(7)
どこからか冷たい風が入ってきた。嗚咽する黒猫を志月が抱き上げて撫でていく。しばらくして、黒猫は「大丈夫じゃ」と言って、床に降り立って座った。志月も頷いてから、真穂の方を向く。
「真穂殿、覚えておいででしょうか。私が初めてあなたにお会いした時、私は二つ、疑問を投げかけました。一つは、どうして真穂殿がこの世界にやって来たのか。もう一つは、本物の梓姫様はどこに行ってしまわれたのか」
「そうでした。しかし、梓姫は、ここにいます」
「ええ。ただ、猫の姿です」
『本当に、さっぱり分からぬわ。我らには何の繋がりもないはずなのじゃが』
黒猫がため息をつく。すると志月は腕を組んでしばらく考えてから口を開いた。
「そうでしょうか……。繋がりは、あるのかもしれません」
『どういう事じゃ』
「虎政殿と伊織殿のことです」
志月は伊織の方に顔を向けた。
「僕たちですか?」
「そう。あなた方はとても似ていたのですよね」
『ああ、それは確かに。私も初めは虎政じゃと思って——』
黒猫は伊織の方を向いてそう言いかけて、口をつぐんだ。伊織も目が合ってドキッとする。初めに彼女に抱きつかれたことを思い出したが、彼女もそのことを言おうとしたのだろうか。
「どうしたのですか?」
『いや……それよりも似ていることがどうしたというのじゃ』
「姫様と真穂殿という別の人間の傍に、虎政殿と伊織殿というよく似た人間がいた。そこには何か理由があるのかもしれません」
『理由のう……。真穂は思い当たることがあるか』
黒猫は真穂に問いかけたが、彼女もよく分からないというように首を傾げた。
「分からないわ。私も、この世界に来てから数週間、必死に過ごしてただけだから……」
「えっ? 数週間?」
伊織は驚いて尋ねた。
「そんなに時間が経ってるの?」
「カレンダーがないけど、自分で数字を紙に書いてるから、多分そのくらい経ってるわ」
「そんな……梓姫は未来の世界では1週間しか過ごしていないよ」
それを聞いた真穂も驚いた様子だったが、全くよく分からない。記憶が入れ替わってからの時間の経過が違うことに、何か意味があるのだろうか。すると、志月が額に手を置いて考えながら言った。
「そう言えば、少し前に一度だけ黒猫に姫様の記憶が乗り移ったことがありましたね」
「ああ、そうでした。勝頼公が木曾を征伐に行くと言って部屋に来た時でした」
『そうであったな。あの時は、私も前の記憶があって、父上が大敗すると思ったので、出陣しないように申し上げようとした。それを真穂が父上に伝えてくれたのじゃ。……しかし、結果は変わらなかった』
「どうしてその時、姫様は黒猫に意識が移ったのでしょうか」
志月が尋ねた。確かに、意識が戻ったのはその一瞬だけで、それからこの世界に来るまでそのようなことは一度も無かったはずだ。すると、志月は土瓶を持って伊織たちの茶碗に茶を注ぎながら、誰に言うともなく口を開いた。
「姉上の願いは姫様がご無事で生きられることだった。一方で、姫様はこれから先、敵に追いつめられるという記憶がある」
そして再び座った彼女は、黒猫の方を見た。
「これは私の推測なのですが……姫様は一度、命を失われたのではないかと思うのです」
『なっ、何と。私が……』
黒猫そこで絶句してしまった。しかし、志月は続ける。
「しかし、月の石の力で、姫様は記憶を先の世界の人間に繋いだ。そこには側に仕えていた虎政殿とよく似た伊織殿がいた。よく知った顔の人間であれば姫様も違和感なく過ごすことができる……」
『じゃ、じゃが……真穂がどうして梓姫としてこの世界に来る必要がある』
「それも同じかもしれません。梓姫としてやってきた世界にも、伊織殿とよく似た虎政殿がいた」
「でも、姫様が亡くなられたとして、どうして少し前の世界に私が来たのでしょうか」
真穂が尋ねると、志月はじっと茶碗の中を見つめていたが、呟くように言った。
「生きよ……ということかもしれませぬ」
「生きよ?」
「はい。姫様の命をお繋ぎせよという願いです。前に姫様の記憶がある木曾攻めの前夜は、姫様が前に生きられた時の記憶をもって、木曾攻めをお止めする機会であった。それはすなわち武田家の——いえ、姫様自身が生き残る道に繋げることができたかも知れなかったのです」
彼女の言葉にハッとすると、伊織の頭の中にふと一つの考えが浮かんだ。
「あの……梓姫に聞きたいんだけど」
『何じゃ、伊織』
黒猫がこちらを振り向く。
「梓姫には、前に敵に追いつめられた時までの記憶があるんでしょう。だから、勝頼公が木曾に出るのを止めようとした」
『そうじゃ』
「だとすると、これから起こることも大体は分かるんでしょう。それなら、自分がたどった間違った道を避けることができる」
『……』
「僕は山本さんを助けようと思って、この世界にやって来た。でも、山本さんは望んでここに来た訳じゃない。だから、お願いです。たとえ、元の世界に戻れないとしても、せめて山本さんの命だけは助けてほしいんです」
「伊織くん——」
真穂が伊織の方を見つめる。「お願いです」と伊織は志月に頭を下げた。すると、志月はゆっくりと頷いた。
「そうかもしれませんね」
皆が黙って志月の方に顔を向けた。
「伊織殿の言ったことで、私も一つ気づきました。梓姫様は、これから武田家に起こることの記憶がまだございますな」
『そうじゃな、大方のことは分かる。近いうちに、駿府城の穴山が徳川に裏切り、織田と徳川の連合軍が一気にこの甲斐に攻め寄せる。そして、我らはそれから逃げようと、山中に入った所を、追手に攻められるのじゃ』
『な……何と申されましたか。あの穴山様が……』
驚くサビ猫に黒猫は頷く。
『しかし、前の木曾攻めの時にも、私は真穂を通じて大敗すると父上に伝えたが、何も変わらなかったのじゃぞ』
「そうですね……。しかし、そうでもないかもしれませぬ。この世界の他人の行いを変えることは難しいですが、自分たちの行いを変えることはできますからね」
『自分たちの行い?』
黒猫が首を傾げると、志月は笑顔になって言った。
「ええ。真穂殿は、梓姫様のお姿をしていますが、姫様ではありません。ですから、姫様であれば選ばなかったであろう道を選ぶこともできるのです」
「選ばなかった道——」
真穂が呟くと、志月は頷いてから、祭壇の方を振り向いた。
「姉上の力は底知れぬものがありました。ですから、その月の石にまだどのような力が込められているのか、私にも正直なところよく分かりませぬ。ただ、少なくとも姉上が梓姫様に生きて欲しいと願っていたのだとしたら、今の真穂殿が梓姫として生き続けることができれば、すなわち姉上の願いが叶うことになります」
真穂は黒猫と顔を見合わせる。
「つまり、真穂殿を確実に生かす道を選ぶことができたならば、もはや石の力は必要ありませぬ。ですから、その時には梓姫様も元のお姿に戻り、真穂殿も元の世界に戻れるのかもしれぬと」
志月はじっと祭壇に飾られた鏡を見つめていた。黒猫も同じ方を見つめる。
「もしかして……」
伊織が口を開くと、サビ猫もこちらを見上げた。
『姫様……いや、真穂殿を生かす道か』
『どうした? 何か妙案でもあるのか』
黒猫がこちらを振り向く。真穂も不思議そうにこちらに顔を向けたので、伊織は大きく頷いた。




