30話 慈悲深い神は(山吹視点)
《山吹視点》
パタパタとはたきを振るい、甲斐甲斐しく小娘の指示に従って戸棚の掃除を始める浅葱の姿を山吹は呆れた心地で見つめていた。
「尻に敷かれてんなぁ」
思わず口から漏れた半ば呆れ交じりの言葉に、浅葱は作業の手を止めることなく、さも当然といった様子で返してきた。
「鈴になら、踏まれたっていいよ」
へらりと笑ったその明るい青緑色の瞳には、一切の不快感など浮かんでいなかった。それどころか瞳の奥に映る少女に向けて心底愛おしそうな表情を浮かべている。
(高位の神が、たかだか人間の小娘にここまで惚れ込んでいるとは……)
山吹は大きな溜息を吐きつつも、友としてどこか微笑ましく思っている自分にも気づいていた。
浅葱という男は、一見すると誰にでも親切で慈悲深く見える。だが本質は酷く淡白で、人間にも妖にも大した興味など持っていないのだ。
かつて、ただの気まぐれで人間との繋がりを持ち、友を作りかけたことがあった。けれどその気まぐれが招いた結果は、浅葱の心に深く消えない傷を負わせただけだった。
己の持つ絶対的な力の恐ろしさを突きつけられた浅葱は、それ以来、他者と深く関わることを拒むようになった。コイツはこのまま永遠の時を一人で過ごしていくのだろうと、半ば諦めにも似た心地で思っていた。
だが、そんな浅葱の前に生贄としてやって来たのが人間の小娘、鈴だった。
最初こそ浅葱は鈴に興味を示さなかったものの、同じ時を過ごすうちに、小さな変化が積み重なっていく。浅葱自身が誰よりも恐れ、呪いだとすら思っていたその力をあの娘は真っ直ぐに受け入れた。ただ純粋に浅葱という存在そのものを見つめられた神は、心を奪われてしまった。
そして――今ではすっかりこのザマである。
(いつのまにか求婚までしやがって……まぁ、しけた面してた頃よりかは、今の方が幾分マシか)
ただ一つ不満を言えば、二人で酒を呑み交わすたびに鈴の話ばかりを楽しそうに惚気けてくるのは心底鬱陶しい限りだ。
「鈴がいると何気ない日々が、まるで違うものみたいに感じる。振り回されることも多いけど、それも心地よくて……鈴が喜んでくれる顔をもっと見たくなる。俺の手で、笑顔にしてあげたいって思える大切な子なんだ」
顔をほころばせ嬉々として惚気を吐き始める浅葱に、山吹は「また始まった……」と半ば呆れながら目を細める。
「その話は何度も聞いてるっつの! つーかアイツが来てそろそろ一年だろ。惚れさせんのは上手くいってんのか?」
「ん〜……可愛い反応は見せてくれるようになったけど、まだ鈴の気持ちまではわかんないかな〜」
浅葱は困ったように眉を下げ、ぽやぽやとした口調で応える。その悠長な様子に山吹はハッと鼻で笑った。
「お優しいな、神様は。アイツの気持ちなんて無視して、力ずくで捕えちまえばいいのに」
揶揄うように言った山吹に対し、浅葱は静かに首を横に振った。
「それだと鈴を怖がらせちゃうかもしれないし『考る』って言ってくれたから、ちゃんと最後まで待つよ。だから――捕えるのは最後」
その言葉に山吹は思わず目を丸くした。もし鈴に断られたなら、このお優しい男は潔く身を引くものだとばかり思っていたからだ。
「なんだ……お前もそんなこと言うようになったんだな」
「だって鈴は俺の心まで動かしたんだよ? ちゃんと責任をとってもらわないと。……それにあの子が元々いた村って、あんまり良いところじゃない気がするんだよね」
浅葱は動かしていた手をぴたりと止め、そのまま手元へ視線を落とした。
「鈴が初めてここに来た時、なんて言ったと思う? 『死ぬ覚悟はできてるから』ってさ……。あの村は、まだ年若い鈴に生贄なんて理不尽な役目を背負わせて山へ捨てたような村だよ」
