第2話 残された手紙
初日の授業がすべて終わる頃には、窓から差し込む陽も朝よりずいぶん傾いていた。
教師が教室を出ていくと、それまで席についていた生徒たちが一斉に動き始める。
「終わったー……」
少し離れた席から、カイルの声が聞こえた。
アレンは教本を閉じながら、小さく笑う。
「まだ初日だろ」
「初日だから疲れるんだよ。説明ばっかりだったし」
「実技はまだほとんどしてませんけどね」
鞄を手にしたエステルが、二人のところへやってくる。
「それが余計に疲れるんだって」
「カイルは座って話を聞く方が苦手ですからね」
「否定はしない」
そんなやり取りの中、アレンの視線が窓側の席へ向いた。
リリアは黙って教本を鞄へしまっていた。
授業にはきちんと参加している。教師に当てられれば返事もするし、配られた資料が足りなければ近くの生徒へ回すことも忘れない。
けれど、朝から一度も以前のような明るい笑顔は見ていなかった。
笑わないわけではない。
話しかけられれば、少しだけ口元を緩めることもある。
それでも、その笑顔は何かを思い出したように途中で消え、すぐに俯いてしまう。
「リリアさん」
エステルが声をかけた。
リリアが顔を上げる。
「……なに?」
「これから図書館へ寄ろうと思うのですが、一緒に行きませんか?」
「図書館……?」
「はい。二年生で使いそうな資料を少し見ておこうかと」
「初日から勉強するのか?」
カイルが言う。
「カイルも来るのですよ」
「俺も?」
「先ほど行くとおっしゃっていました」
「……言ったっけ」
「言いました」
「じゃあ行く」
アレンが笑った。
「俺も行こうかな」
「アレンさんもですか?」
「せっかくだしね」
三人の視線がリリアへ向く。
リリアは一瞬だけ迷った。
「……うん」
鞄を持つ。
「私も行く」
以前なら、もっと明るく答えていただろう。
それでも、エステルは何も言わなかった。
ただ、そっと頷いた。
◇
放課後の図書館は静かだった。
棚の間を歩く生徒の足音や、頁をめくる音、受付で交わされる小さな声だけが聞こえてくる。
去年、ここには何度も四人で来ていた。
リリアは無意識に、窓際の机へ目を向けた。
そこには、金色の髪の少年の姿はない。
「二年生用の資料は、奥だったよな」
「そうですね」
カイルとエステルが先へ進む。
その時だった。
「……リリアさん?」
受付から声がした。
リリアの足が止まる。
司書がこちらを見ていた。
「リリアさんですよね?」
「……はい」
「少しお待ちください」
司書は受付の奥へ入り、棚の一つから何かを取り出した。
戻ってきた手には、一通の封筒があった。
「これを、お渡ししなければと思っていたんです」
「……私に?」
「ええ」
差し出された封筒。
その表を見た瞬間、リリアの呼吸が止まった。
『リリアへ』
「…………」
見覚えのある文字だった。
少し丸みがあって、丁寧で。
授業の帳面にも、依頼の記録にも、何度も見た文字。
「……これ……」
伸ばしかけた指が止まった。
司書が静かに続ける。
「以前、返却された本を整理していた時に見つかったんです」
リリアは顔を上げた。
「……誰の……本ですか」
もう、聞かなくても分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「貸出記録は、ユウ・リシェルさんのものでした」
「――っ」
カイルが息を呑む。
エステルも目を見開いた。
アレンは、三人の表情を見て何も言わない。
「……ユウ……」
名前を口にしただけで、あの日の声が胸の奥から蘇った。
『行かないで……』
『一人にしないで……』
『怖い……』
「……っ」
リリアは唇を噛んだ。
「リリアさん?」
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
それでも、両手を伸ばす。
「……ありがとうございます」
封筒を受け取った。
軽いはずのそれが、両手にはずっしりと重く感じられた。
◇
四人は、図書館の奥にある窓際の机へ移動した。
去年、ユウと一緒に何度も囲んだ机だった。
誰も本を取りに行こうとは言わなかった。
リリアは椅子に座り、封筒を見つめている。
『リリアへ』
その文字から、なかなか目を離せなかった。
「……開けないのか?」
カイルが、いつもよりずっと小さな声で聞いた。
「……怖い」
リリアが呟いた。
三人が黙る。
「読むのが……怖い……」
あの日と同じ言葉だった。
怖い。
今度は、自分がそう言っている。
あの時。
ユウも、怖いと言っていた。
それなのに自分は、
『すぐ終わるから』
そう言って、置いてきた。
「……でも」
リリアは封筒の端へ指をかけた。
「読みたい……」
ゆっくりと開く。
中には、折り畳まれた数枚の紙。
そして、小さなネックレスが入っていた。
「……これ……」
そっと取り出す。
華奢な銀色の鎖。
その先には、夜空を閉じ込めたような深い紺青の石。
丸みを帯びた石の周囲を、細い銀色の輪が幾重にも交差しながら包んでいる。
まるで、小さな天球儀のようだった。
「きれい……」
エステルが小さく呟いた。
リリアは答えなかった。
深い紺青の石を包む、細い銀の輪。
見つめていると、胸の奥に奇妙な感覚が走る。
「……?」
どこかで見たことがあるような。
けれど、思い出せない。
ほんの一瞬。
誰かの視線が、自分の胸元へ落ちたような感覚がよぎった。
「……何……?」
それも、すぐに消えた。
リリアはネックレスを机へ置き、折り畳まれた紙を開く。
そこで指が止まった。
「…………」
紙には、薄い染みが残っていた。
一つではない。
ところどころに、小さく不規則な跡がある。
もう乾いていて、染みの残った部分だけがほんの僅かに波打っていた。
「リリア?」
カイルが呼ぶ。
返事ができない。
リリアは指を伸ばした。
染みへ触れそうになり、寸前で止める。
「……これ……」
声が掠れた。
「……涙……?」
誰も答えなかった。
答える必要もなかった。
これはユウが残した手紙だ。
そして、自分たちが読むよりずっと前に、この紙は濡れていた。
「……ユウ……」
あの子は、これを書きながら泣いていた。
それでも、自分たちには何も言わなかった。
心配しないで、と。
いつものように、笑うような文章を残して。
リリアの胸が強く締めつけられる。
一枚目へ視線を落とした。
『リリアへ』
しばらくして、リリアは便箋を机の中央へ置いた。
「……みんなも、読んで」
カイルとエステルが席を寄せる。
アレンは一瞬ためらった。
けれど、リリアが小さく頷くのを見て、同じように紙へ目を落とした。
四人で、ユウの文字を追った。




