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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
37/55

(9)

 伊織と真穂が月の里の者に案内されて城まで戻ると、お富が慌てて玄関まで出てきた。


「どちらへ行かれていたのですか。里長は少し前にお帰りになったと伺いましたが」


「えっ? 里長が帰った?」


「はい。奥の間で姫さまとお二人で話したいとおっしゃられるので、私は姫さまのお部屋の方で待っておったのですが」


 伊織は真穂と顔を見合わせた。志月からは、お富達は月の里に来た記憶は無くなっているはずだと聞いていたが、どうやらお富の中では、志月が城に来ていたことになっているようだ。


「ええと……ちょっと、外まで見送りに」


 真穂がそう答えると、お富は頷く。


「そうでしたか。先ほどから蓮姫様がお呼びでしたのでお探ししておりました」


 そう言われて、そのまま蓮姫の部屋に向かった。お富の案内に続いていき、奥の間の部屋の前で声をかけると、侍女のお常が中から障子を開けた。伊織は障子の外に座ったが、「虎政も入れ」と声が掛かったので、部屋に入り端の方に座り直す。


「来たか。遅かったのう」


「すみません。何かありましたか?」


「うむ。実はのう。梅雪が徳川に裏切ったらしい」


 蓮姫は小声で短くそう言った。真穂はハッとした様子で伊織の方に顔を向ける。さっき黒猫から聞いた通り、やはり史実通りに歴史は動いているようだ。


「あ奴は、我が武田の一族に連なる者でありながら、駿府城を簡単に明け渡してしまったらしい。全く、口惜しいことよ」


「父上は今、どこにいるのかご存じですか?」


「分からぬ。信濃の高遠城にいる弟の盛信様の援軍に向かったとの話は聞いたが……」


 蓮姫は大きくため息をつく。すると、風呂敷の中に隠れたサビ猫の声が聞こえた。


(駿府城が開城したとなれば、敵は富士川沿いに簡単に北上してくるぞ。早ければ数日でここまで来るかもしれない)


「本当?」


 その声を聞いて伊織はドキッとして口に出してしまった。


「何じゃ。そなた、何かよき策があるか」


 蓮姫が伊織に声を掛けてくる。


「あの……ここは、よく考えなければなりません。この城に籠城するのか、あるいはどこかに出て戦うのか。それとも……」


 そこまで言って伊織は口を閉ざした。「逃げる」という選択肢を蓮姫の前で言って良いものかどうか、まだ自信が無かった。


「それとも……何じゃ」


「いえ……。とにかく、殿が戻ったら、すぐに考えましょう」


 そう答えると、蓮姫も静かに頷いた。



*****



 日が暮れたので、一旦、城を後にして、甘利の館に戻った。そして、父の虎勝の部屋に歩いていき声をかける。その返事を聞いてから障子を開けると、ちょうど虎勝は夕飯を食べているところだった。


