第6話 白い霧の向こう
――二年目の春。
ユウの手紙を受け取った、その夜。
柔らかな風が吹いていた。
花の香りを運びながら、色とりどりの花々を静かに揺らしている。
「…………」
リリアは、いつからそこにいたのか分からなかった。
気づいた時には、一面の花畑の中で誰かと並んで立っていた。
「綺麗だね」
聞き慣れた声。
リリアは、ゆっくりと隣を見る。
「…………」
金色の髪。
空色の瞳。
柔らかな笑顔。
何度も見てきた少年が、すぐそこにいた。
「……ユウ……?」
「ん?」
呼べば、当たり前のように振り向く。
その返事を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に込み上げてきた。
「……ユウ」
もう一度、名前を呼ぶ。
「どうしたの?」
「…………」
リリアは何も答えられなかった。
どうしてここにいるのか。
ここがどこなのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
ユウがいる。
ちゃんと、すぐ隣に。
手を伸ばせば届く距離にいる。
それだけでよかった。
「……なんでもない」
「そう?」
「うん」
リリアは小さく笑った。
ユウも、それ以上は何も聞かなかった。
二人の前には、どこまでも花畑が続いている。
見たことのない場所のはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。
風が吹く。
赤い花が揺れる。
その向こうでは、白い花が波のように揺れていた。
「すごいね」
ユウが遠くを眺めながら言った。
「こんなにたくさん咲いてる」
「……うん」
「向こうにもあるよ」
指差された先へ目を向ける。
けれど、リリアはすぐにユウの横顔へ視線を戻した。
花よりも。
今は、この姿を見ていたかった。
「…………」
穏やかな横顔。
いつもの声。
いつもの笑顔。
もう一度会いたいと、ずっと思っていた。
もし会えたなら。
謝りたい。
聞きたいこともある。
伝えたいことだって、たくさんある。
なのに。
今は何一つ、言葉にできなかった。
ただ隣にいられるだけで、胸がいっぱいだった。
この時間が、ずっと続けばいい。
そんなことを思った。
どれくらい、そうしていたのだろう。
夢の中では、時間の流れさえ曖昧だった。
やがて。
ユウが小さく息を吐いた。
「……そろそろかな」
「え?」
リリアが顔を向ける。
ユウは、遠くを見ていた。
「僕、そろそろ行かなきゃ」
「…………」
胸の奥が、急に冷たくなった。
「……え?」
「…………」
「行くって……どこに?」
ユウは答えなかった。
ただ、どこか寂しそうに笑った。
「……待って」
一歩。
ユウが離れる。
「ユウ?」
さらに一歩。
胸騒ぎが大きくなる。
「……待ってよ」
ユウは背を向けた。
そのまま、花畑の向こうへ歩き始める。
「ユウ!」
リリアも追いかけた。
すぐに追いつけると思った。
ほんの数歩。
それだけしか離れていなかったはずだから。
けれど。
「……え……?」
届かない。
足は動いている。
花を掻き分けながら、確かに前へ進んでいる。
それなのに、ユウとの距離は縮まらなかった。
「待って!」
もっと速く走る。
「ユウ!」
むしろ、少年の背中は少しずつ遠くなっていく。
「待ってよ……!」
息が苦しくなる。
それでも走った。
手を伸ばす。
届かない。
「ユウ……!」
もっと速く。
もっと前へ。
そう思うほど、ユウは遠ざかっていった。
「お願い……待って!」
その時。
花畑の向こうから、白いものが流れ込んできた。
「……霧……?」
薄い白い霧。
最初は、ユウの足元を覆うだけだった。
やがて膝へ。
腰へ。
そして、少年の背中まで白く霞ませていく。
「ユウ!」
リリアは走り続けた。
「待って!」
距離は縮まらない。
「ユウ、待ってよ!」
声を張り上げる。
その時。
少年の足が止まった。
「…………」
遠く。
白い霧の中で、ユウがゆっくりと振り返る。
もう顔も、はっきりとは見えない。
それでも。
最後まで、穏やかに笑っているように見えた。
「……ユウ……?」
リリアが一歩踏み出す。
その瞬間。
白い霧が、一気に二人の間を埋め尽くした。
「――ユウ!」
姿が消える。
「待って!」
手を伸ばす。
「ユウ!」
何もない。
白い霧だけが、どこまでも広がっている。
「どこ……?」
もう一度、名前を呼ぶ。
「ユウ……!」
返事はない。
「……待ってよ……」
声が震えた。
「まだ……」
喉が詰まる。
「まだ、ちゃんと話せてないのに……」
謝りたいことも。
聞きたいことも。
まだ何一つ、口にできていない。
花畑も。
空も。
すべてが白く霞んでいく。
「ユウ――!」
◇
「――っ!」
リリアは目を開いた。
大きく息を吸う。
「はっ……は……」
暗い部屋。
見慣れた天井。
窓の向こうは、まだ夜明け前だった。
「…………」
しばらく、身体を動かすことができなかった。
夢だった。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
「……夢……」
掠れた声が漏れる。
頬に何かが触れている。
指で拭う。
「…………」
涙だった。
一筋ではない。
いつから泣いていたのか分からなかった。
「……ユウ……」
名前を口にする。
返事はない。
夢の中では、呼べばすぐ隣から声が返ってきたのに。
リリアは目を閉じた。
『僕、そろそろ行かなきゃ』
「…………」
胸が痛む。
続いて、手紙の最後の言葉が頭に浮かんだ。
『また会おうね』
「……まだ……」
小さく呟く。
「まだ、会えてないよ……」
その時。
胸元へ伸ばした手が止まった。
「……?」
指先に触れたのは、細い銀色の鎖。
眠る前から首にかけていたネックレス。
深い紺青の石を、そっと掌に乗せる。
「…………」
温かい。
ほんの僅かに。
眠る前には感じなかったはずの温もりが、石の奥に残っている。
「……これ……」
リリアは両手で包んだ。
けれど、しばらくすると。
その温もりが本当に石から伝わっていたのか。
それとも、自分の手の熱だったのか。
分からなくなった。
「…………」
胸元へネックレスを戻す。
夢の最後。
白い霧の中へ消えていった金色の髪。
伸ばしても届かなかった背中。
何も伝えられないまま、遠ざかっていったあの姿。
「……ユウ」
もう一度だけ。
静かな部屋の中で、その名前を呼んだ。




