37話 桜の木の下で
「――鈴、着いたよ。これが妖桜の木」
隣を歩いていた浅葱がふと足を止めた。その視線の先、険しい獣道を抜けた先に一本だけそびえ立つ巨大な妖桜の木。春の足取りを感じさせるうららかな陽光に照らされたその木は見渡す限り一面に、透き通るような青い花びらを湛えている。
風が吹き抜けるたび、まるで優しい春の雨のように大粒の青い花びらがサラサラと舞い散り、二人の足元を幻想的に染め上げていた。
「すごく綺麗ですね……」
この花の蜜こそが、鈴をこの山に縛り付けている理不尽な術を解き、同時に浅葱の持つ強力な言霊の力を防ぐ力を持っている。浅葱は長い腕を伸ばして手近な枝から最も美しく咲き誇る花を一つ摘み取り、鈴の目の前へとそっと差し出した。
「花の後ろから蜜を吸うんだよ。毒ではないから安心してね」
「わかりました!」
鈴は両手で大切にその花を受け取る。幼い頃、野山でツツジの蜜を吸った時のように、そっと唇を寄せて青い花びらの根元から蜜を吸い込んだ。ほんのりと甘く清涼な香りが口いっぱいに広がり、喉の奥へと滑り落ちていく。
「それじゃあ人間にかけられた術を解いて、俺の言霊を防ぐ術をかけるからね」
浅葱は静かにそう告げると、鈴の小さな身体をすっぽりと包み込むように正面から抱きしめた。そして心臓の真後ろに触れるように、鈴の背中へと大きな手を添える。
「……鈴、大丈夫? 怖くない?」
耳元で囁く浅葱の声は微かに震えていた。彼はいつだって臆病なほどに優しく不器用だ。
この日のために彼がどれほど慎重に、鈴の負担にならないよう練習を重ねてきてくれたか、誰よりも鈴自身が知っている。
「怖くないです。浅葱様を信じていますから」
鈴が真っ直ぐに彼を見上げて微笑むと浅葱は目を丸くし、やがて安堵したように微笑み返した。
「ふふっありがとう、鈴。……始めるね」
「はい!」
覚悟を決めて目を閉じる。直後、鈴の背中から浅葱の澄んだ冷たい妖力が静かに流れ込んできた。最初はヒヤリとしたものの今ではもうすっかり馴染んでしまった心地よい気配が、胸の奥底へと集まっていく。冷涼な力が心臓を優しく確かな強さで包み込んだ。
次の瞬間、パチンと身体の奥底に絡みついていた重く黒い鎖が、音を立てて弾け飛んだような感覚があった。鈴を不当に縛り付けていた呪いが完全に解け去ったのだ。
身体中を巡っていた重苦しい鉛のような疲労感が嘘のように消え去りふわりと羽根が生えたように身体が軽くなる。
それと同時に心臓を覆う浅葱の妖力が彼自身の体温のように、じんわりとした温かさとなって鈴の全身を優しく満たしていった。そして静かに浅葱の大きな手が鈴の背中から離された時――
「できた……」
胸を撫で下ろすような、深い安堵の吐息が浅葱の唇から零れ落ちた。
「成功、ですか……?」
「うん。……俺の力が本当に効かなくなったか、試してみてもいい?」
「はい!」
鈴が迷いなく頷くと、浅葱は少し悩むようにふいと視線を落とした。そしてためらうように手を伸ばし、鈴の小さな手を自身の大きな手でそっと包み込むように握りしめる。
(何を言うつもりなんだろう……)
鈴が少しだけ身構えた次の瞬間、浅葱の口から紡がれた言葉は思いもよらないものだった。
「俺の名前を……忘れて」
「…………はい!?」
口に出して願えばどんな願いでも叶ってしまう、絶対的な言霊の力がこもった重い響き。しかし鈴の心臓を覆う温かな術が盾となり、脳裏から彼の名前が消え去ることはなかった。
それよりも大切な人を忘れさせるような寂しさと怒りが胸の奥から込み上げてくる。
「俺の名前、わかる……?」
こちらの様子を伺うように浅葱が恐る恐る鈴の顔を覗き込んでくる。そのおずおずとした態度に、鈴はたまらず声を張り上げた。
「浅葱様でしょう! それよりなんて事を試しているんですか!」
「えっ、あ……ご、ごめん」
「私は浅葱様の事も名前も、絶対に忘れたくありません!」
少し涙目になりながら真っ直ぐに想いをぶつけると、浅葱はハッと息を呑んで目を見開いた。鈴の強い言葉に打たれた浅葱の美しい顔が微かに歪む。まるで込み上げる愛おしさを必死に我慢するような不器用な表情を浮かべると、彼は鈴からまた目を逸らした。
「……ごめん。でも、これで成功だね」
