34話 耐え難い欲
新緑の芽吹きを待つばかりとなった冬の日のことである。
「それじゃあいくよ。辛かったらすぐに言ってね」
「はい!」
鈴は浅葱に背中を向けて畳の上へ座ったまま返事を返した。今は浅葱の言霊の力を無効化する術を施すため、鈴の心を浅葱の妖力で守る練習をしている最中である。
撫子に指示された日から、二人はほぼ毎日のようにこの試みを繰り返していた。今日もまた静寂に包まれた部屋で息を整える。
浅葱の大きな手が鈴の背中にそっと触れた。厚い生地越しであっても、その掌から伝わってくる澄んだ妖力は驚くほどひんやりとしている。最初はあまりの冷たさに身を竦ませたものだったが、何度も重ねるうちに今では心地よく感じられるようになっていた。
背中から侵入した冷気が、体内をゆっくりと巡っていく。しかしその冷気が胸のあたりに差し掛かった瞬間、ピリッとした刺すような痛みが走った。鈴は思わず自身の着物の裾を強く握りしめ必死に耐える。
「っ……」
口から漏れ出たのは小さな吐息。けれど浅葱はそれを見逃さず、すぐに背中から手が離してしまった。
「ごめんね……! 辛かった?」
浅葱は気遣うように鈴の顔を覗き込んだ。青緑色の瞳には申し訳なさそうな色が滲んでいる。
(また最後までできなかった……)
胸の奥で小さく落胆の息をつく。本来であれば、浅葱の力でしっかりと心を包み込むようにしなければならないのだ。けれど今の進度では、まだ半分といったところだろう。
「今日はもうやめておこうか」
浅葱は肩を落とした鈴の頭を優しく撫でながら微笑んだ。
「温かいお茶でも淹れてくるね」
「待って……! 私、ちゃんと耐えられますから最後まで続けてみたいです!」
そう言って立ち上がろうとした浅葱の袖を、鈴は咄嗟に握りしめ彼を健気に見上げる。年も明けて、自分がこの屋敷にいられる期限まであと数ヶ月。鈴の胸の中には、言葉にできない焦りが焦燥となって広がっている。
浅葱は困ったように眉を下げ、鈴を見つめ返した。
「でも……」
「お願いです、浅葱様」
鈴の強い眼差しに押され、浅葱は呆れたように小さく溜息をつき愛おしそうに微笑んだ。
「わかった……。最後まで試してみようか」
浅葱は袖を掴んでいた鈴の手を優しく引き寄せると、そのまま正面からすっぽりと彼女の身体を抱きしめた。不意の出来事に鈴が目を丸くする間もなく、背中に回された腕の力強さと、胸元から伝わる彼の体温が身体を包み込む。
「こっちの方が安心できるだろう? 遠慮せず寄りかかっていいからね」
耳元で囁かれた低く温かな声に、鈴は緊張した面持ちで静かに頷いた。
浅葱はもう一度、鈴の背中に大きな手を添える。じわりと浅葱の妖力が鈴の体内へと入ってきた。背中から心臓を目指して一筋の冷気が走る。
「っ……」
「大丈夫だよ、力を抜いて」
耳元で囁かれる甘い吐息と声。鈴は胸を刺す小さな痛みに必死で耐え、浅葱の胸元にしがみつくようにして彼の着物をキュッと握りしめた。
「もう少し……」
浅葱の声はどこまでも優しく包み込むような温かさがあった。その声を聞いているだけで、体内の痛みが少しだけ和らぐような気がする。
