(13)
梓姫の部屋では、お富が火鉢の傍に何枚もの着物を敷いていた。彼女は侍女達に任せられないと言って、自分で着物を持ってきては、そこに広げていく。その様子に、真穂は思わず声をかけた。
「私も手伝います」
「なっ、何をなさいますか。大丈夫です」
「いえ。そのくらい、大した事はありません。それよりも掛ける着物を持ってきてください」
真穂はそう言って自分で着物を広げていく。するとお富は頷いて、着物を持ってくるために隣の部屋の方に行った。その時、部屋にサビ猫が入ってきた。
『姫様。少しよろしいでしょうか』
その声を聞いて、着物の近くで座っていた黒猫がそちらを向いた。
『どうしたのじゃ。伊織と帰ったのではなかったのか』
『少しお伝えしたき儀がございます』
サビ猫は廊下から黒猫の近くに寄ろうとしたが、その時、お富が入ってきた。
「おや……お前、虎政と帰ったのではなかったのか」
「ええ、帰ってきたようですね」
「仕方ないのう。今日はかなり冷えるから、お前も火鉢の傍にでもおればよいわ」
そう言ってお富は障子をピタッと閉めた。サビ猫は黒猫の方に顔を向けると、黒猫は黙って頷き火鉢の傍に歩いていく。そして、サビ猫もそこに近づいて座った。
準備が終わると、お富は、「心配なので、今日は隣の部屋で寝させていただきます」と言い張って、障子を閉めて出て行った。ロウソクのぼんやりとした明かりを消すと、あっという間に部屋が真っ暗になる。しかし、障子の外からは月の明かりが静かに差し込んできていた。
『それで、伝えたい事とは何じゃ』
黒猫の声が聞こえた。
『はっ……。先ほどそこの廊下で伊織が真田様にお会いして、明日にでも出立できるよう準備せよとのご指示がありました。殿にもこの件はお伝えしたそうでございます』
『そうか……早かったな。さすが、真田じゃ』
『姫様は本当によろしいのでしょうか』
『うん? 何がじゃ』
『上杉に身を寄せることです』
サビ猫が言うと、部屋が静まり返った。
『確かに、織田や徳川、それに北条といった周りの大名の中で、信頼でき、しかも力のある者は今や上杉しかおりませぬ。それにあの菊姫様もおられます。しかし、それは一方でこの国を捨てるということです。菊姫様が嫁がれたように婚儀であればともかく、そうした頼れる者も無く、逃げるようにこの国を出なければならないというのでは、恐れながら余りに嘆かわしき事かと』
『虎政……』
『しかも、我らはこのような猫の姿です。月の里の長がおっしゃったように、いずれ人間の姿に戻ることができるのであればそれも良いかもしれません。しかし、それも分からぬまま、上杉の所まで行く事に、本当に意味があるのでしょうか。生まれ育ったこの甲斐の国を捨ててまで行くということに』
サビ猫がそこまで言うと、部屋の中は静まり返ってしまった。するとしばらくして、静かに黒猫の声が聞こえてきた。
『私にも分からぬ』
『で、では……』
『そう、分からぬが……ただ、分かる事もある』
『分かる事、とは』
『真穂や伊織の気持ちじゃ』
「えっ……」
真穂は被っていた着物をめくって、体を起こした。暗闇の中で黒猫がこちらに顔を向け、その瞳がキラリと光った。
『私が真穂たちの世界に生まれ変わった時、私は不安で一杯だった。しかし、伊織やその姉君は必死に何とかしようとしてくれた。そして姉君の友であった、月の里の末裔の者に会えた事で、私はここまで戻って来ることができたのじゃ』
『姫様——』
『人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり』
黒猫がそう言う声が聞こえた。
『お館様のそのお言葉が、今はよく分かる気がするのじゃ。私は今まで身勝手であった。蓮姫と仲良うできなかったのもそう。記憶の中で敵に追いつめられてしまったことも、本をただせば、虎勝から上杉家への逃避の提案を受けたのを断ったからじゃ。それにより、私は逃げ場を失い、自分だけでなく、虎勝も、そなたの命も犠牲にしてしまった』
『——』
『どのような強き人間も、一人では生きて行けぬ。私は向こうの世界で伊織たちに会って、それが良う分かったのじゃ。彼らは私を守ってくれた。ならば今度は、私が彼らを守るべきじゃ。確かに、我らが人間の姿に戻れるのか、そして真穂たちが元の世界に戻れるのかも今はまだ分からぬ。ただ、真穂も伊織も、このような戦ばかりの世界では不安で一杯なことは確か。ならば私は、私自身のことだけでなく、彼らの事を思い、せめてその不安な気持ちを消し去ってやりたい。そして、虎政。それはそなたも同じ。そなたにも、私は生きて欲しいのじゃ』
黒猫がそこまで言った時、真穂は思わず黒猫を胸に抱き上げた。
「梓姫……ありがとう」
『良いのじゃ。さあ、そろそろ休むことにしよう』
*****
既に外は真っ暗になっていて、かなり寒い夜だったので、真穂はサビ猫にここで寝ていくように言ったが、彼は猫の姿とはいえ、黒猫の梓姫と真穂と同じ部屋で寝る事は頑固に断り、「館に戻ります」と言って部屋を出て行った。火鉢の傍に置いた着物の中で黒猫も丸くなり、真穂もその何枚もの着物の間に横になった。
真穂はしばらく黙って目を閉じていた。しかし、どういう訳かなかなか眠れない。仕方なくもう一度体を起こして障子の方を見つめた。満月の光が障子の向こうから差し込み、薄っすらと影を作っている。
『寝られぬのか』
声の方に顔を向けると、黒猫も体を起こして座っていた。
「ごめんなさい。月の光が明るいからかな? 普段は月の輝きなんて気にしたことも無かったけど、こんなに明るい月を見たのは初めてかも」
『そうじゃな。そなたたちの世界は、夜でも無闇に明るかったのう』
黒猫はこちらを見て言った。
『不安なのであろう』
「えっ?」
『もはや武田家の命運は尽きておる。いつ敵が攻めてきてもおかしくない。その中で、いくら上杉家が受け入れると言っていても、そこまで無事に逃げることができるのか』
「それは……」
黒猫の言う通りだった。このような戦国時代に、周りが敵ばかりの中で逃げ切るというのは簡単な事ではないだろう。しかも、真穂はこの国の大名である武田勝頼の娘、梓姫の姿なのだ。自分を拉致したと思われる穴山の手の者は、穴山家に嫁に迎えようとしたのかもしれないが、それ以外にも武田家の一族を捕えて織田や徳川に引き渡し、褒美を貰おうと考える人間も出てくるだろう。
「梓姫は、怖くはないの?」
『ない……と言ったら嘘であろうな。死ぬのは怖い。いや……おそらく私は一度、それを経験しているから尚更じゃ』
「そう……よね」
『私は誤った道を選んだ。しかし、そのせいで、自分だけでなく、虎政もお富もおそらく死なせてしまった。だから、今度は私のために、虎政やお富のためにも絶対に間違うことはできぬ。その上、今はこの世界の人間ではない、そなたたちもおるのじゃからな』
そう言って黒猫はこちらを向いて頷いた。そうだ。真穂はどうやっても生き抜かねばならない。そうしなければ、おそらく黒猫もサビ猫も猫のままであり、私も伊織も元の世界に戻ることはできない。
「ありがとう。私も、絶対に頑張るわ」
真穂はそういって黒猫を抱き寄せた。




