38話 久しぶりの故郷
屋敷に戻ってきた二人の間には、どこか甘やかで濃密な空気が漂っていた。部屋に入るなり浅葱は鈴へすり寄るようにして抱きつき、一向に離れようとしない。
「俺の鈴……俺の妻……」
「くすぐったいですよ!」
首元に鼻先を寄せられ吐息が直接肌に触れる。いつにも増してべったりと甘えてくる浅葱に、鈴は鬱陶しく思いながらも困惑の息を吐いた。
まだ話したいことがあるのに、このままでは話が進まない、と鈴は浅葱の胸元に両手を押し当てて少し距離を取る。
「浅葱様にお願いがあります!」
その言葉を聞いた瞬間、浅葱の青緑色の瞳が期待に輝いた。まるで気まぐれな春の風が吹き抜け、一斉に花々が咲き溢れるかのように表情全体に輝かしい喜びを浮かべる。
「なに? なんでも言って、どんな願いでも叶えてあげる」
胸を躍らせどんな願い事でも聞き届けようと微笑む浅葱。しかし鈴が口にした言葉は、彼の予想とは大きく異なるものだった。
「一度、私のもといた村へ行っても良いですか?」
その一言が落ちた瞬間、浅葱の顔からパッと光が消え去った。明らかな不快感がその端正な輪郭を曇らせる。
「あの村に……? 鈴がもう気にかける必要ないでしょ」
冷ややかに聞こえるほどの低音で浅葱は呟いた。何度も生贄をよこしてくる村に対して、彼は良い印象を抱いていないのだろう。だが鈴にとってそこは育った故郷であり、大切な家族がいる場所だった。
「そんなことないですよ。妹も心配なので様子を見に行きたいんです」
「…………やだぁ」
鈴の説得に対し浅葱は子供のように駄々をこねた。そのまま鈴の肩口に顔を埋めると、逃がさないと言わんばかりの強い力でぎゅっと抱きしめてくる。
「日が落ちる頃には、必ず戻って来ますから……」
肩にかかる重みを感じながら、鈴は優しく彼の頭を撫でて宥めた。浅葱はしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を伏せたまま不満げに呟く。
「それなら俺も一緒に行く……」
「駄目ですよ! そもそも浅葱様って人に見えるんですか?」
「姿を見せようと思えば見せられるよ。気になるなら獣や鳥に化けても良いよ」
大真面目な顔で突拍子もない提案をする浅葱に、鈴は思わず苦笑を浮かべた。神様を連れて村へ戻れば、どれほどの騒ぎになるか分からないし、獣になって側にいられるのもちょっと緊張する。
「……浅葱様はここで待っていてください」
そう断言されると浅葱はあからさまにしゅんと眉を下げ、捨てられた子犬のような顔をした。その姿があまりにも健気で愛おしく思える。
鈴は少し悩んだ末、髪から水色の髪紐をほどいた。それは以前浅葱から贈られた大切な宝物だ。
「帰りを待ってくれてる人がいるだけで、私は嬉しいんです」
解いた髪紐を鈴は浅葱の掌にそっと乗せる。
「必ず貴方のところに帰って来ます。だから少しだけ待っていてください」
手渡された水色の紐を、浅葱は壊れ物を扱うように大切に握りしめた。鈴の真っ直ぐな瞳に見つめられ、彼は抵抗を諦めたように渋々と「わかったよ……」と頷いてくれた。
◇
「それでは、いってきます」
「鈴、ちょっと待って。これも持って行って」
差し出されたのは丁寧に折り畳まれた小さな紙。
「妹に飲ませると良い。身体が多少丈夫になるだろう」
浅葱が病弱な妹のことを気にかけてくれた優しさが嬉しくて、鈴は満面の笑みを咲かせた。
「浅葱様……ありがとうございます!」
心からの笑顔を向けると浅葱はゆっくりと顔を下ろし、鈴の唇に軽く口付けを落とした。
「なっ……!?」
不意打ちの口付けに鈴の頬が一気に赤く染まる。赤くなった鈴の顔を浅葱は熱を帯びた優しい目で見つめ返した。
