7話 化け狸のポチ
「ごめんください」
静かな夕暮れの空気に丁寧な声が玄関から響き渡った。格子戸の向こうから聞こえたその声に、台所で夕食の準備をしていた鈴は、濡れた手を拭いながら玄関へと向かう。
「はーい、いらっしゃい」
戸を開けるとそこに立っていたのは、一風変わったお面を身につけた妖だった。その妖は鈴が戸を開けるなり、まじまじと鈴の姿を見つめる。
「おお、これが噂の人の子ですか。本当に我等の姿が見えているのですなぁ」
物珍しそうに視線を巡らせる妖に鈴は少し気恥ずかしさを覚えながらも、愛想よく微笑みを返していると……。
「おや、久しぶりだね。今日はどうしたの?」
来客の気配を察したのか奥の部屋から浅葱がひょっこりと顔を出し、いつものポヤポヤとした雰囲気のまま鈴の隣まで歩み寄る。
「いえ、特には。近くに立ち寄ったものですから浅葱様へご挨拶にと……。こちら、つまらないものですが。人の子は魚を食べられますかな?」
面の妖が差し出してきた竹皮の籠の中には、鱗が夕日にきらきらと輝く新鮮な魚が入っている。
「わぁ、新鮮なお魚ですね! あ、少し待っていてください」
鈴は弾んだ声で魚を受け取ると、いそいそと台所へ向かった。これほど立派な魚をいただいたのだ、何かお返しをせねばと考え、今朝取れたばかりの芋を籠に乗せてすぐに玄関へと戻る。
「うちで採れたお芋です、よかったらどうぞ」
「これはこれはご親切にどうも。しかしまぁ、人の子と話をする日が来るとは……。長く生きてみるものですな」
妖はしみじみと芋を眺め、嬉しそうに声を弾ませる。
それから鈴とその妖はしばらくの間、他愛のない雑談に花を咲かせた。人間を見かけたのは久しぶりだったとか、面の妖が暮らす浅瀬の川の話だとか、妖の語る話は鈴にとって新鮮で興味深いものばかりだった。
だがその傍らで浅葱は青緑色の瞳を少し細め、不機嫌そうに二人のやり取りを隣で眺めている。
「――おや、もうこんな時間ですか。いい暇つぶしになりました。また魚が採れたら持って参りましょう。浅葱様も本日はお邪魔しました」
「……うん、またね」
「ありがとうございます! お気をつけて」
妖は満足そうに頭を下げながら帰路へと帰っていき、その背中を見送ってから鈴も楽しげに浅葱を見上げた。
「最近、お客様が多いですね。お土産をいただけるので助かります」
ニコニコと嬉しそうな鈴とは対照的に、浅葱は少し呆れたように軽くため息を溢した。
「ほとんどが鈴目当てだけどね……」
「えっ? 私ですか?」
鈴はきょとんとして首を傾げた。なぜ山の妖たちが、自分のようなただの人間の小娘に会いに来るのだろうか。そんな鈴の疑問を察して、浅葱は苦笑いを浮かべながら言葉を続ける。
「人間が珍しいんだろう。以前までは用もないのに俺の屋敷に訪ねてくる者なんていなかったよ。はぁ……まったく、妖たちも浮かれてるなぁ」
ぼやくような浅葱の言葉に、鈴はふと申し訳なさを感じる。元々は静かだったはずの神様の屋敷が、自分のせいで騒がしくなってしまったのではないだろうか。
「あの私のせいで、ここを騒がしくしてしまいましたか?」
不安げに尋ねる鈴へ浅葱は一瞬だけ目を見開くが、すぐにその端正な顔を和らげると鈴へ微笑みかける。
「まさか! 鈴のせいじゃないから君は気にしなくていいんだよ」
浅葱の長い指先がそっと鈴の頬を撫でる。絹のように滑らかな感触と彼から伝わる温もりに、鈴の胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
「し、新鮮なお魚を使って今夜は豪勢なご飯を作りますね! 形もいいですからやっぱり丸焼きとかでしょうか」
恥ずかしさを誤魔化すように、鈴はわざと明るい声を上げて提案した。すると浅葱の瞳が子供のようにきらりと輝く。
「いいね。蔵に小さめの七輪があるはずだから、夕涼みでもしながら縁側で夕餉にしようか」
「いいですね!」
焼きたての魚を縁側で食べるなんて、想像するだけで楽しそうだ。浅葱は「ちょっと探してくるね」と言い残し、軽い足取りで蔵へと向かう。鈴も魚の下ごしらえをしようと台所へ足を向けた、その時だった。
「ごめんください」
再び音を立てて戸が叩かれた。また誰か来たのかと思いながら鈴が戸を開けると、そこに佇んでいたのは、二足歩行で行儀よく立つ一匹の狸。
「ご無沙汰しております、浅葱様。おや貴女は?」
狸が丁寧に頭を上げると、まんまるの瞳で鈴を捉えている。
(た、狸が喋ってる……!?)
