第4話 消えない声(番外編 天界9話)
――それは、二年目の春を迎えるより前のこと。
天界へ戻ってからも、フィオの耳にはあの声が残り続けていた。
『……帰りたい……』
『助……け……』
『……だ……れ……か……』
何度振り払おうとしても消えない。
目を閉じれば、あの部屋が浮かぶ。
椅子へ拘束された金色の髪の少年。
傷つけられた身体。
頬を伝っていた涙。
助けを求める声。
そして。
純白だった光そのものが、見たこともない暗い色へ変わっていく瞬間。
「…………」
フィオは俯いたまま歩いていた。
隣を進むラティスも、いつもの軽口を一度も口にしていない。
二人の少し前を、ヴァレオンが歩いている。
人間界から天界へ戻ってきても、誰もすぐには言葉を交わさなかった。
◇
三人の帰還は、すぐにエルシェリアへ伝えられた。
柔らかな光が差し込む広い部屋。
その中央で、エルシェリアは三人を待っていた。
傍らにはミレイアもいる。
扉が開く。
ヴァレオン。
ラティス。
フィオ。
三人が部屋へ入った瞬間、エルシェリアの視線はその後ろへ向かった。
もう一人を探すように。
「…………」
戻ってきたのは三人だけだった。
エルシェリアの指先が、微かに動いた。
「……シェルは?」
誰も、すぐには答えられなかった。
フィオは顔を上げられない。
ラティスも唇を結んでいる。
ヴァレオンが一歩前へ出た。
「……見つけることは、できませんでした」
「……そうですか」
エルシェリアは静かに答えた。
その声だけなら、いつもの天座とほとんど変わらない。
「ですが」
ヴァレオンの声が低くなる。
「シェル様に何が起きたのか。その一部は確認しました」
エルシェリアの瞳が動いた。
「……聞かせてください」
「エルシェリア様」
ミレイアが隣から声をかける。
「無理をなさらず――」
「大丈夫です」
エルシェリアは小さく首を横に振った。
「私は……あの子の母親です」
その言葉に、フィオの胸が強く痛んだ。
◇
最初に説明したのは、ヴァレオンだった。
天界で確認された最後の共鳴。
それが示していた、人間界の古い都。
追憶の都。
古い神殿。
その地下に隠されていた研究施設。
壊された牢の錠。
研究器具。
そして、部屋の中央に残されていた拘束用の椅子。
エルシェリアは、一言も挟まずに聞いていた。
ただ、拘束具の話が出た時、重ねていた手に力が入った。
「……そこに」
ヴァレオンが続ける。
「赤黒く染まった、天使の羽根が一枚残されていました」
「羽根……」
「はい」
ヴァレオンはフィオへ視線を向けた。
「その羽根を手掛かりに、フィオが施設の過去を観測しました」
エルシェリアの目が、ゆっくりとフィオへ向く。
「……フィオ」
「…………」
「何を……見たのですか?」
答えなければならない。
分かっていた。
それなのに、喉が動かなかった。
「……シェルが……」
ようやく声が出た。
「シェルが……いた」
エルシェリアの表情が止まる。
「椅子に……縛られてた」
「両手も……足も……動けないようにされてて……」
「フィオ」
ラティスが小さく呼ぶ。
無理に続けるな。
そう言っているようだった。
フィオは首を横に振った。
「言わなきゃ……」
唇を噛む。
「僕が見たことだから……」
涙を堪えるように、一度だけ息を吸った。
「僕が……ちゃんと話す」
エルシェリアは、何も言わずにフィオを見つめた。
「シェル……泣いてた」
その瞳が揺れた。
「帰りたいって……」
その一言が、エルシェリアの胸の奥へ深く突き刺さった。
人間界へ送り出した日。
どれほど遠くへ行っても、ここにも帰る場所があるのだと。
確かに、そう伝えた。
疲れた時も。
迷った時も。
帰りたいと思った時には、いつでも戻ってこられるように。
そのはずだった。
あの子は本当に、帰りたいと泣いていた。
それなのに。
その声は、ここまで届かなかった。
「嫌だって……やめてって……」
フィオの目に涙が溜まる。
「助けてって……」
その声が、また耳の奥で蘇る。
『……だ……れ……か……』
「誰かに……助けてほしいって……」
エルシェリアの唇が僅かに開いた。
声は出なかった。
「それなのに……」
フィオの拳が強く握られる。
「誰も助けなかった……!」
「フィオ」
「僕たちも知らなかった!」
涙が落ちた。
「あんなに苦しんでたのに……僕たちは何も知らなくて……!」
あの光景が、次々に蘇る。
刃。
血。
傷つけられた左目。
そして、胸の奥にある純白の光へ、無理やり流し込まれていく闇。
「人間が……」
フィオの声が低くなった。
「人間が、シェルにあんなことをした……」
「シェルは……何もしてないのに……!」
呼吸が乱れる。
「ただ、人間の世界で暮らしたかっただけなのに……!」
胸の奥で押し込めていたものが溢れた。
「……人間なんて……」
「フィオ」
ラティスの声が響いた。
強い声だった。
フィオが顔を上げる。
「……なに」
「それ以上は言うな」
「でも!」
「あんなことをした奴らを許せって言ってんじゃねえ」
ラティスの拳も強く握られていた。
怒っていないはずがない。
同じ研究施設を見た。
そして、そこで何が起きたのか、その一端をフィオから聞いた。
自分たちの親友が何をされたのか。
知っている。
「俺だって、あいつらを許す気なんかない」
「じゃあ……!」
「でも、人間全部を一緒にするな」
フィオの目が揺れた。
「シェルが、どうして人間界へ行きたがってたか忘れたのか?」
「……え」
「ずっと知りたがってただろ」
ラティスは続ける。
「人間のことも」
「人間が暮らしてる世界のことも」
フィオは何も言えなかった。
「シェルは……そんなこと望んでねえよ」
「自分が傷つけられたからって、それと関係ない奴らまで憎んでほしいなんて」
ラティスの声から、わずかに力が抜けた。
「あいつが、そんなこと望むと思うか?」
フィオの脳裏に、別のシェルが浮かんだ。
花畑で笑っていた少年。
人間界へ向かう日。
不安を滲ませながら、それでも知らない世界へ行くことを楽しみにしていた顔。
『待ってるからね』
あの日、自分がそう言った。
「……思わない」
フィオが小さく答えた。
「シェルは……そんなこと言わない」
「ああ」
「……ごめん」
「謝る相手、俺じゃないだろ」
「うん……」
フィオは涙を拭った。
「……シェルに怒られるね」
「怒るっていうか」
ラティスが小さく息を吐く。
「『それは違うと思うよ』とか言う」
「……言いそう」
ほんの一瞬、二人の表情に昔を思い出すような柔らかさが戻った。
それも、すぐに消えた。




