ハハハ、と父は笑った。元気そうに見えるが、無理しているような気がした。虎勝はもう20年以上、戦の最前線には立っていないのだ。それだけブランクがあるということは、不安もあるのかもしれない。
「そうじゃ。そなたに、これを渡すのを忘れておった」
虎勝は左手に持っていた刀をこちらに差し出した。
「これは我が甘利家に伝わる刀。きっとそなたを……いや、梓姫様も守ってくれるであろう」
『これは……甘利家の宝刀ではございませぬか』
サビ猫が虎勝の方を見つめて呟く声が聞こえた。
「あっ……ありがとうございます」
伊織はそう言ってその刀を受け取る。ズシリと重さがあると思ったが、意外に軽い感じがした。その時、背中の方から声が聞こえた。
「虎政、体には気を付けるのですよ」
振り返ると、そこには母が座ってこちらを見上げていた。
「何じゃ。そなたも起きておったのか」
「あなたさまが先に起きられたので、私だけ寝ている訳には参りませんから」
母は少し笑って答えた。その二人を交互に見る。
「父上、母上……」
そこで言葉を失ってしまった。おそらく虎勝は武田家とともに戦って死ぬだろう。それに、ここに敵が来れば、母も自害するのかもしれない。そして、虎政、いや伊織自身も、この先どうなるのかも分からない。ただ、少なくとも、両親に二度と会うことはないだろう。こういう時、息子である自分は、何と言えば良いのだろうか。
「おや? どうしたのじゃ」
母の声に顔を向けると、その座る前にサビ猫が座り、母の顔を見上げていた。
『母上……行ってまいります』
すると、母はその頭を撫でていく。
「虎丸も連れていくのじゃな」
「はい。姫様の黒猫と仲が良いので、連れていくようにと」
「そうじゃな。仲間は少しでも多い方が良いからのう」
虎勝の声を聞きながら、サビ猫を抱き上げ、その方を振り向く。
『父上……』
それだけ言って、じっと虎勝の方を見つめるサビ猫を抱えたまま彼の方を見ていると、虎勝は肩にバシッと手を置いた。
「どうした。こういう時は元気に出立するものぞ。それに、そなたには、誰にもできぬ役目があるではないか。姫様をお守りするという大切なお役目がな」
「父上——」
「心配することはない。そなたはそなたの役目を果たせ。そして、ワシも母上も、自分の役目を果たすまでじゃ」
ハハハと笑う虎勝と、にこやかにこちらを見上げる母を順番に見て、伊織は深く頭を下げて言った。
「行ってまいります」
*****
城に入り梓姫の部屋に行くと、真穂も既に起き上がっていた。早朝に月の里の者がやってきて言うには、お富も含めて侍女たちには何も知らせずに、普段通り朝の食事だけをとり、城の周りを散歩する振りをしてそのまま出て行くようにとのことらしい。今、志月は信濃の歩き巫女たちを回っているらしいが、途中で彼女も合流し、越後まで一緒に行ってくれる予定だという。
侍女たちが食事の膳を運んでくる。真穂の指示で、部屋の端の方で伊織も一緒に食事を食べることになった。
ちょうど食事を終えて、膳を片付け終わった時だった。
「殿がお呼びでございます」
侍女が障子の向こうから呼びかけた。
『このような朝早くから、父上にしては珍しいのう』
黒猫は呟いたが、勝頼に呼ばれて行かない訳にはいかない。「すぐに参ります」と真穂が答えると、その侍女は言葉を続けた。
「それと……虎政殿も来るようにとのことでございます」
「虎政も?」
お富も驚いて伊織の方を振り向いた。傍にいたサビ猫も不思議そうに首を傾げる。
『何であろうか。姫様と某をお呼びになるというのは……』
真穂が「分かりました」と答えて立ち上がる。さすがに勝頼の前に猫を連れてはいけないので、黒猫とサビ猫は部屋に置いていった。お富の先導で真穂が続き、少し離れて伊織が歩いていく。奥の方の部屋の障子の前に二人ほどの武士が座っていて、お富が頭を下げて座ってから、「梓姫様がお越しでございます」と言うと、蓮姫の声で「入れ」と声が返ってきた。
侍女が障子を開けると、そこには蓮姫が一人で座っていた。
「朝早くからすまぬな。殿もじきにお越しになるようじゃ」
「そうですか——」
真穂がそう答えて蓮姫の隣に座った。床の間の前には薄い座布団のようなものが敷かれているが、まだ勝頼の姿はない。伊織は廊下で座っていたが、蓮姫が「中に入れ」と言うので、その部屋の隅の方に入り障子を閉めて座った。
部屋の中は無言だったが、しばらくしてドタドタと足音が聞こえ、「殿がお越しでございます」という声とともに、障子が開けられた。
「待たせたな」
下げている頭の上から勝頼の声が聞こえた。ゆっくりと頭を上げると、彼の後ろに小姓のような若者が立っていて、何か木の箱のようなものを持ってきている。勝頼はその箱を自分の脇に置かせると、その小姓を部屋から出した。
勝頼とは昨日も廊下で会ったが、こうして正面からまじまじと見ると、頬のこけた顔にも傷が残っており、表情は見るからに疲れている様子だった。
「蓮、梓……」
「父上——」
真穂は勝頼の顔をじっと見つめた。
「虎政。ちと、外に誰もおらぬか確認せい」
勝頼の静かな声に伊織は「ハッ」と言って、障子を開けて周りを見回した。そしてそこに誰もいないことを確認して障子をパタンと閉めると、「誰もおりません」と勝頼の方を向いて答えた。




