第5話 母の眠り(番外編 天界10話)
「……そのあと」
エルシェリアが口を開いた。
か細い声だった。
「シェルは……どうなったのですか」
フィオの肩が小さく揺れた。
答えようとして、唇が開く。
けれど、すぐには声にならなかった。
「フィオ」
ヴァレオンが静かに呼ぶ。
「無理に急ぐ必要はありません」
「……ううん」
フィオは首を横に振った。
「最後まで……僕が話す」
膝の上で、手を強く握る。
「シェルの胸の奥にあった白い光へ……何度も、闇を流し込まれてた」
エルシェリアの目が見開かれた。
「……あの子の……心に……?」
「……うん」
その答えを聞いた瞬間。
遠いはずの声が、鮮明に蘇った。
◇
『エルシェ』
低く、穏やかな声。
もう二度と、直接聞くことのできない声。
『シェルの心核は……僕たちが《神核》と呼んでいるものだ』
隣にいた彼が、眠っている息子を見ながら話していた。
『こんな心核は、天使族にも……僕たち天竜族にも前例がない』
『…………』
『おそらく、その二つの血を受け継いだことで、両方と深く結びつく心核が生まれたんだろう』
彼は眠るシェルへ目を向けた。
『ただ、大きな力を持っているというだけじゃない』
『あれは、シェルの心そのものに近い』
『だから何があっても、傷つけさせてはいけない』
覚えている。
忘れていたわけではない。
忘れられるはずがない。
ただ、長い年月の中で胸の奥深くへ沈んでいた言葉だった。
彼の表情が、僅かに険しくなった。
『その結果、この子がどこまでの力を持つのか……僕にも分からない』
『成長すれば、その力は今よりずっと大きくなる』
『扱い方を誤れば……世界そのものを揺るがしかねないほどに』
エルシェリアは、眠る息子を見た。
何も知らず、穏やかな寝息を立てている。
『だから以前、僕たちで、この子の力の大部分を封じた』
『…………』
『だが、成長すれば……また封印を重ねる必要が出てくるかもしれない』
『シェル自身が、その力に苦しむ前に』
そこで、彼はエルシェリアを見た。
『……僕がいなくなっても』
『シェルを守ってくれ』
一度、息をつく。
彼は眠る息子へ視線を戻した。
『……この子の心を、守ってやってくれ』
エルシェリアは、眠るシェルの手をそっと包んだ。
『……ええ』
返事に迷いはなかった。
『必ず』
その手を包んだまま、隣にいる夫を見る。
『シェルも、この子の心も。私が守ります』
彼は妻と息子をしばらく見つめたあと、エルシェリアの手の上へ自分の手を重ねた。
◇
「…………」
エルシェリアは動かなかった。
フィオの声が、ひどく遠く聞こえる。
「最初は……シェルの光も、ずっと抗ってた」
フィオは、あの時に見た光を思い返す。
「流し込まれた闇を、何度も押し返してたんだ」
守ってくれ。
「でも……」
この子の心を。
「少しずつ……押し返せなくなって……」
フィオの指先が震えた。
「途中から、変わった」
「……変わった……?」
「闇を拒むんじゃなくて……自分の中へ取り込むようになった」
エルシェリアの瞳が大きく揺れる。
「僕には……」
フィオの声が掠れた。
「そうしなかったら、あの光そのものが消えてしまうみたいに見えた」
シェルが何を思っていたのか。
本当のところまでは分からない。
フィオが見られたのは、そこで起きたことだけだった。
それでも。
闇を取り込むほど、白い光が変わっていったことだけは、はっきりと覚えている。
「最後には……」
フィオは一度、息を詰まらせた。
「純白だった光そのものが変わって……血と闇を溶かしたみたいな、禍々しい色になった」
その瞬間。
エルシェリアの胸の奥で、何かが崩れた。
「……あ……」
声にならない。
ミレイアがエルシェリアを見る。
「エルシェリア様?」
「……あの子の……心が……」
エルシェリアの呼吸が浅くなる。
『……この子の心を、守ってやってくれ』
「……私……」
掠れた声が漏れた。
「私……」
「エルシェリア様」
「続けて……ください……」
フィオが息を呑んだ。
「でも……」
「お願い……します」
その声を聞いて、フィオは俯いた。
そして、もう一度だけ口を開く。
「身体の傷は……全部、治ってた」
エルシェリアの指が止まった。
「傷つけられた左目も、元に戻ってた」
「……そう……」
エルシェリアの肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
少なくとも。
傷つけられた身体だけは、元に戻ったのだと。
「でも……」
フィオの声が沈む。
「前と同じ姿に戻ったわけじゃない」
エルシェリアの肩が、再び強張った。
「髪は黒くなってた」
「…………」
「瞳は黄金色で……瞳孔が、竜みたいに細く縦に伸びてた」
フィオは一度目を閉じた。
「一度現れた白い翼も……元の白さを失って、光と同じ異様な色へ変わってた」
静寂が落ちた。
「……そう」
エルシェリアの唇が震える。
「……そう……なのですね……」
ミレイアが心配そうに顔を覗き込む。
「エルシェリア様……」
「身体が……治ったのなら……」
掠れた声。
「生きているのなら……」
「それなら……」
大丈夫。
そう言おうとした。
言えなかった。
