(10)
翌日になり、朝ご飯を食べてから城に行った。城の玄関に入り、参上した旨を声に出したが、誰も出てこない。まだ声が小さいのかと思って、何度か叫んでいると、廊下の先から一人の侍女がやって来た。
「虎政様でございますね」
「そうですが、どうかしたんですか」
「実は、梓姫様ですが、今朝ほどから少し熱が出ているようなのです。それゆえ、今日はお引き取りいただけませんでしょうか」
「そうですか……。分かりました」
熱を出したと聞いて心配にはなったが、あまり無理をさせてもいけない。そこで振り向いて玄関の近くまで戻った時、抱えていた風呂敷包みからサビ猫が少し顔を出した。
『ちょっと待て。そこを左の方に行け』
「どうしたの?」
『いいから、黙って歩け』
サビ猫の指示を受けて廊下を進んでいくと、一つの部屋に入った。板張りのその部屋は、火鉢もなく、かなり寒さが堪える。すると、サビ猫は風呂敷包みから出て板の間に降り立った。
『すまぬが、ちょっと気になる事があってな。某は様子を見てくるから、ここで待っておれ』
そう言うと、サビ猫は伊織が尋ねようとする前に、障子を器用に開けて、飛び出して行ってしまった。静かな部屋の中で、一人になると余計に寒さが感じられてくる。
(そうだ。火鉢がないのかな)
そう思って引き出しを開けてみるがそれらしいものはない。しかしよく考えれば、それがあったところで、どうやって火を起こすのかよく分からない。伊織は大きくため息をついて、着物の上から自分の腕をこすって体を温めていた。
するとしばらくして、障子が開いた。サビ猫がそこから走って来る。
『来い! 姫様も誰もおらぬ』
ハッとして立ち上がり、サビ猫の後を追っていく。そして、梓姫の部屋の前までくると、急いでその障子を開けた。
ガラッ——。
その部屋には誰もいなかった。火鉢だけが残っているが、よく見るとその火も消えている。
「誰もいない……。どこかに出かけたんじゃない?」
『いや。昨日、姫様は出かけるとは申しておらなかった。それに、お富や他の侍女の姿もないし、さっき玄関に来た侍女も見かけぬ顔だった。何かおかしいぞ』
そう言ってサビ猫は鼻をびくつかせた。そして、再び廊下の方に走り出す。「待って」と言いながらそれを追いかけると、端の方の倉庫のような建物の前で止まった。
『開けられるか』
サビ猫が尋ねるので、その引き戸の取っ手に手をかけて横に引く。重かったが、何度かガタガタと動かすと、ようやくそれが開いた。
「あっ!」
思わず叫び声を上げた。そこには、縛られて口を紐のようなもので結ばれた女性が何人も倒れていた。その中に、お富の姿を見つけ、慌ててその前に立って、紐をほどいていく。
「一体どうしたんですか」
紐をほどかれたお富は、必死に声を上げた。
「姫様が……何者かに連れ去られました!」
叫ぶお富と、他の侍女達の縄をほどきながら、話を聞いていく。
「まだ夜中でございました。外回りの者が不審な者を見つけて捕らえたという話があったのです。蓮姫様たちは、ちょうど昨日の夕刻から恵林寺に詣でていて不在で、城内の人間も普段より少なかったので、私はやや不安になりました。そこで、姫様の部屋に報告に行きましたが、特にご心配では無かったようなので、そのまま部屋を下がったのです。そして、それからどれくらい経った頃でしたでしょうか」
「何があったんですか?」
「それが、よく分からないのですが、姫様の隣の部屋で寝ていた私は、いきなり何人かの者に縛られて口を塞がれました。姫様の部屋の方でもガタガタと音がしていたので、おそらくもっと人数はいたのでしょう。そして、私達は先ほどの倉庫に閉じ込められてしまったのです」
「では、姫様はどこに連れて行かれたのか分からないのですか?」
伊織が尋ねると、お富は申し訳なさそうに頷いた。
『まずいな……。真穂殿だけでなく、姫様も一緒のようだな。匂いがせぬわ』
足元でサビ猫が言う声が聞こえてハッとした。
『確かに警備の兵は少ないとはいえ、城の奥まで入り込んで姫を連れ去るとは。誰か城内に手ほどきした者がいるかもしれぬな』
サビ猫の声に伊織も頷いた。
「あの最初に出てきた人か」
小声で言うと、サビ猫は振り返って走り出した。伊織もその後ろから追っていく。玄関の辺りまで来て、サビ猫は再び鼻をびくつかせる。
『あっちだ!』
そう言ってサビ猫は外に向かって走り出した。伊織も慌てて草履を履いてその後を追う。しかし、少し行った所でサビ猫は止まっていた。そこに追いついて伊織は尋ねる。
「何か分かった?」
『ダメじゃ。匂いがない。ここから先はもう分からぬ』
サビ猫は残念そうに首を振る。伊織もどうしたら良いか分からなくなったが、向こうの方から何人かの人間が走って来るのが見えた。
「志月さん!」
伊織は声をかけてその方に走った。それは白い着物を着た志月と里の女性のようだった。
「伊織殿。何かあったのか」
「山本さんと梓姫が、誰かに連れ去られたみたいなんです」
「なんと! 不穏な感じがあったものですから里を下りたのですが、少し遅かったようですね」
「すみません。蓮姫様たちも不在で、ちょうど城内の人が少なかったみたいです」
「仕方ありません。……誰か城内に間者が紛れ込んでいたのですね。殿も出陣中ですし、守りの手薄な時を狙われたのでしょう」
『しかし、黒猫の姫様までを奪うとは、何たる大胆なことを。一体誰が……』
サビ猫は志月を見上げながらそこまで言ってハッとしたようだった。
『まさか……梅雪が』
「可能性はあります」
志月は頷いて言った。
『それでは、駿河まで連れていかれてしまうのではないですか』
サビ猫が志月を見上げて尋ねると、彼女は首を振った。
「いや、それはないでしょう。さすがに姫様を陽の高いうちに遠くまで運ぶのは人目にもつきます。今にも徳川方がこの国に攻め寄せようとする時に、そこまでして姫様を連れていく必要はありますまい。それよりも、きっとどこかに隠れて、織田か徳川の兵が来るのを待つのではないかと」
『くっ……卑怯な奴らめ』
サビ猫が地面を蹴った。
「志月様。何とか場所が分かりませんか」
「そうですね……。まだ城内に間者がおるかもしれませぬ。伊織殿たちが表立って動いて、逆に敵に知られて姫様の身に何かあっては大変です。それよりも姫様が居なくなったことに気づかぬ振りをしておれば、敵も安心して油断するでしょう。その間に我らで手分けして探してみますので、少しお待ちいただけますか」
『それはお願いしたいのですが、縄で縛られていたお富や侍女たちをさっき出してしまったのですが』
サビ猫が言うと、志月は少し笑って答えた。
「では、お富たちには少しどこかに隠れてもらうようにいたしましょう」