次第に心臓のあたりが清らかな膜で覆われていくような感覚が広がった。
(あ…………)
「鈴、できたよ……!」
「でき、た? はあ、良かったぁ……」
浅葱の弾んだ声が頭上から降ってくる。鈴は心の底からほっと安堵した。浅葱の手が背中から離れると体内に満ちていた冷たい感覚が嘘のように引き、代わりに心地よい余韻だけが残る。
強張っていた身体から力が抜け、鈴は浅葱の胸へ全身でもたれかかった。浅葱はそんな鈴を愛おしそうにギュッと抱きしめ返す。
「頑張ったね、鈴。えらいよ」
浅葱は鈴の頭を優しく撫でながら、ちゅっ、ちゅっと額や頬へ幾度も口付けを繰り返した。
「ふふ、くすぐったいですよ……」
困ったように微笑みながら顔を上げると、目の前にあった浅葱の表情に鈴は息を呑んだ。そこにあったのは、これまで見たこともないほどに深く濃厚な色彩を秘めた瞳だった。
「鈴から、俺の妖力の気配がする……」
浅葱の長い指先が鈴の頬を優しくなぞった。背筋を甘い痺れが駆け抜け、鈴はゾクッと肩を跳ねさせる。
「たまらないね、これ……」
艶っぽく唇を歪めて微笑むと、浅葱は鈴の体をさらに強く抱き寄せた。すっぽりと肩口に顔を埋められ、鈴は浅葱の存在をすぐ近くに感じて胸を高鳴らせる。
「鈴……食べたい……」
肩に額をすりすりと擦り付けながら、浅葱の口からとんでもない言葉が漏れた。
「……ちょっと、食べていい?」
「え……!?」
「食べるね」
(か、齧られるってこと……!?)
元々は生贄として差し出された身。食べられる覚悟などとうに決めていたはずだったのに、やはり痛いのは怖い。せめて息の根を止めてから……
青ざめる鈴を気にせず、浅葱はすりっと吸い付くようにして白い首元へと顔を埋めた。
恐怖で体を硬くし痛みに耐えようと目を瞑る鈴。けれど首筋に降ってきたのは痛烈な牙などではなく、羽毛のように柔らかな唇の感触だった。
温度の低い唇が鈴の白い肌に優しく押し当てられ、ちゅうと音を立てて喰むように愛撫をしていく。
(食べられる、わけじゃない……?)
ほんの少しだけ安心したのも束の間、浅葱の濡れた熱い舌が滑るように鈴の肌を撫で上げた。
「ひゃっ……!」
感電したかのような刺激に鈴の口から小さな悲鳴が漏れ、肌を熱く痺れさせる。後ろに身を引いて逃げようとしたが、腰に回された浅葱の腕は鎖のように固くぴくりとも動かない。
彼の熱い息が首筋にかかるたび、鈴の体温も際限なく上がっていく。
「すず……」
甘く縋るような声。浅葱の指先が鈴の着物の合わせにかけられ、ぐっと強く引かれた。
「ちょっ、浅葱様……!?」
制止の声など耳に届いていないかのように、露わになった鈴の鎖骨へ浅葱は強く唇を押し当てた。ピリッとした強い吸い付きに、鈴の口から短い吐息が漏れる。
浅葱は何度も何度も鈴の肌に密やかな口付けを落とし、熱い舌で肌をなぞり上げた。くすぐったいという感覚を超え、身体の奥底から甘い痺れが込み上げてくる。
(これ……違う意味で危ない気がする……!)
