3話 不慣れな同居生活
「人間って毎日食事が必要なの!?」
翌朝、静まり返った広い屋敷に浅葱の素っ頓狂な声が響き渡った。
まだ寝ぼけ眼の鈴が台所に立とうとすると、浅葱は青緑色の瞳を丸くして鈴を見つめてきた。神様というものは、人間の営みというものをこれっぽっちも理解していないらしい。
「はい。一日三食、きちんと食べないと動けなくなってしまいます」
「信じられないな……。それに昨夜もすぐ寝入っていたし、いつまでたっても起きないから心配になって何度も様子を見に行ったんだけど……あれは普通なの?」
「毎日夜から朝まで寝ないといけないんです、人間ですから」
鈴が当然のように答えると、浅葱は「信じられない……」と言わんばかりの目を向けてくる。
だが、驚きたいのは鈴の方だった。浅葱の食生活といえば一日に一度、山で仕留めてきたらしい野生の獣をそのまま口に運ぼうとするのだ。血の滴るような肉を生のまま食べようとするその姿に、鈴は思わず引いてしまった。
しかも浅葱は夜になっても全く眠る気配がなく、本を読んだり何かの作業をして夜を明かしているらしい。
美しく浮世離れした容姿の割に、生活能力という面では無頓着であまりにも野蛮。人の道理に反している。
そこで鈴はふと気になっていたことを口にしてみた。
「今までの生贄はどうしていたんですか? ここへ来た人間は私が初めてではないですよね」
「うん、数百年前に何度か来たけど誰も君みたいな変な術は施されていなかったから、すぐに山から逃したよ。……でも数人、俺の姿を気に入って側にいたがった人間もいたっけ……無理やり下山させるのも大変だったよ」
「だから最初、変なお面を付けていたんですか?」
「うん……。誰も側に置く気はなかったから、気に入られないためでもあったんだ」
浅葱は遠い目をして、疲れ切ったように語る。浮世離れした美しさを持つと大変だな、と同情しつつもなぜ鈴に術が施されたのか、わかった気がした。
もしかすると過去の生贄が逃げ出していたことが、村の人たちにバレていたのかもしれない。だから今回は絶対に逃げられないよう、神主によって髪を切られ悪質な術をかけられたのだ。
沈みそうになる気持ちを振り払うように、鈴はブンブンと首を振った。この一年間を生き抜くために、まずは自分の食事を確保しなければならない。鈴は気合いを入れて、たすき掛けをした。
屋敷の中や周囲を探索してみると、案外使えるものが見つかった。
屋敷の裏手には、すっかり荒れ果てた畑がある。雑草が生い茂ってはいるものの、土の栄養が良いのか大根や芋、菜っ葉などの野菜が健気に生き残っていた。
「よし、お野菜確保!」
さらに蔵の隅を探るといつのものか分からないが米の袋や、厳重に封をされた味噌の壺が転がっていた。中身を確かめると、痛みもなく十分に使える状態だった。
仕上げに屋敷のすぐ近くを流れる清流へと足を運んだ。透き通る川底をのぞき込むと、丸々と太った川魚が気持ちよさそうに泳いでいる。鈴は着物の裾をきゅっと縛ると、迷わず冷たい水の中へ飛び込んだ。水飛沫を上げ、狙いをすまして手を突き出す。
「とった!」
ばしゃりと音を立てて捕まえたのは、見事な川魚だった。村で毎日畑仕事や家事をこなしていた鈴にとって、川魚の手掴みなど朝飯前だ。
台所に戻り手際よく火を起こして米を炊き、魚を焼き、野菜を刻んで味噌汁を作る。やがて香ばしい匂いと出汁の温かな香りが広がっり、一汁一菜ではあるが立派な食事が完成した。
「浅葱様も一緒にどうですか? たくさん作ったので」
ちゃぶ台に料理を並べ、縁側で退屈そうにしていた浅葱に声をかける。しかし浅葱は面倒くさそうに手を振った。
「いいよ、俺は必要ないから。人間が食べる物にも興味はないし」
「……そうですか」
鈴は小さく肩を落とし、ぽつんとちゃぶ台の前に座った。
(また、一人で食事か……)
村にいた頃も病弱な静の看病や家事に終われ、いつも全てが終わった後に一人で食事をとっていた。せっかく美味しくできたのに、とシュンとして箸を持つ鈴の様子を浅葱は横目でチラチラと気にし始めた。
落ち込む人間の少女を前に良心が痛んだのだろう。彼は盛大なため息をつくと、のそのそとちゃぶ台の前にやってきて腰を下ろした。
「はぁ……そんな顔しないでよ。一口だけ、付き合えばいいんだろう?」
「いいんですか……? はい、どうぞ!」
鈴はぱっと表情を輝かせ、浅葱に箸を差し出した。浅葱は不器用そうに箸を受け取ると、まずは警戒するように椀を持ち上げ温かい味噌汁をちびりと口に含んだ。
ゴクリと喉仏が動いた瞬間、浅葱の瞳が大きく見開かれる。
「――っ! この汁物、美味しい……!」
驚きと感動が混ざり合った声を上げ、今度は勢いよく味噌汁を啜った。ハフハフと息を吐きながら彼は瞳を輝かせる。
「お口にあってよかったです。蔵に備えられていた味噌を使ってみたんです」
