27話 人肌の温もり
「浅葱様、ありがとうございました」
薬を受け取った妖が、何度も頭を下げながら玄関の敷居を跨いでいく。浅葱は白い吐息をそっと吐き出しながら、どこかおっとりとした笑みを浮かべた。
「お大事にね。今夜は特に冷え込むから、温かくして寝るんだよ」
妖の小さくなる後姿を浅葱の隣で一緒に見送りながら、鈴はふと抱いていた疑問を口にする。
「最近、風邪をひかれた妖のお客様が多いですね……」
「山全体が冷え込むから、この時期はどうしてもね〜」
心細そうに身を縮めて屋敷を訪ねてくる妖たちの姿を思い出し、鈴は心配そうに眉をひそめた。
「というか、妖も風邪を引くものなんですね」
夏バテの時もそうだったが、妖という存在は風邪とは無縁なのだとばかり思っていた。どこか親しみを感じ鈴の胸の奥に小さな親近感が芽生える。
「人間ほどではないけど、妖力が乱れると熱が出て頭が重くなったりするんだ」
浅葱が説明をするように語りかけた、まさにその時であった。
「ごめんください……浅葱様……頭が痛く、診ていただけないでしょうか……」
玄関の引き戸が弱々しく叩かれ、鼻をぐずぐずと鳴らす音が聞こえてくる。
「言ってる側から、また来たみたいだね」
浅葱は困ったように微笑むと、すぐさま妖を客間へと通した。手際よく診察を進め乱れた妖力を整えるための薬草を調合していく。鈴もまた「お辛そうですね、大丈夫ですか?」と優しく声をかけながら、温かいお茶を差し出した。
「うう……鼻詰まりが酷くて、頭も痛くて……」
「うん、流行りの風邪だね。今、薬を用意するから多少は楽になると思うよ」
手慣れた様子で妖を労わる浅葱の手腕は実に見事なものであった。その後もひっきりなしに訪れる風邪っぴきの妖たちを、浅葱は嫌な顔も見せずに一人ひとり丁寧に診察していった。そしてようやく最後の客が「ありがとうございました」と深く感謝を述べて去り、訪問者の波が途切れた頃。
「はぁ……疲れた……」
静まり返った玄関で浅葱がぽつりと呟くと、鈴の身体が後ろから包み込まれる。
「あ……浅葱様!?」
驚いた声を漏らす鈴の肩に、彼は額をぽてんと預けてくる。ここはまだ玄関先で、いつまた妖が訪ねてくるかもわからないのに浅葱は鈴を抱きしめたまま離そうとしない。それどころか、すりすりと鈴の首元に顔を寄せ彼女の体温を感じるように甘えて暖をとり始めた。
「鈴は温かくて気持ちいいな〜……」
さっきまで大勢の妖を手際よく診察していた格好いい神様はどこへやら、急に甘えモードへ切り替わった姿に鈴は思わず苦笑いを漏らす。するとその甘やかな時間を破るように、カサリと玄関の引き戸が音を立てて鳴った。
「浅葱様、度々失礼しま……あらまあ」
戸口に立っていたのは、先ほど薬を受け取って帰っていったはずの妖。どうやら用事があり戻ってきたらしい。
「おや、どうしたの?」
浅葱は来客にも関わらず、鈴を抱きしめたまま何食わぬ顔で話を進めようとする。鈴は慌てて離れようと、お腹の前に回っている浅葱の腕を引き離そうとした。しかし浅葱の腕はびくともせず、それどころか鈴の体温を味わうようにすり寄ってくる。
「浅葱様……! お客様の前ですよ!? 早く離してください……!」
「え〜だって鈴は温かいから離したくないんだもん……」
「だもん、ではありません! 見られていますから……!」
小声で訴えかけても、浅葱はニッコリと愉しげに微笑むだけ。そんな二人のやり取りを戻ってきた妖は目を丸くし、どこか珍しいものを見るような眼差しで見つめていた。
「お二人は本当に仲がよろしいですね。こちらお礼の品をお渡しするのを忘れていまして……」
「おや、ご丁寧にどうも」
妖は深々と頭を下げて、風呂敷を差し出した。
