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28話 温泉に行こう


 冬の昼下がり、屋敷にはのんびりとした空気が流れていた。世間話をしに立ち寄った狸のポチがふと差し出した話に、鈴は思わず身を乗り出してしまう。

 

「この山に、温泉があるんですか!?」

「ええ。浅葱様もご存じかと思っていたのですが……」


 鈴はすぐ隣で知らん顔を決め込もうとしている浅葱へと視線を向けた。鋭い眼光で迫ると浅葱は気まずそうに眉を下げ、視線をふいと逸らしてしまう。

 

「なんで教えてくださらなかったのですか!?」

「だ、だってさぁ……教えたら鈴、絶対行きたがるだろう?」

 

「当たり前です!」

「ほら〜! そこ山の妖も浸かりに来るし、混浴なんだよ? 絶対、鈴に行ってほしくなかったから……」


 語尾を濁しながらも、その瞳にはどこか譲れない頑なさが滲んでいた。だがさすがに混浴となると鈴も気後れしてしまう。恥ずかしさが勝り、今回は諦めようかと小さく息を吐いた時だった。

 

「それでしたら、夕方に行かれてみてはどうですか? その時間なら他の妖もいませんし貸切状態ですよ」


 ポチの助言に鈴の胸が再び跳ね上がった。長くは浸かっていられないかもしれないけど、誰もいないのなら話は別だ。

 

「雪を眺めながら浸かる温泉は格別です。お二人には日頃からお世話になっていますし、明日の夕方は他の妖が立ち入らないよう、私が言って回りましょうか?」

「え? 本当ですか!」


 パッと表情を輝かせる鈴の横で、浅葱が焦ったように声を張り上げた。

 

「ちょっと待った! 鈴、俺と一緒に入る気なの!? 意味わかってる!?」


 ほんのり頬を赤に染め、珍しく狼狽える浅葱に鈴は首をかしげた。

 

「交代で入るんですよ。それなら何の問題もないでしょう?」

「でも……」

「温泉なんて久しぶりです! 楽しみ!」


 浅葱の懸念をどこ吹き風と受け流し、まだ見ぬ温泉へと鈴の心を奪われていた。浅葱は不満げに眉をひそめ、胸の奥でモヤモヤとした思いを燻らせるように、重い息を吐き出したのだった。



◇



 翌日の夕方。

 二人はポチに教わった温泉へと訪れていた。


 周囲を大きな岩に囲まれたほの白い温泉。立ち上る湯気が冬の澄んだ空気に溶け込んでいく。木で作られた慎ましい衝立も置かれ、桶まであるので不便ではない。しかも話に聞いていたとおり人の気配も一切ない。

 本当に二人だけの貸切状態だった。

 

「本当に温泉がありますね!」


 目の前に広がる光景に鈴の心は躍った。冷えた空気の中で揺らめく湯煙を見ているだけで、身体が温まりそうだ。

 

「そうだね……。見張ってるから、鈴が先に入りな。楽しみにしていただろう?」

 

「いえ、浅葱様は寒がりなんですから先に入ってください! 私は後でゆっくり浸かりますから」


 浅葱の背中を押すと、彼は遠慮がちに「ん〜……わかった」と短く返事をした。鈴は邪魔にならないよう岩陰で浅葱が上がるのを待っていようとしたが浅葱にそっと袖を引かれる。

 

「待って。心配だから、俺の目の届く場所にいて」

「え?」


 連れられたのは温泉からほんの少ししか離れていない平らな石の上。鈴は言われるがままそこへ腰を下ろすと、浅葱は安心した表情を浮かべる。そして自身の着物の帯に手をかけようとするので、鈴は慌てて背を向けた。


 背後からシュルッと滑らかな布地の摩擦音が聞こえる。そして硫黄の甘い香りとお湯を身体に掛け流す心地よい音が静かな山に響き渡っていく。

 

「浅葱様、温泉はいかがですか?」

「うん……気持ち〜……」

 

 溶けてしまいそうな浅葱の声が返ってくるので、鈴は密かに笑みを零す。ここ最近は妖の来客も多く浅葱も疲れが見えていたので、強引にでも連れ出して正解だった。


 夕闇が迫る空と、周囲に積もった白い雪。それらを眺めながら、自分の番を今か今かと待ちわびる時間はどこか愛おしい。

 

「――鈴、次いいよ」

「え? もういいんですか?」


 声に惹かれて振り向いた瞬間、鈴は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げて大きく肩を震わせた。

 そこには、腰に手拭いを粗雑に巻いただけの浅葱が立っていたからだ。お湯で濡れた火照った肌、男らしさと美しさを兼ね備えたしなやかな背中の筋肉が露わになっている。

 

「っ……!」

 

 鈴は弾かれたように勢いよく背を向け直した。ぼんやりと脳裏に焼き付いてしまった彼の背中が、瞼の奥にまで浮かび上がる。

 

「き、着物を着てから声をかけてください!」

「え? ああ……別に俺は、鈴になら見られても平気だよ?」

「そういう問題ではありません……!」

 

「ふふ、鈴は初心だな〜。そういうところも可愛いけど。ほら、ちゃんと着物を着たから今度こそ次どうぞ」

「は、はい……」

 

 鈴の心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。両手で真っ赤になった頬を包み込みながら、鈴はようやく自分が置かれている状況を思い知る。

 

(私……今から浅葱様のすぐ近くで着物を脱いで、温泉に入るの……!?)

