(4)
甘利の館に戻ると、一人の中年の女性が玄関に出てきた。
「帰りましたか」
母上だ、と胸に抱えたサビ猫が言った。
「ただいま……戻りました」
「おや。虎丸も連れていたのですか。奥の間で父上がお待ちですよ」
そう言って母は先に姿を消した。草履を脱いでから、サビ猫の案内で廊下を進み、サビ猫を床に置いて、ぼんやりと灯りがついた障子の前に座った。
「虎政、ただいま戻りました」
入れ、という声を聞いて障子を開ける。中には髭を生やした、見るからに武将というような男が座っていた。これが虎政の父の甘利虎勝のようだ。無骨な見た目にドキドキしてしまい、無礼のないように、離れた場所で正座して頭を下げる。
「どうしたのじゃ。そのように改まることはあるまい」
「はい——」
そう応えて、少しだけ立ち上がって再び座る。隣にいたサビ猫は「もう少し進んでもよいぞ」と言ったが、面倒なので動かなかった。この世界で他人と会う時の距離感が今一つ分からない。
「ふむ……まあよい。今日は、蓮姫様がお暴れになって、大変だったそうじゃの」
「もう知っていたんですか」
「うむ。それにしても、梓姫様が止めたというのは本当か」
『いや、某が刀を……』
サビ猫が隣で言う声が聞こえたが、無視して「はい」と頷く。
「本当にあのお方は、お美しいだけでなく、最近みるみる心が成長されているようじゃ。武田家がこのような状況になければ、よき縁談もたくさん来ておったであろう」
虎勝はそう言って、湯飲みを口に持っていく。そして、しばらく部屋の隅の方を見ていたが、再び口を開いた。
「そなたと少し、大事な話をしようと思ってのう」
「話……とは?」
「この甘利の家のことじゃ」
家、と繰り返すと、虎勝はこちらを向いた。
「そなたも分かっておるだろうが、いま武田家は存亡の危機にある。殿も必死に戦っておられるが、周りを支える者に優れた者がおらぬ。重臣であっても離反していくばかりじゃ。このままでは、この甲斐の国に敵が押し寄せて来る日も近い」
その歴史は知っている。正確な日付までは知らないが、織田・徳川連合軍は今の長野と静岡の方から二手に分かれて攻め寄せ、勝頼は最後に天目山で自害することになる。そして、伊織は今、その「攻められる」方の武田家にいるのだ。そう思うと、ごくっと唾を呑み込んだ。
「もちろん、ワシは殿を支えて最後まで戦うつもりじゃ。それが信虎公の時代からの重臣である甘利家の務め。……しかしのう。そなたにまで、同じような道を辿らせるべきかどうか、正直迷っておる」
『なっ、何を仰せになるか! 某は父上とともに最後まで戦いますぞ』
サビ猫の声が聞こえたが、伊織は虎勝の方を見つめたまま黙っていた。虎政の年齢は知らないが、おそらく自分とほとんど変わらないだろう。たとえそれがこの時代の武士の道だとしても、そのような若者が、無為に命を捨てるということが正しい選択なのだということは、どうしても理解しがたい。
「父上は……一体、どうしろと?」
そう尋ねると、虎勝は再び部屋の端の方に顔を向けた。
「梓姫様を、越後の上杉家に逃がす手伝いをしてもらいたい」
『上杉に……。父上、一体何を……』
サビ猫が驚く声を聞きながら、伊織はじっと虎勝の姿を見ていた。
「知っての通り、上杉家はかつて御館様が死闘を繰り返した仇敵。しかし、今は御館様の娘である菊姫様が嫁がれた盟友じゃ。今の当主である景勝公も、まだ若いながら先の謙信公のような義理堅い方だと聞いておる。かの家を頼れば武田家に万一の事があったとしても、姫様のお命は助かるだろう。それに……お前もじゃ」
虎勝がこちらを振り向く。
『な、何を仰せになるか! 某は最後まで武田家のために戦いまする』
伊織はそう言うサビ猫の声を聞きながら黙って虎勝を見つめる。
「そなたは、幼き頃より姫様の近習として仕えた者。きっと、姫様もそなたが傍におれば、お心安く過ごせると思うのじゃが」
虎勝は苦しそうな表情をしていた。そうだ。重臣として長く使えてきた家ならば、主君とともに討ち死にすることが武士の道かもしれない。しかし、まだ若い自分の子供まで巻き添えにするのが正しいことなのか。彼はそれを迷っている。そう思い至ると、伊織は静かに答えた。
「考えさせてもらえますか」
『なっ、何を、そなたは……』
サビ猫が慌てたようにこちらを見上げたが、それを無視して、伊織は「これにて失礼します」と言うと、サビ猫を抱き上げてその部屋を出た。
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自分の部屋に戻ると、サビ猫は畳の上に座って伊織の方を見上げた。
『おい! そなた、どうしてすぐに断らなかったのじゃ』
プンプンと怒っている様子のサビ猫に、着物の脱ぎ方を教えてもらいながらそれを脱いで、別の着物に着替えていく。
「ごめん……。でも、あの計画なら梓姫は助かるんでしょう?」
『それはそうかもしれぬが……。第一、あのような策に姫様が同意するとは……』
しかし、サビ猫はそこまで言って、ハッとしたようだった。
『いや……そうか。本物の姫は、黒猫になっておるのじゃ』
大きなため息が聞こえてきた。すると、サビ猫はこちらに尋ねてきた。
『それにしても、あの姫様……いや、姫の姿をしている者は、一体何者なのじゃ』
「彼女は、山本さん。山本真穂っていう子」
『その者も、お主と同じように、ミライという所から来たのか』
「そう。今から440年くらい先の世界。友達……なんだ」
そうか、とサビ猫は言って、その場に横になった。
『父上のことじゃ。あそこまで具体的な話ができるというのは、おそらく既に上杉方にも書状を送って同意を得ているのだろう。上杉家なら確かに信用はできるし、謙信公は亡くなったとは言え、その強兵もまだまだ健在じゃ。姫様のことを思えば、それが一番良い選択であるし、越後までの旅路やその後のことを思えば、某がいるに越したことはない』
「そう……だよね」
サビ猫は伏せたまま、一点を見つめていた。
『しかし……本当の姫様と某は、いつか人間の姿に戻れるのだろうか』
「それは、僕も聞きたいくらいだよ。僕だけじゃなく山本さんも、これからいつまでこの世界にいないといけないのか」
ううん、とサビ猫は唸った。そして「あっ」と声を上げた。
『そうじゃ。月の里に行ってみよう』
「月の里……?」
『前に長に言われたことがあるのじゃ。あの黒猫のスミには、何かの役目があるだろうとな。長であれば、何かお知恵があるはずじゃ』
サビ猫はそう言って、自分で頷いた。