「――それにしても人間というのは、それほどまでに温かいのですか……? 私も手に触れさせていただいてもよろしいでしょう?」
妖は羨ましそうに自身の小さな手をギュッと握りしめると、どこか期待に満ちた目で鈴を見つめる。
「もちろん、大丈夫ですよ」
寒さで震える妖を気の毒に思った鈴は、素直に右手を前に伸ばそうとした。――だが、その手が妖に届くことはなかった。
「っ……!」
後ろから伸びてきた浅葱の大きな手が、空中で鈴の手を包み込むようにしてぐっと引き戻したのだ。鈴が驚いて振り返ろうとすると、耳元に低く落ち着いた声で小さく囁かれる。
「駄目だよ……鈴は俺のでしょう?」
耳朶をくすぐる甘い言葉に、鈴の心臓が大きく跳ねた。浅葱は顔を上げると青緑色の美しい瞳を怪しく細め、目の前の妖へ向けて圧倒的な威圧感を解き放つ。
「この子は俺のなんだ。だから悪いけど、他を当たってくれる?」
言葉の端々に滲む、隠そうともしない欲。普段のポヤポヤとした雰囲気からは想像もつかない浅葱の冷徹な眼差しに妖は顔を青ざめさせた。
「ひぃ……も、申し訳ありません浅葱様っ」
「ううん。わかってくれれば良いから。俺も冷たい言い方をして悪かったね」
「滅相もございません……! そ、それでは私はこれで失礼いたします」
恐縮しきった妖は頭を下げると、脱兎のごとく逃げ去っていった。遠ざかる足音を見送りながら、鈴はふうと溜息を吐き出し後ろの浅葱を見上げる。
「浅葱様……私はまだ、貴方のものになったわけではありませんよ?」
恥ずかしさを隠すように少し強がりを言う鈴に対し、浅葱は意地悪く微笑んでこちらを見つめ返した。
「うん。今はまだ、ね」
そう囁くと浅葱は掴んでいた鈴の手を持ち上げ、その甲へ恭しく唇を落とした。柔らかく熱い口付けに、鈴の頬は瞬く間に熟した林檎のように赤く染まっていく。
「な…………っ!」
動揺する鈴の反応に満足したのか浅葱は目を細めると自身の羽織の袖口にそっと手を差し入れ、小さな木箱を取り出してみせた。
「そういえば、鈴に渡したい物があるんだ」
「これは……?」
「開けてごらん」
促されるまま木箱の蓋を開けると、そこにはいい香りのする膏薬が詰まっていた。
「水仕事で傷ができかけていただろう? だから塗り薬を作ってみたんだ」
毎日家事をこなす鈴のために、薬草を調合し特別な塗り薬を作ってくれていたらしい。
「嬉しい……ありがとうございます!」
胸の奥がじんと熱くなり感謝を伝えると、浅葱は木箱から指先で薬を少しすくい取った。
「俺が塗ってあげるね。ほら、力を抜いて」
「え……?」
断る間もなく浅葱の手が後ろから鈴の手をそっと包み込み、ひやりとした膏薬を肌に落とされた。そして指の間に浅葱の長い指がするりと割り込み、滑るような手つきで鈴の手の甲や指の付け根に塗り広げていく。
「どう? 気持ちいい……?」
「はい……」
ふわりと漂ってきたのは、ほんのりと甘い柚子の香り。親指の腹で関節の節々をじっくりとなぞられるたび、指先からジワジワと甘い痺れが押し寄せて、思わず呼吸が浅くなる。
鈴の心臓は早鐘のように波打ち、背中から浅葱に伝わってしまうのではないかと気が気ではなかった。浅葱はそんな鈴の反応を全て見透かしているかのように、満足気な笑みを浮かべて耳元へ唇を寄せる。
「よかった……これからは毎日、俺が塗ってあげるからね」
「い……いえ、自分でできますから!」
「俺がしたいの。お願い……」
甘えた眼差しで鈴の顔を覗き込む浅葱にまた絆されてしまい、鈴は小さく頷くことしかできなかった。
「わかりました……」
静かな冬の屋敷で、柚子の甘い香りと二人の温もりが、密やかに溶け合っていくのだった。