「――あ、浅葱様っ! 今、喋る狸が……!」
驚いて駆けてきた鈴の言葉に、蔵から戻ってきた浅葱は動揺する様子もなく穏やかに笑った。
「そりゃあここは現世と常世の狭間なんだから、喋る狸くらいいるよ。ちなみにその方は、うちのご近所さんのタヌさんだよ」
「ポチです、浅葱様」
「おっと、失礼」
狸はすかさず真面目な顔で訂正を入れた。どうやらこの神様は、隣人の名前を一向に覚える気がないらしい。
◇
「今日はどうしたの? まさか君まで、人間が珍しくて鈴を見に来たの?」
狸のポチを客間へと案内し、浅葱が七輪を傍らに置きながら尋ねるとポチは首を左右に振った。
「いえ、私は別の用事で……。そういえば浅葱様が人の子を側に置いていると噂話を聞きましたね。訪ねやすくなったとかなんとか、山の妖達が言っていましたよ。その人の子とやらは、今どちらに?」
「目の前にいるだろう……この子が人間の鈴だよ」
浅葱が呆れたように隣の鈴へ視線を送ると、鈴は遠慮がちに「初めまして」と小さく頭を下げて微笑む。するとポチはそのまま、石のように固まって驚愕の声を上げた。
「…………なんとっ!? 貴女が人の子だったのですか!? 私が知っている人の子より随分若いので、気づきませんでした……」
ふんふんとポチは何度も感心したように頷きながら、小さな手で顎を撫でている。その仕草がなんだか妙に愛らしくて、鈴は思わずふふっと微笑んでしまった。
「それで鈴を見に来たんじゃないなら、今日はどんな用事?」
浅葱が話を本筋に戻すと、ポチはハッと我に返り真剣な面持ちを浮かべる。
「実は仲間が腐りかけの木の実を食べてしまい、腹を下しまして……お薬をいただきたく訪ねた次第です」
「薬ね、用意するからちょっと待ってて」
浅葱はそう言って立ち上がると、奥の部屋へと向かって行った。そういえば、この家には至る所に珍しい草花が吊るしてあったり、浅葱が夜な夜なすり鉢で何かをすり潰していたりしたのを見かけたことがある。
(もしかして薬を作っていたのかな?)
やがて戻ってきた浅葱の手には、丁寧に紙へ包まれた薬があった。
「これを水に溶かして飲ませてあげて」
「あぁ、ありがたい! やはり浅葱様は頼りになりますな」
ポチは何度も礼を言うと、大事そうに薬を抱えて足早に帰っていった。
「浅葱様ってお薬も調合できるんですね」
「うん。傷口なら術で治してやれるけど、病気や内部の不調は術で治すよりも薬草を使って治す方が効きがいいんだよね」
瘴気を祓うだけでなく医者のようなことまでできるのかと、鈴は改めて尊敬の念を深めた。
◇
それから数日後のこと。
ポチが再び浅葱の屋敷を訪ねてきた。
腹を下した仲間がすっかり元気になったのでお礼にと、山で採れた木の実をたくさん持ってきてくれたのだ。
「こちら、先日のお礼です。あ、もちろんさっき摘んだばかりの新鮮な物ですよ……!?」
「この木の実甘くて美味しいですよね。ありがとうございます」
初夏の心地よい風が吹き抜ける縁側に浅葱と鈴、そしてポチが並んで腰掛けている。
「そういえばポチさんは、人間と暮らしていたこともあるんだよ。よかったら人間の暮らしのことを教えてよ。俺もまだまだ不慣れで、鈴に無理をさせてないか心配だから」
浅葱がふと思いついたように、ポチへ視線を向けた。その言葉に鈴は慌てて浅葱の着物の袖を引く。
「私はこの生活に充分満足していますよ? 毎日とても楽しいですから!」
「それでも鈴に不憫な思いはさせたくないし、参考までに」
浅葱のどこまでも優しい眼差しに、鈴はそれ以上言葉を返せなくなる。ポチは短い腕を組み、ふむ、と一つ唸ってから過去の記憶を掘り起こすように語り始めた。
「そうですな……散歩には連れて行かれていますか? 人間というものは、日に何度も散歩へ行きたがるのです。それと名前を何度も執拗に呼んだり、庭先に小さな専用の小屋まで用意してくれて……」
そこまで聞いたところで、鈴の脳裏にある一つの明確な疑問が浮かび上がった。散歩、名前の連呼、そして庭の小さな小屋。それはどう考えても――
「ちょっと待ってください。それは一緒に生活していたというより……犬と間違えられて、番犬として飼われていたのではないですか?」
鈴が思わず突っ込みを入れると、ポチは目を見開き雷に打たれたような衝撃を受けた顔で硬直した。どうやら今初めてその残酷な事実に気がついたらしい。
がっくりと肩を落として帰路につくポチの哀愁漂う後ろ姿を、鈴と浅葱は苦笑いしながら見送った。
「けど散歩か……。一緒に歩くのもいいかもね」
ふいに浅葱が隣でぽつりと呟いた。顔を上げると彼は柔らかな夕暮れの光の中で、穏やかに鈴を見つめていた。
「山の主にも挨拶しなくちゃいけないし、その近くに美しい花畑があるんだ。行ってみる?」
「はい! 行ってみたいです!」
浅葱の優しい声色に鈴は満面の笑みを浮かべ大きく頷くと、穏やかに見つめ合う二人の髪を初夏の風が優しく揺らしていった。