「あぁ、あのねっとりとしたやつ……。妖の友から貰ったものだったんだけど、何に使うか分からなくて放置してたんだ。こうやって使うものだったんだ……」
浅葱はひどく感心したように椀を見つめ、それからまた嬉しそうに料理を口に運んだ。
「温かくて、美味しいなぁ……」
そう呟きながら食べ進める彼の姿はまるで初めてご馳走を知った子供のようで、さっきまでの面倒そうな雰囲気が嘘のように可愛らしく見えた。
結局、浅葱は鈴の用意した食事を綺麗に平らげてしまった。
「ごちそうさまでした。人間のご飯も案外悪くないものだね。すごく美味しかったよ、ありがとう、鈴」
満足そうに笑顔を浮かべる浅葱を見て、鈴の胸の奥にもじんわりと温かいものが広がっていく。
「ふふ、お粗末さまでした。気が向いたらまたこうして一緒に食事をとっていただけると嬉しいです」
この日を境に、屋敷のちゃぶ台には毎日二つの椀が並ぶようになったのだった。
○○
「鈴、どこ行くの?」
ある日の昼下がり、鈴が竹籠を手に勝手口へ向かおうとすると縁側でのんびりとしていた浅葱が不思議そうに声をかけてきた。
「山菜と、できれば鳥か魚でも獲ってきます」
「それなら鳥は俺が獲ってくるよ。それと山へ入るなら――」
浅葱はそこでふと言葉を区切り、何かを躊躇うように眉をひそめて渋い顔をした。
いつもどこか抜けていてポヤポヤとしている彼が、これほど神妙な表情を浮かべるのは珍しい。鈴が「どうしたんですか?」と首をかしげて尋ねると、浅葱は苦い顔をして口の中でブツブツと呟き始めた。
「ん〜……もしかしたら君は嫌がるかも……。でも山に入るなら危ないし……。うーん、でもなぁ」
「あの、浅葱様?」
鈴がなおも問いかけようと一歩踏み込んだ、その時だ。
すっと顔を上げた浅葱が、躊躇なく鈴の間近まで距離を詰めてきた。驚いて息を呑む間もなく、鈴の額に柔らかく温かいものがそっと押し当てられる。
「っ――!?」
短いリップ音が静かな空間に響く。
触れた温もりが浅葱の唇であると理解した瞬間、鈴は顔から火が出るほどの熱さを感じ、全力で彼の胸を突き飛ばした。
「な……なにするんですか! すけべっ!」
真っ赤になって睨みつける鈴に対し、突き飛ばされた浅葱は痛む胸をさすりながら心外そうに両手を振った。
「違う違う! おまじないだから!」
「おまじない……?」
「強力な悪避けになるから、俺の妖力で君を覆っただけだよ……! これで君が一人で山に入っても、危険な獣や虫、妖は絶対に寄ってこないから」
浅葱は何食わぬ顔でそう言って、ふわりと微笑んだ。
ここは深く険しい禁足地の山だ。獣や恐ろしい妖に襲われる危険を考えれば、そのおまじないはこれ以上なくありがたい。
けれど、未婚の若い娘の額へ挨拶代わりのように口付けをするなど正気の沙汰とは思えなかった。
(妖と人間では、やっぱり価値観が全然違うのかも……)
当の浅葱は、恥ずかしがる素振りすら見せずケロリとしている。これ以上騒ぎ立てるのも馬鹿らしく思えてきて、鈴はふう、と深くため息をつき無理やり心を落ち着かせた。獣避けの効果があるのなら、ここは大人しく受け入れておくのが賢明だ。
「……それなら、ありがとうございます」
不承不承といった様子で頭を下げると、浅葱は穏やかに目を細めて「どういたしまして」と笑った。
◇
「夜も遅いので私はもう寝ますね。おやすみなさい、浅葱様」
「相変わらず早いね。おやすみ、鈴」
居間の灯りを背に、鈴は自分にあてがわれた部屋へと戻った。布団に潜り込み、開け放しの窓から夜空にぽっかりと浮かぶ美しい月を眺める。
(随分と、この生活にも慣れてきたな……)
生贄としてこの屋敷に来てから、一ヶ月の月日が流れた。最初は生活の違いに驚くことも多かったが、今ではとても穏やかな日々になっていた。
畑仕事や獲物の狩りは、浅葱が積極的に体を動かしてくれる。毎日美味しいご飯を食べられてお風呂にも浸かれて、しかも普段着用の着物やこんな一人部屋まで用意してくれた。
ただ……森に入るたびに浅葱が当然のような顔をして額に口付けを落としてくることだけは、未だに心臓が跳ね上がって慣れることができないけど。
(村にいた頃は、朝から晩まで家事や畑仕事を一人でこなさなきゃいけなかったけど……)
ここでは共に食卓を囲み、些細なことでも手伝ってくれる優しい神様がいる。その事実が鈴の空っぽだった心を、少しずつ癒してくれていた。
静かな闇の中、鈴はそっと目を閉じる。脳裏をよぎるのは、遠い麓の村に残してきた人々の姿だ。
(静は、元気にしているかな……? ちゃんとご飯は食べられているのかな)
病弱な妹を心配する気持ちは、今でも消えることはない。この生活に満足しながらも、尾を引く不安を抱えている。複雑な思いを胸に抱きながら鈴は疲れに身を任せ、そっと深い眠りへと落ちていった。




