35話 一緒に眺める白椿
木々の隙間から差し込む光が、側に残った雪を温かく照らす昼下がり。鈴と浅葱は並んで散歩をしていた。
二人の他愛無い雑談が静かな山に響くなか、ふと鈴の視線が一箇所に引き寄せられる。
(あ……)
緑の葉が鬱蒼と茂る茂みの奥に、真っ白な花弁で凛と咲き誇る白椿の姿があった。その穢れのない美しさに鈴は思わず歩みを緩め、吸い込まれるように目で追ってしまう。
隣を歩いていた浅葱は繋いでいた手の小さな揺れを感じ取ったのか、立ち止まって鈴の顔を覗き込む。
「白椿か、眺めていく?」
青緑色の瞳を和やかに細め、浅葱が優しく問いかける。けれどその言葉にハッと我に返った鈴は慌てて視線を白椿から逸らし、首を横に振った。
「いえ……」
ぎこちなく顔を伏せる鈴の様子に、浅葱は不思議そうに首をかしげた。
「でも気になっていただろう? 椿は嫌い?」
「好きです! ……けど椿は縁起が悪いので愛でてはいけない花です……」
育った村での記憶が胸の奥を苦しく締め付ける。首から落ちて散るその様から、村では「椿は縁起が悪い」と忌み嫌われていた。白椿は一番好きな花だったが幼い頃、素直に美しいと口にしただけで「そんな縁起の悪いものを好きだなんて言うな」と冷たく否定された記憶が今も消えない傷となって残っている。
息を詰まらせる鈴を浅葱はじっと見つめていたが、やがてその口元に温かな微笑みを浮かべた。
「花に縁起が良いも悪いもないよ。美しいと思ったのなら、素直に心に従って愛でれば良い」
浅葱は繋いでいた鈴の手をそっと引き、迷いのない足取りで白椿の前まで足先を進める。間近で見る白椿は冬の木漏れ日を浴びて清廉な輝きを放っていた。
好きなものを好きなままでいていいのだと、否定せず受け入れてくれたことがたまらなく嬉しかった。彼の隣では、迷わず素直に笑うことができる。好きなもの、嫌いなもの全部受け止めてくれる。それはどんなに幸せなことなんだろう。
(浅葱様の隣は、息がしやすい……)
「……ちょっとだけ眺めていってもいいですか?」
「もちろん」
鈴が顔を上げ遠慮がちに尋ねると、浅葱は嬉しそうに頷いた。今度は本心を隠すことなく、真っ白な椿を愛でるように眺めた。そんな彼女の横顔を浅葱は慈しむように見つめ、腰を抱いて肩を寄せる。
「少し枝をいただいて帰ろうか。鈴の部屋に飾ろうよ」
鈴の頭に頬を擦り寄せながら、浅葱がポヤポヤとした調子で弾んだ声を鳴らす。鈴は少し考えてから、首を横に振った。
「それなら私の部屋じゃなくて、居間か玄関が良いです」
「どうして?」
浅葱は不思議そうに目を丸くして鈴の顔を覗き込む。そんな彼を鈴はほんのりと頬を桃色に染めながら、真っ直ぐに見つめた。
「好きな花を、浅葱様と一緒に愛でたいからです」
小さな声で紡がれたその愛くるしい言葉に、浅葱の胸が大きく跳ね上がった。まるで清らかな水面に一滴の雫が落ち、幾重もの波紋が波打つような甘い歓喜が胸の奥底まで一気に広がっていく。
「……白椿の苗を庭に植えようかな」
浅葱は照れくさそうに片手で口元を覆いながらも、緩みきった顔を隠しきれずに呟いた。青緑色の瞳を細め愛おしさに耐えかねたように鈴を見つめるその表情は、春の陽だまりのようにどこまでも柔らかかった。
◇
残雪が日差しを受けて輝き、少しずつ春の兆しが見え始めた頃。屋敷を囲む庭の一角、雪が溶けて黒々とした土が覗く場所に鈴と浅葱は二人で白椿の苗を植えた。
作業を終えた二人は温かなお茶を啜りながら、先ほど植えたばかりの小さな白椿の苗を縁側から眺める。まだ細い枝に青々とした小さな葉を寄せ合っている苗木は、冬の澄んだ空気の中で所在なげに佇んでいた。
「どれくらいで花が実るかな?」
浅葱が湯呑みを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
「来年か再来年には花を咲かせると思いますよ。楽しみですね」
鈴は何気なくそう答え頬を緩ませた。季節が巡りこの小さな苗が大きく育って、白い綺麗な花を咲かせる未来を自然と思い描いていた。しかしその直後、正面を向いていた浅葱が弾かれたように鈴の方へ顔を向けた。
そして鈴が驚く隙もなく、彼は縁側の板の上に置かれていた鈴の手を強く握りしめた。冷えた鈴の指先に、浅葱の手の温もりが力強く伝わってくる。
思わず浅葱へ視線を向けると、彼は溢れんばかりの感情を込めた瞳で鈴を見つめていた。胸の奥を揺さぶるような真剣で熱っぽい眼差し。浅葱は鈴の手をきつく握ったまま、訴えかけるように声を震わせる。
「楽しみにしてくれるの……?」
その問いかけに含まれた切ない響きと熱量に、鈴は言葉が詰まって視線を逸らしてしまった。
自分にとっては未来への純粋な期待のつもりだったが、期限の定められた今の自分たちの立場を思うと、軽々しく口にして良い言葉ではなかった。
「ねぇ、鈴……」
甘く、どこか切なげな声が耳元に届く。浅葱は空いている片手を縁側に突き、鈴へ迫るように身を乗り出してきた。二人の距離が一気に縮まり、浅葱の白金の髪からふわりと甘い気配が漂う。
「俺も、楽しみだよ。鈴と一緒に植えた白椿を、この縁側で眺める日が待ち遠しい」
耳元で囁かれる言葉は酷く切なく、そしてたまらなく愛おしかった。浅葱はぎゅっと握りしめていた鈴の手をそのまま自分の口元へと持ち上げると、愛おしそうに指先へそっと唇を落とした。
柔らかな唇の感触が指先から全身へと痺れるように広がっていく。鈴は息を呑み、目を見開いて浅葱を見つめた。
「だけど……隣に鈴がいてくれないと、俺は寂しいよ……」
今にも泣き出してしまいそうな儚い眼差し。浅葱はそのまま、縋りつくように鈴の華奢な体を強く抱きしめた。
鈴の胸がキュッと締め付けられるように苦しくなった。嘘の気休めを言うこともできず、何も言ってあげられない自分が不甲斐なくてたまらなかった。けれど今の自分では、どんな綺麗な言葉も薄っぺらく響いてしまう。
胸を打つ罪悪感と愛おしさに目元が熱くなる。言葉で伝えることができないのなら、せめてこの体温で想いを伝えたい。
鈴は言葉を発する代わりに、浅葱の広い背中へそっと腕を回した。そして彼がくれた温もりをお返しするように、浅葱の体を力強く抱きしめ返したのだった。