「必ず、俺のところへ戻って来てね。いってらっしゃい」
「はい……いってきます!」
囁かれた穏やかな言葉に、鈴は胸を高鳴らせながら深く頷いた。そして浅葱の温かな見送りに背中を押され、鈴は屋敷の門を後にする。
◇
浅葱に教えられた道を条件に従って下りると、やがて見慣れた裏山へ出ることができた。風に乗って聞こえてくる農作業の音や土の匂いに懐かしさを覚える。しばらく道を歩いていくと、木々の隙間から見慣れた村の風景が広がってくる。
安堵感を覚えながら歩みを進めると、畑に出ている村人の姿が目に入った。鈴は明るい声で挨拶を交わそうとする。
「こんにちは!」
しかし村人たちは鈴の姿を認めると、まるで化け物でも見たかのように目を見開いた。彼らは挨拶を返すどころか、怯えた顔でコソコソと囁き合い、蜘蛛の子を散らすように視線を逸らして去っていく。
(……どうしたんだろう? 一年もいなかったから驚いているのかな)
首をかしげながらも鈴は自分の家へと向かった。家の周囲にある畑を見ると、草が伸び放題になっており手入れがされている形跡はない。
(畑が手入れされていない……静の体調が悪くて手が回らないのかな。今度手入れをしなくちゃ)
妹を思いやりながら、鈴は古びた家の引き戸に手をかけゆっくりと引いた。
「静! ただいま!」
土間の奥、仄暗い部屋の中で身体を縮めていた少女が、弾かれたように顔を上げた。自分と同じ顔立ちをした双子の妹――静である。
「……すず?」
静の声は震えていた。喜びの表情ではなく、まるで悪霊でも目の当たりにしたかのような恐れに満ちた顔で姉を見つめている。
「どうして……鈴は生贄になって死んだはずじゃ……」
「神様は人を食べないんだって。神主に術をかけられて山を降りられなかったから、無事だって伝えられなくてごめんね」
驚かせてしまったのだと思い、鈴は安心させるように優しい笑みを向けた。そして浅葱から託された薬の包みを大切そうに差し出す。
「それでね静、神様が身体を丈夫にする薬を作ってくれたから飲んでみ……」
その瞬間、バシッ! っと鋭い音が響き鈴の手から薬の包みが弾き飛ばされた。竹紙が破れ白い粉薬が土間の床へ虚しく舞い散る。
「静……?」
突如、見せつけられた妹の拒絶に鈴は言葉を失った。見上げれば静は顔を極限まで引きつらせ、血相を変えて激昂していた。
「生贄なのに……なんで帰って来たの!? 早く出て行って! 誰かに見つかったら私まで……!」
「え……?」
静の口から溢れ出たのは、思いやりや心配の言葉ではなく姉への憎悪だった。呆然と立ち尽くす鈴の背後で、ガタリと荒々しく引き戸が開いた。
「おお! 鈴か。久しぶりだな。山から降りてきたんだって? 大変だっただろう。今夜は泊まっていくと良い」
ぞろぞろと家の中に踏み込んできたのは、引き取ってくれた竹中夫妻をはじめとする村の男たちだった。その目がニタリと歪んでいるのを見て、鈴の背筋に冷たいものが走る。
「……いえ、神様にすぐに帰ると伝えてあるので、大丈夫です」
不穏な空気を察し鈴は外へ逃げ出そうとした。だが、男たちの強靭な腕が鈴の身体を押しつぶすように押さえつける。
「放してください! 帰らなきゃいけないんです!」
「嘯くなよ。生贄が逃げてきたとなれば、村の災いが収まらんのだよ」
抵抗する鈴の視界がぐらりと揺れたその瞬間――頭部に硬く重い衝撃が走った。
「あっ……」
浅葱の温かな笑顔が脳裏をかすめる。響くような激しい痛みの後、視界はゆっくりと闇へと呑み込まれ、鈴の意識は深い昏睡へと沈んでいった。
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