6話 梅酒と意外な弱点
「鈴、なにしてるの?」
台所で作業をしていると、背後からおっとりとした声が降ってきた。振り返れば浅葱が物珍しそうに、鈴の手元を覗き込んでいる。
「梅酒を作ろうと思って」
「うめしゅ?」
「青梅を数ヶ月の間、お酒と砂糖に漬けて作るお酒です。甘酸っぱくてとっても美味しいんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議そうに首を傾げていた浅葱の瞳がキラキラと輝き出した。
「へぇ! 人間は面白いことを考えるね。どうやって作るの? 俺も手伝うよ」
声を弾ませ尾を振りそうな勢いの浅葱に、鈴はつられて微笑んだ。彼のこういう無邪気なところは素直に可愛いと思ってしまう。
「では梅のヘタを取るのを手伝っていただいてもいいですか? こうやって竹串で黒い部分を刺して、くるりと持ち上げて……」
「こう?」
「そう、上手ですね」
浅葱は長い指先で竹串を操り、ぎこちない手つきながらも真剣な面持ちでヘタを取り除いていく。そんな微笑ましい姿を横目に、鈴も隣に並んでヘタを取り除こうとした、その時だった。
「――うわあああっ!?」
およそ高位の妖とは思えない、情けない悲鳴が台所に響き渡る。
鈴が驚いて振り返る間もなく視界が白金の髪で覆われ、横から強い衝撃が走った。鈴の身体は浅葱の大きな体にすっぽりと抱きすくめられてしまったのだ。
咄嗟に突き飛ばしてしまいそうになったが、背中に回された浅葱の手は、心なしかぶるぶると震えている。
「む、む、虫ぃぃぃ……っ!」
浅葱は鈴を抱きしめたままキツく目を瞑り、梅の入ったザルを指差した。鈴が辿るように視線を向けるとザルの縁に小さな緑色の芋虫が一匹、のそのそと這っている。どうやら彼は、この小さな虫に怯えているらしい。
「なんだ、ただの虫じゃないですか」
拍子抜けした鈴は、近くにあった葉で芋虫をそっと包み込むと窓の外へと優しく放り出す。薄目でそれを見届けた浅葱はようやく鈴の体から手を離したものの、未だに青ざめた顔で胸を押さえていた。
「見た目が本当に無理なんだよ……君こそ、なんでそんなに平気なの……?」
「だってただの虫でしょう? 村にいた頃は畑仕事の時によく見かけましたし」
「鈴って妖も虫も平気なんだね……。可愛い見た目に反してずいぶん逞しいというか、なんというか……」
「可愛げがなくて悪かったですね」
「悪いとは言ってないよ〜〜」
浅葱は苦笑いを浮かべ、若干引き気味に鈴を見つめる。
しかし鈴からしてみれば人間から「祓い神」と恐れ敬われ、多くの妖たちに頼られている神様が小さな虫一匹にここまで取り乱す方がどうかと思う。
「……はぁ、虫除けの術を掛け直さなきゃ駄目だな」
「虫除けの術ですか?」
「うん。この屋敷の敷地内に、虫が入ってこられないようにする結界のようなものだよ」
浅葱は未だに周囲を警戒しながら、恐る恐る作業を再開する。鈴はそれを聞いて胸の内で深く納得した。ここは山奥の割に屋敷の周りや裏手の畑で虫を見かけないと思っていたが、彼がそんな術を施していたのか。
それから二人は作業を続け、透き通った綺麗な梅酒の瓶が完成した。
「いつ呑めるようになるの?」
出来上がった瓶を覗き込みながら、浅葱が待ちきれないといった様子で尋ねる。
「半年から一年後くらいですね。――そうだ! 私が村へ帰る前に一緒に呑みませんか?」
「いいね! 楽しみだな〜」
一年後の今頃。自分にかけられている奇妙な術も解けて、村へ帰っている頃だろう。そしていつもの退屈で平穏な生活に戻り、もうこの場所に鈴はいない。
この優しい神様との生活も、あくまで一時的なものなのだから。
「一年後かぁ……」
浅葱はポツリと小さく囁きながら、どこか寂しげな瞳で梅酒の瓶を見つめる。いつも優しくて少し抜けている浅葱の寂しげな横顔に、鈴の胸の奥から温かいものが込み上げる。
「浅葱様、手伝ってくださってありがとうございます。とても助かりました」
鈴は慈しむような微笑みを浮かべ、無意識のうちに手を伸ばしていた。そして目の前にある、絹のように柔らかい白金の髪をよしよしと優しく撫でる。
「……っ!」
その瞬間、浅葱の体がビクリと強張り青緑色の瞳が驚愕に大きく見開かれる。
そのあまりに大袈裟な反応に鈴はハッと我に返った。相手は数百年を生きる神様。いくら普段がポヤポヤしているからといって人間の小娘に頭を撫でられるなど、不快だったかもしれない。
「すみませんっ! つい……嫌でしたか?」
慌てて手を引っ込めると、浅葱はその手を戸惑ったような表情で見つめていた。
「嫌、じゃなくて……」
浅葱は頬を微かに染め、視線を泳がせる。
「嫌じゃなくて……ただ、頭なんて撫でられたこと今まで一度もなかったから。なんだかすごく変な感じがする」
彼は誰もが畏怖する神様だ。加えて背も高く誰かから見下ろされたり、こうして慈しまれるように触れられたりする機会などなかったのだろう。
浅葱は少し躊躇うようにしながらも、大きな手で鈴の指先にちょんっと遠慮がちに触れた。そして上目遣いで鈴の顔をじっと見つめてくるのだ。
「もう一回……撫でて欲しい、かも」
「え……?」
「だめ、かな?」
それはまるで甘える犬のような、あまりにも無防備な声音だった。浅葱は鈴が撫でやすいように自ら大きな体を少し屈め、頭を下げて待っている。
そんな風に懇願されて断れるはずもなく、鈴は戸惑いながらも今度はそっと、彼の白金の髪に再び手のひらを乗せる。
ゆっくりと優しく髪を撫でてやると、浅葱は心地よさそうに目を細めた。ほんのりと赤に染まった頬を緩ませ、嬉しさを隠さないようにその美しい口元を綻ばせる。
「……悪くないね、これ。すごく心地いい……」
低く、甘く、蕩けるような声。その笑みを至近距離で向けられ、鈴の心臓が小さく跳ね上がった。
最近慣れてしまっていたが、彼のその顔立ちは恐ろしいほどに整っている。そんな美形にこんな甘えられ方をされては流石に心臓が持たない。
「も……もうお終いですっ!」
鈴は急に恥ずかしさが込み上げてきて、咄嗟に手を引き離し一歩後ろへと下がった。
「え〜、もう終わり?」
浅葱はあからさまに不満げな声を上げ、名残惜しそうに自分の頭を触っている。鈴は激しくなる鼓動を必死に隠しながら、冷えた井戸水で顔を洗うために、慌てて台所の裏手へと駆け出した。
冷たいガラス瓶の中で静かに時を待つ梅酒のように、二人の距離もまた少しずつ変化していくのだった。