 

 雪景色の中で浸かる温泉という魅力にすっかり気を取られ、肝心なことが頭から失念していた。一気に血の気が引いたかと思えば、今度は全身が沸騰したかのように熱くなる。

 

 鈴はぎこちない足取りで立ち上がると、浅葱の方を見ないように視線を泳がせながら湯の放つ湯煙の側へ歩を進めた。

 

 後ろで先ほど鈴の座っていた石に浅葱が腰を下ろした気配が届く。チラリと恐る恐る横目で見れば、彼はちゃんと後ろを向いてくれていた。


(落ち着いて……パッと浸かって、パッと上がれば大丈夫……!)


 緊張で指先が震える。ゆっくりと着物の帯を解き、滑り落ちる布地を衝立の上に重ねた。冷たい山風が肌を撫でて身震いする間もなく、桶ですくった湯で身体を清めると、逃げ込むようにして温かい温泉へと身を沈めた。

 

「はぁ〜……」

 

 身体の芯までじわじわと温もりが染み渡っていく。冬の寒さに固くなっていた体が解きほぐされ、思わず吐息が漏れた。

 

「鈴。温泉はどう?」

「温かくて、すごく心地いいです〜……」

 

 背後から届く穏やかな声に答えながら、鈴は少しだけ肩の力を抜いた。やっぱり冬の温泉は格別だ。温泉の温もりに包まれ、緊張が和らいだのも束の間――。

 

「それなら良かった」

 

 撫でるような低い囁きとともに、濡れた石の床をペタペタと歩く音がすぐ近くで響いた。驚いて目を弾けさせると、浅葱が何食わぬ顔で湯船のすぐ傍まで歩み寄ってきていたのだ。

 

「え? ちょっ……あ、浅葱様!?」

 

 パニックに陥り、湯の中で固まる鈴をよそに緩く着物を羽織っただけの浅葱が温泉の側で膝をつき、ゆっくりと屈みこむ。

 

 前屈みになったことで大きくはだけた彼の胸元からは、お湯の熱でほんのりと桜色に染まった肌が覗いていた。その熱った肌や濡れた白金の髪が、普段のポヤポヤとした雰囲気を消し去り、毒々しいほどの艶っぽさを漂わせている。

 

「ふふっそんなに慌てちゃって……可愛い。鈴は今更、状況を理解したの?」

「っ……!」


 図星を突かれ、何も言い返せずに言葉を詰まらせた。お湯が乳白色に濁っているおかげで肌は見えないはずなのに、至近距離から熱を帯びた瞳で見下ろされる恥ずかしさに押し潰されそうになる。

 それどころか、目の前にいる神様から醸し出される雰囲気に密やかな危険すら感じて身体が竦んだ。


 浅葱は口元を歪めると、濡れた鈴の頬にそっと指先を滑らせた。熱い指先が肌を撫でる感触に、鈴の背筋に甘い痺れが走る。

 

「君を好きな男と、二人きりで温泉なんて……警戒心がなさすぎるんじゃない? 信頼してくれるのは嬉しいけど、もっと男として意識してくれなきゃ……いくら俺でも、我慢できなくなっちゃうからね?」

 

 耳朶をくすぐる熱い吐息と恐ろしいほどに甘く響く音に、鈴は頭まで湯船に沈んでしまいたいほど小さく身体を丸めた。心臓の音がうるさすぎて、自分の胸が張り裂けてしまいそうだ。

 

「……き、気をつけます……」

「うん、そうしてくれると助かるな。今は何もしないからゆっくり温まってね」


 鈴の愛らしい反応を堪能した浅葱は一変していつもの優しい微笑みを浮かべると、満足したように立ち上がり再び石の上へと背を向けて座り直した。


(ゆっくりなんて……できるわけないじゃないですか……!)

 


◇


 

 二人は屋敷への帰り道を歩いていた。山風は冷たいはずなのに、鈴の身体からは一向に火照りが引く気配がない。

 

(まだ顔が熱い……)

 悩ましげに歩く鈴の横で、浅葱の視線はある一点に注がれていた。

 

 髪を結い上げたことで露わになった、鈴の白く熱ったうなじ。浅葱はその華奢な首元をじっと熱を込めて見つめている。そんな刺さるような熱い視線に気づき、鈴は身をすくめた。

 

「……浅葱様?」


 名を呼んだ瞬間、浅葱がスッと顔を近づけ、鈴のうなじに触れそうなほどの至近距離で唇を小さく開く。

 

「ふぅー……」


 吹きかけられた冷たい吐息に、鈴の肩が跳ね上がった。

 

「あはっ少しは火照りが覚めた? ……あれ、また真っ赤になってしまったかな?」

 

 浅葱は喉を鳴らしながら、悪戯っぽく首をかしげている。鈴はそんな彼をキッと睨むように視線を上げた。

 

「……っ誰のせいだと思っているんですか!」

「俺のせいでしょ? ふふっ嬉しいな」


 悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうな確信犯的な笑みを浮かべる浅葱に鈴は思わず拳を握りしめた。これ以上、揶揄われてはたまらない。

 

「もう! 早く帰りましょう! 湯冷めしてしまいますから!」

「はーい」

 

 早足に歩き出す鈴の後ろを、浅葱は愛おしそうに目を細めながら楽しそうについていくのだった。

 

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