小さく震える声を落とすと浅葱は握っていた鈴の手を離し、逃げる猶予でも与えるかのように一歩、後ずさる。
「これで鈴にかかった術は完全に解けたし、もう俺の力で鈴を縛ることはできない。……鈴はもう、どこへでも自由に行けるよ」
喜ばしいはずの言葉なのに彼の青緑色の瞳はひどく寂しそうに揺れていて、こちらを見ようとしない。鈴はほんのりとした温かさの残る自身の胸元へ、きゅっと両手を当てた。
「自由……。これで、村に行けますね」
「うん」
「妹にも会えますね」
「……うん」
一言交わすたび、浅葱の顔に影が落ちていく。先程の仕返しをするように鈴は少しだけ意地悪に口角を上げ、彼の顔を真っ直ぐに見つめた。
「これで浅葱様と一緒に、常世のお祭りを見にいけますね」
「うん…………え?」
浅葱は弾かれたように顔を上げる。パチクリと瞬きを繰り返す彼に向かって鈴は一歩踏み出し、その大きな手をしっかりと握りしめた。
「私は畑仕事や家事くらいしかできなくて、可愛げもありません。……それでも、浅葱様を愛していいですか?」
ありったけの想いを込めて彼に微笑みかける。浅葱は信じられないものを見るように息を呑み、やがてその美しい瞳から大粒の涙がこぼれ落ち喜びの色に染まる。
「うん……うんっ! いいに決まってる……!」
浅葱はたまらず鈴の繋いだ手を強く握り返した。そのまま勢いよく鈴の身体を引き寄せると、壊れてしまうのではないかと思うほど、掻き抱くように強く、彼女を抱きしめた。
「生贄なんかじゃない、可愛くて愛おしい鈴だけを、一生愛し続けても良い?」
「はい……っ!」
浅葱の広い胸にすっぽりと埋もれながら、鈴も力いっぱいその背中に腕を回して抱きしめ返した。
(やっと、浅葱様に伝えられた……!)
本当はもっと早く、彼に想いを伝えたかった。けれど村の因習や呪いに縛られた「生贄」という立場のままで伝えるのは嫌だったのだ。すべての枷が外れ、自由になった時に、自分自身の言葉で想いを伝えたかった。
「浅葱様が好き……。ずっと待たせてしまって、ごめんなさい」
鈴が浅葱の涙を拭うように、彼の頬を撫でる。すると浅葱は優しく目を細め鈴の手に頬を擦り寄せた。
「ううん、いいんだよ。伝えてくれてありがとう……鈴、愛してる」
言葉にして想いを伝え合い、同じだけの熱情が返ってくる。神様と人間。本来なら交わるはずのなかった二人の心が、今こうして完全に重なり合っていることが何よりも幸せで温かかった。
「鈴、大好きだよ……」
愛おしげに名前を呼び、浅葱の顔がゆっくりと近づいてくる。長いまつ毛の隙間から慈しむような瞳で見つめられ、彼の薄い唇が鈴のそれと重なろうとした瞬間――
「ちょっと、待った! 早くないですか!?」
鈴が慌てて手を伸ばし、迫り来る浅葱の端正な顔をバシッと押し返した。
「俺はずっと我慢してたんだよ……駄目?」
押し当てていた鈴の片手を浅葱の大きな手が優しく掴み、ゆっくりと下ろされてしまう。いつもはポヤポヤとしているのに、今の彼の瞳は隠しきれない熱を帯びて甘く濁っていた。
逃げ場を塞がれ熱っぽい眼差しに射抜かれた鈴は抗う術を失い、絆されるようにぎゅっと瞼を閉じた。
「ん、いい子だね……」
「っ!」
あやすような甘い声が囁かれると、柔らかな感触がそっと鈴の唇に触れた。触れ合った浅葱の唇は少しひんやりとしていたが、熱が溢れ出すように鈴の唇をゆっくりと溶かしていく。
青い桜の清純な香りと浅葱自身の持つ清涼な香りが混ざり合い、頭の芯がくらくらとし始めた時、名残惜しそうにゆっくりと浅葱の熱が離れていった。
遠慮がちに目を開けた鈴の顔は、耳の先まで茹で上がったように真っ赤に染まっている。対する浅葱は心の底から満たされたように、艶っぽくも無邪気な笑みを浮かべていた。
「ふふっ幸せ……鈴、大好き! 愛してるよ!」
我慢しきれないとばかりに再び鈴を力いっぱい抱きしめ、自分の頬を彼女の頭へすりすりと擦り寄せてくる。寂しがりやで甘えん坊な神様の愛情表現に、鈴は胸を高鳴らせながらも呆れたように口元を自然と綻ばせた。
「私も浅葱様を愛していますよ」
青い花びらが祝福するように降り注ぐ中、ようやく呪いから解き放たれた少女は愛する神様の腕の中で、この上なく幸せな未来への一歩を踏み出したのだった。




