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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
4 月と猫
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(8)

 真穂は、神社の裏手から少しだけ歩いた小さな建物の中に来ていた。


「まさか、こんな所で温泉に入れるなんて思わなかったわ」


 そこは前に志月から聞いていた天然温泉だった。木製の湯舟は一人用くらいの大きさだが、十分に足を伸ばせるくらいはある。やや茶色っぽく濁った温泉に浸かり、腕を撫でたりしてみる。石鹸やシャンプーはもちろんないが、建物はサウナのように密閉されていて、体がポカポカと温まっていくのが心地良い。


『ここには幼き頃からよく来ておったわ。私も温泉は好きじゃ』


 黒猫は湯舟の外の床の上に座っていた。さすがに湯舟の熱い湯に入ってはいないが、猫の体では湯気に当たるくらいがちょうど気持ちいいらしい。


「梓姫は、私の世界で1週間くらい過ごしたんでしょう? 平気だった? お母さんとか、心配してなかった?」


『そうじゃな。月の里の末裔の者がうまく伝えてくれたのもあるのだろうが、あまり心配はしておらなかった。それに、真穂の母君は、優しい方であったぞ。特に、あのほうとうの味は忘れられぬ。味噌の味も良かった』


「ああ、お婆ちゃんの味噌ね。この前、おばあちゃんの家からたくさんもらってきていたから。そう言えば、私も何度かこの世界でほうとうを食べた気がするわ。それで、学校の方は?」


『琉美と言ったか。そなたの友人のあの者がうまくやってくれたから、私はただ黙っておれば良かったのじゃ。それに、学校に行く時と帰る時は——』


 そこでハッとしたように梓姫は顔を背けた。それを真穂は不思議に思って尋ねる。


「どうしたの?」


『いや、それが……伊織についてきてもらっておった日もあった』


「ええっ!」


 真穂は驚いて声を出した。家の方向も違うのに、伊織と一緒に登下校する。それは、はたから見れば、付き合っているとしか見られないだろう。そう思うと胸が高鳴っていく。すると、黒猫が静かに口を開いた。


『そなた……伊織のことを慕っておるのか』


 急に言われて真穂はさらにドキッとする。慕う、つまり好きかということだ。


「ええと、それは……」


『告白されたのであろう。机の中の日記を読んだ』


「ええっ! もう、何やってるのよ』


 真穂が思わず黒猫を睨むと、黒猫は少し申し訳なさそうに頭を下げた。


『すまなかった。……しかし、気になっておるのであろう』


 黒猫に言われてさらに恥ずかしくなり、真穂は黒猫から顔を背けて湯舟に少し体を沈める。


「うん……。たぶん、好きなんだと思う。伊織くんの告白にまだ答えてはないから、彼は知らないと思うけど。だから、彼があなたに連れられてこの世界にやって来てくれたと分かった時は、本当に嬉しかったの」


『そうか——』


「あの……でも、どうしてそんな事を?」


『いや……伊織は、良いおのこじゃと思う』


 黒猫は真穂の方を見つめて言った。


『あ奴は、学校の行き帰りの事はもちろん、私の言うことを理解し、何かと私を助けようとしてくれた。伊織の姉の海未もそうじゃ。まあ、私がそなたの姿をしていたことが、伊織が優しくしてくれた一番の理由かもしれぬが』


「そ、それは……」


『この世界に戻らなければ、私は伊織を慕っておったかもしれぬ』


 ええっ、と真穂は声を上げた。すると、黒猫もフフっと笑う。


『冗談じゃ。……しかし、不思議なことじゃと思ってのう』


「不思議?」


『実はのう。私は……虎政のことを慕っておるのじゃ』


「ええっ! 何それ」


 思わず大きな声を出して、真穂は体を起こした。


「それって、どういうこと?」


『いや……その通りのことじゃ』


「それで、その事は虎政さんには伝えたの?」


『うむ……。しかし奴は、驚いてしまってのう。それこそ顔を真っ赤にして、それだけはご勘弁を、と土下座しておったわ』


 梓姫はフフっと笑った。そう言えば以前、虎政に昔のことを何も覚えていないのかと尋ねられたことがあった。何を彼は言いたいのだろうとあの時は思ったが、今思えば彼はきっとその事を覚えているか確認したかったのだろう。彼女に告白され、驚いて頭を下げ続ける虎政。その様子を思い浮かべると、真穂も少しおかしくなった。


『しかしのう。少し前に、父上が私に縁談を持って来た』


「縁談?」


『あの穴山家との縁談じゃ』


「ええっ! 穴山って、あの梅雪っていうおじさん?」


 前に、城内の廊下で会ったその中年の男のことを思い出す。すると梓姫は真穂の方を見て楽しそうに笑った。


『梅雪ではない。あ奴の息子じゃ』


「ああ……そういうこと」


『しかし、まだよわい10を少し過ぎたばかりの子供なのじゃぞ』


「なっ、何それ」


『私は虎政を慕っておる。そのような中での縁談でもある。それで父上には、正直に、近くに慕っている人間がいる、と申し上げた』


「す、すごいね……。それで、父上は何と?」


『笑っておった。このような美しい姫に慕われる人間は果報者じゃな、と』


 黒猫もそこでフフっと笑った。梓姫がはっきりと縁談を断り、他に好きな人がいると言った様子を想像する。さすがに、あの勝頼も相当困ったのだろう。政略結婚が大半であると思われるこの時代に、本当の恋愛結婚がどのくらいあったのか分からないが、話の様子から、少なくとも勝頼も梓姫の答えを否定的に捉えていなかったことだけは確かなようだ。


『私は虎政を慕っておる。それに、そなたは虎政とよく似た伊織に慕われておる。どうやら、我らはよく似ておるようじゃ。本当に不思議なことではあるがのう』


「そうね。でも、梓姫の方が、私なんかよりずっと綺麗」


『そうか? 真穂の方が髪もサラサラとして綺麗に結うこともできたし、肌も私よりずっと綺麗だったと思うぞ』


「そんな事ないと思うけど……。でも、とにかく私達はお互いに頑張らないとね」


『どういうことじゃ?』


「絶対に私達はこの世界で生き抜くの。そして、あなたは人間に戻り、私も元の世界に戻って、お互いの好きな人と結ばれるように」

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