第9話 帰る場所
学院の門を出た頃には、空が茜色に染まり始めていた。
アレンは鞄を肩に掛け直し、家へ向かう道を歩いていた。
昨日は図書館で冒険者制度を調べ、今日は実技場で魔力操作を繰り返した。どちらも、これまで何度となく足を運んだ場所だった。
普段なら、帰る途中で新しい術式を思いつき、学院へ引き返すことさえあった。
けれど今日は、もう戻らなかった。
家族へ話すと決めたことがある。
どう切り出すかは考えていた。けれど、頭の中で何度言葉を並べても、最後には同じところへ戻ってくる。
学院を辞める。
自分で決めたことなのに、家族へ伝えようとすると、その重みが違って感じられた。
◇
家の扉を開けると、奥から慣れ親しんだ声が聞こえた。
「アレン? おかえりなさい」
「ただいま、母さん」
廊下へ顔を出した母は、幼い弟を抱いていた。
弟はアレンの姿を見つけるなり、母の腕の中から手を伸ばす。
「おっと」
アレンが指を差し出すと、小さな手がしっかり握ってきた。
「元気そうだね」
「さっきまで眠そうにしていたのよ。あなたの顔を見たら、目が覚めちゃったみたい」
母は笑い、それからアレンの顔を覗き込んだ。
「今日は何かあった?」
「え?」
「いつもと少し違う気がして」
アレンは思わず苦笑した。
「……母さんには分かるんだね」
「長いこと母親をしているもの」
母は冗談めかして言ったが、目には心配そうな色があった。
「父さんにも話したいことがあるんだ。帰ってから、少し時間をもらえるかな」
「ええ、もちろん。……悪いことではないのよね?」
「何か失敗したわけじゃないよ。ただ、大事な話なんだ」
母はそれ以上問い詰めなかった。
「分かったわ。夕食の後にしましょう」
弟が指を離したがらず、アレンはもう一度だけその手を握った。
家の中には、食事の支度をする音が聞こえていた。
普段と変わらない夕方だった。
◇
父が帰宅し、家族で夕食を済ませると、アレンは居間で両親と向かい合った。
弟は母のそばで、手にした小さな玩具に夢中になっている。
名の知られた商会を率いる父は、この日も仕事の書類を持ち帰っていたが、今はそれを脇へ置き、アレンの方へ身体を向けていた。
「話があるそうだな」
父が先に口を開いた。
「うん。二人に、ちゃんと聞いてほしくて」
「学院で何かあったのか?」
「学院で問題を起こしたわけじゃないよ」
アレンは両手を膝の上に置いた。
「俺、王立魔法学院を退学することに決めたんだ」
母の手が止まった。
父もすぐには答えず、アレンの顔を見つめていた。
「……退学?」
母が聞き返す。
「どうして? 二年生になったばかりでしょう?」
「うん。授業も面白いし、学院が嫌になったわけでもないんだ」
「それなら、なおさら……」
続きかけた母の言葉を、父が静かに引き取った。
「まず、理由を聞こう」
アレンは頷いた。
「同じ学院で知り合った友達が、今も行方不明なんだ。ユウ・リシェルっていう」
名前を口にすると、実技場で魔法を使っていたユウの姿が浮かんだ。自分には思いつかなかった方法で魔法を扱い、尋ねれば丁寧に答えてくれた。その声も、よく覚えている。
「俺たちは、ユウを探すって決めた。でも、どこにいるのか分かっていない。学院の中から調べられることもあるけど、それだけじゃ届かない場所があると思う」
「それで、退学するのか」
「正式な冒険者になりたいんだ。依頼を受けながら各地を回って、捜せる範囲を広げたい」
父は少し眉を寄せた。
「学院にいるままではできないのか?」
「学院冒険者と、一般の冒険者は別の制度なんだ。在学中は学院の管理を離れて活動できない。休学しても、学院生としての制限は残るんだ」
「なるほど。だから正式に辞める、と」
アレンは頷いた。
父は考え込み、それから口を開いた。
「学院で首席になり、ようやく二年目を迎えたところだ。その先で学べるものも多いはずだろう?」
「そうだと思う。まだ読みたい本もあるし、教わりたい魔法だってあるよ」
言葉にすると、教室や図書館の光景が蘇った。
「そこを離れるのは、俺も寂しい。でも、卒業まで待てばユウが見つかるってわけじゃないから」
母が視線を落とした。
「その子は、そんなに大切なお友達なのね」
「うん」
迷わず答えた。