一筋の涙が頬を伝った。
「……私は……」
「エルシェリア様?」
「私は……何をしていたのでしょう……」
「あの子が……あんなに苦しんでいたのに……」
もう一滴。
「帰りたいと……言っていたのに……」
声が崩れていく。
「助けてって……言っていたのに……」
「エルシェリア様」
ヴァレオンが静かに呼ぶ。
「それは、エルシェリア様の責ではありません」
「違います」
エルシェリアは首を横に振った。
「私は……約束したのです」
「……約束?」
ミレイアが小さく聞く。
「守ると……」
両手が強く握られる。
「あの子を……」
「あの子の心を……」
涙が止まらない。
「守ると……約束したのに……」
もう二度と聞けない声が、頭の中で繰り返される。
『シェルを守ってくれ』
『……この子の心を、守ってやってくれ』
『必ず』
『シェルも、この子の心も。私が守ります』
「守れなかった……」
「エルシェリア様」
「私が……守らなければいけなかったのに……」
ミレイアが首を横に振った。
「エルシェリア様は、ずっとシェル様を案じてこられました」
「あの日、人間界へ向かわれたのは、シェル様ご自身が望まれたことです」
「でも……」
「そして、いつ戻られても迎えられるように」
ミレイアは、エルシェリアの顔をまっすぐ見つめた。
「あの方の帰る場所を、ずっと守り続けてこられました」
エルシェリアの瞳が揺れる。
「……帰る……場所……」
「はい」
「ですから……すべてをエルシェリア様お一人の責になさらないでください」
エルシェリアは俯いた。
「……でも」
両手で胸元を押さえる。
「壊されたの……」
ミレイアの表情が曇った。
「あの子の……心を……」
「……違うの……」
エルシェリアは、震える声で呟いた。
「前例のないものだったからじゃない……」
「どれほど大きな力を持っていたからでもない……」
胸元を押さえる指に、力が入る。
「私が守りたかったのは……そんなことじゃない……」
声が掠れた。
「ただ……」
一筋の涙が、頬を伝った。
「あの子の心を……守りたかっただけなのに……」
呼吸が乱れていく。
「何も悪くない……」
唇が震えた。
「誰よりも純粋な……シェルの心だったのに……」
「エルシェリア様、もう――」
「私が……」
首を横に振る。
「もっと早く気づいていれば……」
何を、どうすればよかったのか。
本人にも分からない。
それでも、何かできたはずだと思ってしまう。
「人間界へ行きたいと言った、あの子を見送って……」
嗚咽が漏れた。
「いつか……笑って帰ってくるのだと……」
「また……」
声が止まる。
「また私は……」
その先を、誰にも聞き取ることはできなかった。
エルシェリアは俯いた。
「私なんかが……」
声が崩れる。
「母親だったから……」
ミレイアの表情が変わった。
「そんなことを言わないでください!」
「シェル様がお聞きになったら、きっと悲しまれます!」
「……シェル……」
息子の名前。
それだけで、エルシェリアの顔が歪んだ。
「ごめんなさい……」
手が宙へ伸びる。
そこにいるはずのない息子を探すように。
「ごめんなさい……シェル……」
「エルシェリア様……」
「あの人にも……」
掠れた声だった。
「約束……したのに……」
その指先から力が抜けた。
「――エルシェリア様!」
身体が傾く。
ミレイアがすぐに抱き止める。
同時にヴァレオンも駆け寄った。
「エルシェリア様!」
「しっかりしてください!」
返事がない。
瞼は閉じたまま。
「誰か!」
ミレイアの声が、部屋へ響いた。
◇
エルシェリアが倒れてから、一日が過ぎた。
二日。
三日。
身体に傷はない。
呼吸も安定している。
命そのものが危険な状態でもない。
それなのに。
「……エルシェリア様」
寝台の傍らで、ミレイアが呼びかける。
返事はない。
エルシェリアは静かに眠っていた。
まるで、深い夢の中へ沈んでしまったように。
治癒の光を重ねても。
魔力の流れを調べても。
目を覚まさない。
その眠りは三日を過ぎても、終わる気配を見せなかった。
シェルの捜索を再開する準備を進めながら、フィオとラティスは何度もその部屋を訪れた。
その日も、フィオは少し離れた場所から眠るエルシェリアを見ていた。
「……僕が話したから……」
「違う」
隣にいたラティスが、すぐに否定した。
「でも……」
「お前が隠してても、いつか知った」
「それに」
ラティスが寝台へ目を向ける。
「知らないままの方がよかったなんて、エルシェリア様は絶対言わねえよ」
「……うん」
フィオは小さく頷いた。
窓から柔らかな光が差し込む。
白い寝台。
静かに眠る天座。
その傍らでは、ミレイアが椅子に座り、エルシェリアの手をそっと包んでいる。
「……シェル」
フィオが小さく呟いた。
今、どこにいるのか。
何をしているのか。
誰にも分からない。
国境で見たものが、本当にシェルのしたことなのかさえ、三人には断定できない。
ただ一つ。
以前と同じ姿ではないことだけを、彼らは知っていた。
そして天界では。
亡き夫との約束を胸に、息子の帰る場所を守り続けてきた母が。
今度は、終わりの見えない深い眠りへ沈んでいた。




