36話 静かな雨の夜
それは冬の底冷えがする、静かな雨の夜だった。
寝付けなかった鈴は、喉の渇きを潤すために水を飲もうと布団から起き上がった。
薄暗い廊下に出るとひんやりとした空気が肌を撫でる。ふと縁側の方へ視線を向けると、そこには外を眺める浅葱の姿があった。
白金の髪が夜の闇に淡く浮かび上がり、彼の青緑色の瞳がただ静かに降り注ぐ冬の雨を見つめている。その横顔はどこか寂しげで、彼と一緒に過ごせる時間はあと少しなのだと、そう確信させる。
きっとこの雨で、残った雪は全て溶けてしまうだろう。雪が完全に溶けきれば――妖桜の木が早咲きの花を咲かせる。その桜の蜜が手に入れば、鈴をこの山に縛り付けている理不尽な術を解くことができる。
同時にそれは、浅葱と過ごす日々の終わることを意味していた。
「浅葱様」
鈴がそっと声をかけると浅葱は肩を震わせ寂しげな表情を隠すように、少し大げさに目を丸くしてみせる。
「鈴、まだ起きてたの? 眠らなくて平気?」
浅葱は自分が着ていた温かい羽織をふわりと肩にかけてくれた。
「ありがとうございます。少し寝付けなくて……浅葱様は?」
「雨を眺めていただけだよ」
浅葱は一度雨へ視線を落とし、それから鈴に向かってにこやかに微笑んだ。けれどその笑顔の奥には、やはり隠しきれない寂しさが滲んでいるように見える。
「……浅葱様。せっかくですし、とっておきのお酒を一緒に呑みませんか?」
「とっておきの酒?」
「はい。一緒に作った梅酒です」
◇
「お待たせしました」
「ありがとう」
縁側で待たせておいた浅葱の隣に座り、梅酒の注がれた器を手渡す。
この梅酒は、鈴がこの屋敷に来て間もない頃に浅葱と一緒に漬けたもの。鈴が山を下りて村へ帰る前に、二人で一緒に呑もうと約束していた特別な果実酒だ。
「すごく綺麗な琥珀色だね」
浅葱は器を目の高さまで持ち上げ、感嘆の声を漏らした。小さな器の中で淡い光に照らされた梅酒がとろりと揺れる。鈴は浅葱の周りに漂うしんみりとした空気を吹き飛ばすように、自分の器を浅葱の器へコツンと当てた。
「乾杯しましょう!」
「うん……乾杯」
鈴がそう元気よく笑うと、浅葱も目を細めて微笑み返した。カチンと陶器が触れ合う心地よい音が静かな夜に響き、二人はそっと梅酒を口に含んだ。
「――ん、甘いけどすっきりしてて、美味しいね!」
初めて梅酒を口にした浅葱は、青緑色の瞳を輝かせて嬉しそうに笑った。
「そうですね! ちゃんと美味しくできて良かったです」
鈴も美味しく漬けられた梅酒に安堵し頬を緩める。小さな器で呑んでいたため中身はすぐになくなってしまった。浅葱は普段からよくお酒を呑むので、鈴は「もっと呑みますか?」と隣の彼に尋ねる。
「ううん。大切に呑みたいから、今夜はこれで充分だよ」
浅葱は空になった器をそっと置き、再び庭の雨へと視線を向けた。
「……鈴と初めて出会った時も、こんな静かな雨が降っていたね」
どこか遠くを見るような目で、浅葱が懐かしむように呟いた。
「鈴が屋敷の門を叩いてから、もうすぐ一年か……。君が木に登って塀から中に入って来た時は、こんな人間もいるんだって本当に驚いたよ」
「それは浅葱様が私を見た途端に、奇声を上げて閉め出すからでしょう!」
クスクスと意地悪く笑う浅葱に、鈴は頬を膨らませた。けれど声を荒げながらも、おかしさに堪えきれずふふっと笑みが零れてしまう。
理不尽な因習で生贄として連れてこられ、ひょんなことから神様と同じ屋敷で暮らすことになって。山吹や銀朱、撫子といった沢山の妖たちとも出会って――本当にあっという間で目まぐるしい日々だった。
「……俺は何百年もこの屋敷で一人、ただ息をしているだけだった。だけど鈴が来てからずっと屋敷は賑やかで、君に振り回されてばかりで……俺の永い生の中で一番、温かな時間だった」
浅葱の大きな手が隣に座る鈴の手を優しく包み込む。そしてゆっくりと鈴の方へ向き直り、彼女の黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「鈴。俺のもとに来てくれて、本当にありがとう」