「どうした。急ぎの話か」


「はい。昨日のお話です」


 そう伝えると、虎勝は横にいた母に下がるように言った。食器を膳の上に置いて、彼はこちらを見つめてくる。


「姫様に会って、昨日の父上の話を伝えたところ、姫様はご了解されました」


「なんと……」


 虎勝はそこで驚いて黙ってしまった。


「そうか……。あの梅雪も裏切ったようじゃ。姫様もいよいよじゃとご理解いただいたのかもしれぬのう」


「はい。それで、姫様の指示で、この話を月の里の長にも伝えました。長は、上杉方や信濃近辺の歩き巫女に使いを送り、準備を進めるとのことです」


「なんと。月の里の長が手助けしてくれるのか。歩き巫女の者どもが動くのであれば安心じゃ。大儀であった。そなたはいつでも出立しゅったつできるように備えておけ」


 わかりました、と虎勝に頭を下げて、伊織はその部屋を去った。自分の部屋に戻ると、サビ猫は風呂敷包みの中から畳に降り立った。


『これで大丈夫であろう。志月様の命があれば、信濃におられる歩き巫女の長を通じて、上杉家はもちろん、周辺の他の歩き巫女の者たちの手も借りることができよう』


「うん……」


 サビ猫は障子の方に顔を向けた。そして、しばらくして伊織の方を振り向く。


『それにしても……武田家は本当に滅びてしまうのか』


「うん。僕が知っている歴史では、確か勝頼公が近いうちに方針を決める。新府城に籠城するか、真田氏の領地に逃げて再起を図るか。それとも小山田氏を頼るか」


『小山田……か。かの者は信じられぬ気がする』


「うん。でも結局、小山田氏を頼った勝頼公は、彼に裏切られて、天目山で自害することになる」


 そこまで伊織が言うと、サビ猫はため息をついてから、黙って再び白い障子の方を見つめた。


「でも、僕達にはこの先のことが分かってるんだ。山本さんを越後の上杉まで連れていくように、僕達がうまく伝えれば、勝頼公だって逃げるという選択だってできるんじゃないか?」


『籠城しても後詰もない中で、最良の策は間違いなく信濃の真田の領地で再起を図ることだ。真田の本拠である上田なら、上杉家の援軍もすぐに来るだろうし、きっとそれは殿も分かっておられる。しかし、それは武田家が本拠とし続けたこの甲斐の国を捨てることになる。殿はそれだけはできない。絶対に』


 どうして、と尋ねようとしたが、こちらを見上げるサビ猫の寂しそうな目を見てそれは無駄だと思った。それが本当の戦国の武士なのだ。負けると分かっていても、自分の生まれ育った国を捨てることはできないのだ。


「良かったのかな? 上杉を頼っても」


 伊織が尋ねると、サビ猫は少し黙っていたが、大きくため息をついてから答えた。


『某が産まれる前の話だ——。実は父上は、お館様と謙信公が戦った川中島の戦いで弟を失い、自らも左腕に大きな怪我をして、以来戦には出ることができなくなった。重臣の中でも武のほまれが高かった甘利家がそのような状況になり、家臣団の中からもそれを悪く言う者もいる。ゆえに上杉家はわが甘利家にとっては仇敵。……しかし、それでも上杉を頼ると父上は決めたのだ。初めから某などが何か言えるものではない。それに……』


「それに?」


『姫様の前のご記憶では、某は姫様のお命を守れなかったのであろう。二度も同じ過ちを犯せぬわ』


 そう言ってサビ猫は障子の方を向いて黙ってしまった。その様子を伊織は見つめる。考えてみれば、虎政も武士だ。勝頼と同じく、父の虎勝は主君のためにおそらく討ち死に覚悟で最後まで武田家のために戦うだろう。その時に、虎政は主君のために戦うことはできない。


「生きることは、恥じゃないよ」


 伊織はふとそう言った。サビ猫は横を向いたまま耳だけをぴくっと動かした。


「ごめん。僕達の時代では、この国の中に命を懸けるという意味での戦いはないんだ。僕もそうだったけど、生きている事なんて当然過ぎて誰も何も考えない。毎日毎日、誰かを好きだとか嫌いだとか。誰がカッコイイとか、頭がいいとか。運動ができるとか、お金があるとか、そういう事ばっかり気にしてるんだ」


『……』


「だからきれい事に聞こえるかもしれないけど、誰かのために必死に生きることは、全然おかしくないと思う。そのために武田家を、そして両親も捨てることになっても、君は間違いなく梓姫を生かすことができる。それは絶対に誇るべきことだと思う」


 サビ猫は少しだけ伊織の方に顔を向けた。しかし、視線が合うと、慌てたようにプイっと顔を背ける。


『フン。そなたになど分かるものか……。ああ、疲れたのう。先に寝るぞ』


 そう言って、サビ猫は部屋の隅にあった火鉢の傍に歩いて行き、そこで丸くなった。

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