穏やかな口調とは裏腹に無表情になった浅葱の横顔からは、地を這うような静かな怒りがひしひしと伝わってきた。だがその腹立たしさに関しては、山吹にとっても思うところがあった。
「……人間はつくづく身勝手な奴らだ。望んでもいねぇのに勝手に生贄なんてよこして、施しを受けようとする」
土地が実らなければ神のせい、災いが起きれば神の祟り。そもそも人間なんて喰ったところで大して美味くもないというのに、なぜ自分たちに供物としての価値があると思い込めるのか。本当にどこまでも身勝手で、傲慢な生き物だ。
「誰も報われねぇ腐った風習なんて、とっとと廃れちまえばいい」
吐き捨てるようにそう呟いた山吹に、浅葱はにこやかに顔を上げた。
「あはは、そうだね。けどそんな腐った風習のおかげで、鈴に出会えた。それだけは感謝してる」
和やかな笑みを浮かべたまま、浅葱は静かに言葉を続けた。
「ただ――たとえ鈴が望んだとしても、大切なあの子を酷く扱うような場所へは絶対に返してやるつもりはないし、今更鈴を逃すつもりもないよ」
浅葱は笑っている。確かに柔らかい笑みを浮かべているのだ。しかしその青緑色の瞳の奥には欠片も温度が宿っていない。ゾクリと背筋を凍らせるような強烈な殺気が肌を刺し、山吹は思わず息を飲んだ。
その時。廊下の奥から賑やかな話し声が聞こえてきた。
「だからお前の茶は薄すぎるんだ! もっと渋い茶を出せ!」
「普通ですよ! 銀朱様の好みに合わせてたら、渋くて飲めません!」
文句を言う銀朱と言い返す鈴が部屋の障子を開いた。
「浅葱様、山吹様、縁側で休憩にしましょう! 温かいお茶を淹れましたよ」
鈴の声が届いた瞬間、浅葱の表情は一変した。
「ありがとう、鈴。今行くね」
先ほどまでの冷徹な殺気はどこへやら、浅葱は大輪の花が咲くかのようにパッと瞳を輝かせ、弾んだ足取りで鈴のもとへと駆け寄っていく。
「浅葱様は渋いお茶と、普段のお茶だとどちらが好きですか?」
「え〜俺はいつも鈴が淹れてくれるくらいが好きだよ」
「ほら!」
得意気に胸を張る鈴に、銀朱がぐぬぬ……と顔を歪ませる。
「ですが浅葱様――!」
必死に自分の好みを主張しようとする銀朱。その傍らで仲良さそうに笑い合う浅葱と鈴。そんな三人の背中を眺めながら山吹はすっと鈴の腕を取り、その体を後ろへと強く引いた。
「山吹様……?」
「もし……逃げるってんなら、手ぇ貸してやろうか?」
浅葱に聞こえないよう、鈴の耳元で低く囁いてみる。これは、同情とせめてもの助言のつもりだった。だが鈴は意味がわからないといった様子で、キョトンと首をかしげた。
「逃げませんよ?」
自分がどれほど恐ろしい神に囚われかけているのかも知らず、鈴は能天気な顔をしている。その腑抜けな様子に山吹は心の中で盛大な溜め息を吐いた。
すると次の瞬間、銀朱の相手をしていたはずの浅葱がいつのまにか鈴の後ろに回り込んでいた。鈴の細い身体を後ろから抱きすくめると、彼女の頭に顎を乗せて山吹をじっと見つめてくる。
「どうしたの?」
柔らかな声色とは裏腹に、浅葱の瞳は冷ややかに山吹を射抜いていた。
「……別に。確かめていただけだ。用は済んだ」
山吹が呆れたように手を放すと、浅葱はすぐに表情を緩めた。
「そう? それならほら早く行こうよ、喉乾いちゃった」
「わかりましたから、押さないでください……!」
鈴の背中をグイグイと嬉しそうに押しながら、縁側へと向かっていく浅葱。
(……まぁ逃す以前に、あの神に捉えられて逃げられる奴なんて存在しねぇか)
やれやれと肩をすくめた山吹は、二人の後を追って縁側へと足を進めたのだった。