低く優しい声が、耳の奥にじんわりと溶けていく。微笑む彼の目は心の底から愛おしそうに鈴を映していて、胸が苦しいくらいに熱くなった。
「私も、この一年は何よりも幸せな時間でした」
一緒にご飯を食べたこと、並んで散歩をしたこと、些細な会話を交わすこと。そんな毎日のひとつひとつ、全てが愛おしくて、宝物のように目に焼き付けていた。
「浅葱様。私を側に置いてくださって、本当にありがとうございました」
心からの感謝を込めて鈴が満面の笑みを向けた、その直後だった。
「わ……っ!」
強い力で肩を押され、鈴の身体は床の上へと押し倒されてしまったのだ。視界が反転し背中に冷たい感覚が走る。握られたままの片手は、逃げられないように床に強く押さえつけられていた。
驚いて目を見開くと浅葱が静かに、鈴を見下ろしている。彼は整った眉を深く歪め、強く唇を噛み締めていた。まるで溢れ出しそうな涙を必死に我慢しているような、ひどく苦しそうな顔だった。
「……鈴が、好き」
整った彼の薄い唇から溢れたのは、切ない告白だった。
「君を、愛してしまった……」
ぽつりぽつりと零れ落ちる想いを、鈴は静かに受け止める。
「……もし俺が、鈴を無理矢理にでもここへ縛りつけると言ったら……君はどうする?」
床に縫い付けられた鈴の手に、ぎりっと強い力が込められる。向けられた青緑色の瞳は、普段のポヤポヤとした彼からは想像もつかないほど獣のように鋭く暗い光を宿していた。
けれど鈴は恐れることなく、真っ直ぐ浅葱の瞳を見つめ返した。
「浅葱様のことを嫌いになります。……貴方のこと嫌いになりたくないから、絶対にそんなことさせませんよ」
はっきりと強い言葉で返すが、それとは裏腹に鈴は空いている片手を伸ばし、浅葱の頭を優しく撫でる。
神様である彼ならば、人間ひとりを縛り付けるなんて容易いはずだ。それに浅葱ならばきっと、縛るという選択も取れてしまう。
けれどもし、彼がそんなことをしてしまえば、鈴に術をかけた村人と浅葱が同じになってしまい、優しい彼はきっと心を痛めるだろう。それだけは絶対に嫌だった。
「…………ずるい」
浅葱の表情から張り詰めていた糸が切れたように、険しさが消え去った。代わりに浮かんだのは、ひどく胸を締め付けられる、切ない表情だった。
彼は力が抜けたように鈴の上に覆い被さると、そのまま鈴の首元に深く顔を埋めた。鈴は何も言わず、しがみついてくる浅葱の頭を優しく撫で続ける。
「……寂しいよ」
首元から聞こえてきたのは、消え入るような小さな声だった。
「ここに一人でいて、寂しくないのかって、鈴に聞かれた時は『寂しい』っていう感情が、まだよくわからなかった……」
ぎゅっと鈴の浴衣を握りしめる浅葱の手は、微かに震えている。
「だけど……君との別れの日が近づいて、鈴のいない朝を想像する。日が昇っても、鈴の音も声も聞こえない……。鈴の温もりを感じない……。想像しただけで心がひどく冷たくなった。これが『寂しい』ってことなんだって、初めて知った」
鈴を抱きしめる浅葱の腕に、痛いほどの力が籠った。
「俺は……鈴がいないと寂しいよ……」
胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。いつも穏やかで優しい彼をこんなにも悩ませ、苦しめてしまっている。
「浅葱様……」
鈴は湧き上がる言葉を喉の奥に飲み込み、代わりに自身の身を焦がすような愛おしさを込めて、浅葱の広い背中へ腕を回して強く抱きしめ返した。
(今の私では、まだ駄目……)
彼を苦しめるとわかっている。寂しい想いを強いている事も知っている。それでも、と願うように強く。
するとゆっくりと顔を上げた浅葱は、潤んだ瞳で縋るように鈴を見つめた。
「鈴、今夜は一緒にいさせて……? 絶対に何もしないから……。鈴の側にいたいよ……お願い…………」
弱々しいお願いに鈴はほんの少しだけ驚いて目を瞬かせた。そしてすぐに花が綻ぶように優しく微笑む。
「私も……同じことを考えていました。今夜は浅葱の側にいたいです」
雨音だけが静かに響く夜。二人で同じ布団に潜り、互いの体温を確かめ合うように固く手を繋ぎながら静かな眠りについた。




