(12)
真穂が無事に城に戻ると、お富は涙を流して喜んだ。共に戻った志月と伊織も梓姫の後ろから部屋に入った。
「本当にようございました。もうお富は、死んでお詫びしようかと」
「心配をかけてすみません」
真穂が頭を下げると、お富はさらに深く頭を下げた。すると志月が言う。
「大丈夫じゃ。そなたが早く様子を教えてくれたおかげで、私も早く姫を見つけることができたのじゃ。礼を申す」
「長までそのような……もったいないお言葉でございます」
うう、とお富は嗚咽し始めた。すると志月が続けて言った。
「もうそのくらいにせよ。それより、前よりも城の兵が増えているようじゃが、勝頼公がお戻りになったのか」
「は、はい。夕方頃にご帰城されたのですが……」
そこでお富は着物の袖で目頭を拭く。
「どうやら、高遠のお城が落ちたようでございます」
『なんと! では、仁科の叔父上は……』
真穂の隣に座っていた黒猫がハッとしたように言った。
「殿は高遠城の救援に向かっておったようなのですが、穴山様の裏切りを聞いて、救援は諦められて帰城を始めたそうです。しかしその後、高遠城が落ちたという話が味方に広がり、どうやらそれから兵が次々に脱走し、城に戻ってきたのは千人にも満たぬようで」
お富は暗い顔をして答えた。高遠城は勝頼の実の弟にあたる仁科盛信が居城とし、必死に戦ったものの、織田軍の大軍の前に落城してしまう。伊織もその史実を思い出し、やはりその通り進んでいることを実感する。
「それで、父上は?」
真穂が尋ねる。
「大変お疲れのご様子でしたが、そのまま重臣方と話し合いをされているようです」
「そうですか——」
真穂がそう答えると、その場はしんと静まり返ってしまった。するとそれに気づいたのか、お富が口を開いた。
「それにしても……姫様がご無事で何よりでございました」
お富はさっきよりも少し明るい表情になっていた。それを見て、真穂も明るく答える。
「お富のおかげです。……では、そろそろ休みましょうか」
*****
伊織は梓姫の部屋を出て、城を出ようと玄関に向かっていた。すると、向こうから髭を生やした目つきの鋭い男が歩いてきた。彼はこちらに「おう、虎政」と声をかけてきたので、慌てて立ち止まり頭を下げると、向こうも立ち止まった。
(信濃の真田昌幸様だ)
背負った風呂敷の中からサビ猫の声が聞こえた。昌幸はあの幸村の父であり、末期の武田家を支え、それが滅亡したのちも、徳川や北条といった周辺の大大名を相手にして生き抜いていく名将だ。
「梓姫様を取り戻したそうじゃな。大義であった」
「はっ——」
姫の拉致のことはまだ勝頼には報告していないはずだが、彼はサラッと言った。やはり、彼はかなり情報通のようだ。すると、昌幸は周りを見回してから、さらに一歩近づいて小声で言った。
「姫の越後への脱出のことは、そなたの父上からも、月の里の長からも聞いておる。既に菊姫様にも密使を送った。明日にでも出立できるよう、そなたも支度しておけ」
「明日……ですか」
「そうじゃ。殿にもご了解を取っておる」
「分かりました。それで、殿はこれからどうするのですか?」
「うむ……。殿はワシの策には応じなかった。今宵がこの城で過ごす最後の夜になるかもしれぬ。それにしても、ワシが作ったこの城をこのように早く捨てようとは、もったいないことじゃ」
そう言って、昌幸は空を見上げた。月の光が彼の顔を白く照らしている。それに何と声を掛けてよいか分からず、伊織は黙ってその様子を見ていた。すると、昌幸はこちらを向いた。
「虎政。今宵はゆっくり休むがよい。また、明日会おう」
そう言って、昌幸はどこかに去って行った。彼の意見が採用されず、城での最後の夜となるという事は、勝頼は決めたのだ。この城に籠城することも、昌幸の信濃の領地に逃げることもしない。史実どおり、小山田氏を頼るということを。
(ちょっと良いか)
サビ猫の声が聞こえた。風呂敷を降ろすとサビ猫が廊下にタンと音を立てて降りる。
『某は真田様の言った話を姫様に伝えてきてから館に戻る。そなたは先に戻って準備しておれ』
「えっ? 準備って言われても……」
『では、行くぞ』
そう言ってサビ猫は振り返って走り出そうとした。その時、向こうからちょうど誰かがやってきた。
『と、殿——』
サビ猫は思わずそこに座って頭を下げた。やって来たのは勝頼だった。伊織も慌ててそこに膝をついて頭を下げる。
「虎政。昌幸から話は聞いた。速やかに準備せよ』
頭の上からその声が聞こえたので、「ハハッ」と答えて頭を上げた。すると、勝頼は「うん?」と不思議そうな顔をした。
「これは、そなたの猫か」
「あっ……はい。姫様の猫と仲が良いので、よく連れてきています」
そう答えると、勝頼はそこに座ってサビ猫の方を見た。サビ猫もやや驚きながら勝頼の方を見ている。すると、勝頼は手でサビ猫の頭をそっと撫でた。
「ほう、そうか……。よき猫のようじゃな」
彼はその猫の姿をじっと見ていたが、やがて立ち上がって去って行った。