「学院で知り合って、世界樹への遠征では同じ合同班だったんだ。対抗戦の決勝で戦ったときは、最後まで勝負がつかなくて。いつか続きをしようって約束もした」
ユウと交わした約束を思い出し、アレンはわずかに笑みを浮かべた。
「魔法についても、ユウと話して初めて知ったことがある。まだ、話したいことがたくさんあるんだ」
「……そう」
母は弟の背を撫でた。
「でもね、アレン。知らない土地へ一人で出かけるというのは、学院の実習とは違うのよ。困った時に先生が駆けつけてくれるとは限らないわ」
「分かってるつもりだよ」
「つもりでは困るの」
母の声は強くなかった。ただ、その言葉だけははっきりしていた。
アレンは軽く頭を下げた。
「……うん。そうだね。簡単なことだとは考えてない」
父が口を開いた。
「私の商会でも、遠くへ出る者はいる。道が通れなくなることもあれば、行き先で思わぬ危険に遭うこともある。腕が立つだけでは足りない」
「うん」
「まして、お前が探そうとしている相手の居場所は分かっていない。行き先を決めるだけでも難しいだろう」
「だから、いきなり遠くへ行くつもりはないよ」
アレンは父の目を見た。
「まずは自分にできる依頼から始めたい。実績を積んで、少しずつ行ける場所を増やしていくつもりだよ」
「冒険者として活動を始めるには、どんな手続きが必要なんだ?」
「うん。学院での活動実績をもとに推薦をもらって、ギルドの審査を受ける必要があるんだ。まだ正式に認められたわけじゃないから、まずはそこからだね」
父は椅子の背に身体を預けた。
「商会の伝手を使って調べることなら、こちらでもできるかもしれない」
「ありがとう。何か分かったら、教えてもらえると嬉しい」
アレンは素直に答えた。
「ただ、人づてに聞くだけじゃなくて、自分の足でも探したいんだ。知らない土地を歩いて、今よりもっと力をつけたい。魔法の勉強も続けたいしね。学院の外にも、まだ俺の知らないことがたくさんあると思うから」
「……お前らしいな」
父の口元がわずかに緩んだ。
それでも、すぐに賛成の言葉が返ってくることはなかった。
「一つ聞かせてくれ。仲間には、もう話したのか?」
「一般冒険者になりたいって考えてることは話した。でも、退学すると決めたことはまだ伝えてないんだ」
「先に私たちへ話しに来たのか」
「うん。黙って手続きを進めるのは違うと思ったから」
父はゆっくり頷いた。
「なら、仲間たちともきちんと話しなさい。学院を辞めるのはお前自身の選択だ。ただ、仲間と一緒に探すと約束したのなら、これからどう動くかは相談するべきだろう」
「そうするよ」
◇
話が一区切りついた頃、弟が玩具を落とした。
床に転がったそれをアレンが拾い上げると、弟は嬉しそうに両手を伸ばした。
「はい、どうぞ」
受け取った弟が笑う。
その顔を見て、母が小さく息をついた。
「……本当は、引き止めたいわ」
アレンが顔を上げる。
「あなたが学院で頑張っていたことも、楽しそうに魔法の話をしていたことも知っているもの。それに、遠い場所で何かあっても、私たちはすぐには助けに行けないでしょう?」
「母さん……」
「だから、賛成だってすぐには言えない。でも、今の話が思いつきじゃないことは分かったわ」
母はアレンを見つめた。
「お願いだから、自分の命も大事にしてね。探しているお友達だって、あなたが傷つくことを望んではいないはずよ」
「……うん。約束する」
父も静かに頷いた。
「退学の手続きを急いで進める前に、学院の先生にも相談し、手順を確かめなさい。その上でも気持ちが変わらないなら、私も向き合おう」
「ありがとう、父さん」
アレンは二人へ頭を下げた。
反対される覚悟はしていた。
気持ちを伝えれば、すぐに安心してもらえるとも思っていなかった。
それでも、最後まで話を聞いてもらえたことが嬉しかった。
弟がまた手を伸ばしてきた。
指先を握らせると、その小さな手は先ほどよりも強く感じられた。
「……また帰ってくるからね」
弟には、何の話だったのか分からないだろう。
小さな手は、変わらずアレンの指を握っていた。
母が席を立ち、温かい飲み物を淹れに向かう。父は椅子を弟のそばへ寄せ、優しく声をかけていた。
しばらくして、居間にはいつもの家族の声が戻ってきた。
アレンは湯気の立つカップを受け取り、その温かさを両手で確かめた。