「っも、う……浅葱様……!」
鈴が意を決して強めにその名を呼ぶと、浅葱はピタリと動きを止めた。静寂の後、浅葱はゆっくり顔を上げるとすぐ横にあった部屋の柱に向かって勢いよく頭を打ち付けた。
ガンッ、っと部屋中に重く鈍い音が響き渡る。
「大丈夫ですか……!?」
鈴が絶句して目を見張る中、顔を上げた浅葱の額からは一筋の赤が流れ落ちていた。けれどその表情はどこか吹っ切れたようににこやかである。
「あはは……俺、煩悩祓えてなかったみたい」
そう言って軽薄に笑ってみせる浅葱。しかし鈴にとってはそれどころではない。
「血が出てますよ!」
「大丈夫だよ、すぐに治せるから。それよりごめんね〜着物乱しちゃって」
浅葱は手際よく鈴の乱れた首元を整えて直すと優しく微笑む。
「お茶を淹れてくるから、鈴はここで待っててね」
立ち上がりざまに鈴の頭をぽんぽんと撫で、浅葱はそのまま障子を閉めて部屋を出て行った。一人残された鈴は、緊張の糸が切れたように壁へともたれかかる。
(……びっくりした……)
あの熱っぽい浅葱の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。肌には今もなお浅葱の温かな唇の感覚が、じんじんと痺れるように残っていた。
(傷、本当に大丈夫かな……)
鈴の心を満たしたのは浅葱の額の傷への深い心配だ。しばらくして、浅葱がお茶の乗った盆を手にして戻ってきた。
「鈴、お待たせ。はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
いつものポヤポヤとした雰囲気に戻った浅葱が、鈴の前にお茶を置く。温かなお茶を喉に流しながら、浅葱の額に視線を移すと先程まであった血は綺麗に消え失せていた。
鈴は湯呑みを置いて、少しだけ身を乗り出すと浅葱の白金の髪へ手を伸ばして前髪をそっと分けた。
「鈴……?」
不意の接近に浅葱は頬をほんのりと桃色に染め、青緑色の目をパチクリと丸くさせた。
間近で確かめてみれば浅葱の額には傷跡はおろか、たんこぶ一つもできていない。
「良かった……」
安心し身を引こうとした瞬間。浅葱の手が鈴の腰に回され、ぐっと手前に引き寄せられた。気がつけば鈴は、浅葱の膝の上に横向きに座らされている体勢になっていた。
「ちょっと……!」
「ごめん……鈴が近くに来てくれたことが嬉しくて」
眉を下げてそんな愛くるしいことを言われてしまっては、強く拒むことなど到底できない。
「重いですし……」
「軽いよ」
浅葱の優しくも強引な腕の中へ包まれ、鈴は諦めて大人しくその体温に身を委ねた。
「傷は本当に治ったんですか?」
「うん。もう綺麗さっぱり」
ケロッとした様子で浅葱は笑う。鈴は少しだけ眉をひそめ、真剣な眼差しで浅葱を見つめた。
「でも、痛みはありましたよね? 直せるからって、あんまり自分を傷つけないでくださいね」
いくら傷がすぐに癒えるとしても、自分を雑に扱って良い理由にはならない。鈴はその柔らかい彼の髪を優しく撫で上げた。すると浅葱は唇を結んで眉を寄せると鈴の頭にすりすりと頬を擦り寄せる。
「わかった、心配してくれてありがとう。次からは気をつけるね」
「はい!」
しっかりと約束を交わした、その直後のことだった。浅葱の指先がスッと鈴の着物の合わせに差し込まれ、生地が軽くめくられた。
「なにしてるんですか!?」
「あ〜やっぱり痕残っちゃったね……ごめんね」
浅葱の視線が着物の隙間から覗く鈴の白い鎖骨へと落とされる。そこには先ほど浅葱が強く唇を押し当てた場所に、小さく赤い痕跡がぽつりと残されていた。
「痕、ですか?」
首を傾げる鈴に、浅葱は着物から手を離して真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「うん。俺の痕」
「残っていたら、駄目なんですか……?」
無知ゆえの鈴の純粋な問いかけに、浅葱は一瞬驚いたように目を丸くしたもののすぐにパッと明るい笑みを浮かべた。
「ううん、全然駄目じゃないよ。すごく良いことだから」
柔らかく微笑みながらも、浅葱の瞳にはどこか妖しい光が揺らめいている。
「もっと沢山つけたいな……あ〜でも、俺が我慢できなくなっちゃうか……」
ボソボソと呟きながら、浅葱は再び鈴の肩口に顔を埋めた。う〜んと唸り始める浅葱の様子に、鈴は首をかしげる。不思議に思いながらも、愛おしさを込めて浅葱の白金の髪を優しく撫で続けた。
「まぁ、今は我慢しよ。ねぇ鈴、もっと撫でて」
甘えるように擦り寄ってくる浅葱に応え、二人だけの穏やかで少し甘い時間が冬の静かな部屋の中を満ちていく。




