23話 報告と雨宿り
「お前は阿呆か」
呆れ果てた声とともに、緑色の着物の裾がひらりと舞った。太い枝から音もなく地面へと降り立ったのは大樹の化身である撫子だ。
今日は浅葱が鈴へ求婚したという報告をするため、撫子のもとまで訪れていた。撫子の大樹を見上げれば天空を覆い尽くすほどに枝葉を広げ神聖な気で満ちている。近くで見ると本当に大きくて立派な木だ。
「つい先日、時が来れば鈴を人里に返すと言っていただろう……」
「だって鈴をもう手放したくないし……それに鈴が本気で嫌がれば人の世に返すよ」
「その言葉さえお前は危ういだろう。そもそも、求婚を了承されてから報告に来い。鈴が断り辛くなるだろうが、この浮かれ頭め」
容赦のない撫子のお叱りの言葉にケロリとしていた浅葱だったが「断る」という言葉へ過敏に反応し、潤んだ青緑の瞳で鈴を見つめてくる。
「断るの……?」
捨てられた仔犬のような目で見つめられ、鈴は居心地が悪くなってそっと目を逸らした。
「……まだ、分かりません…………」
歯切れの悪い返事を返すと、浅葱はさらに傷ついた様子で肩を落とし、遠慮がちに鈴の手をキュッと握りしめる。まるで「断らないで」と無言で乞うているかのようだ。
(そんな弱々しい態度をされたら、本当に断りにくいじゃないですか……!)
鈴が心の中で頭を抱えていると、不意に頭上から硬い音が響いた。
「そういうところだ、阿呆」
撫子が容赦なく太い木枝を振るい、浅葱の頭を叩いたのだ。ゴッと苦い音が響き、浅葱は痛みに目を細めながら撫子を鋭く睨みつける。一方、鈴は浅葱に同情の目を向けた。
「結構な痛い音がしましたけど、大丈夫ですか……?」
「うん、大丈夫だよ。……あ〜、やっぱりちょっと痛いかも。鈴、慰めて……?」
浅葱はすぐさま表情を切り替えると、甘えるように鈴の細い身体へとしがみついてきた。背中に回された腕の温もりに驚きつつも、鈴は彼の頭を優しく撫でてやる。幸いにもたんこぶはできておらず、胸を撫で下ろした。
若い人間の娘に抱きつき、甘えて離れない神。その情けない背中に対し、撫子は氷のように冷ややかな視線を送っている。
「お前がそんなに気色悪く執着する奴だったとはな……。鈴も大変だろう」
「鈴が受け入れてくれるんだから別に良いだろう。そんな目で見ないでよ、酷いなぁ〜」
浅葱は悪びれる様子もなく、むしろ見せつけるかのように更にぎゅっと鈴を抱きしめた。そして鈴を抱いたまま、ふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ、撫子にもう一つ相談があって。鈴に俺の言霊が効かなくなる術をかけようと思ってるんだけど、人間に妖力は宿らないだろ? だから鈴の心を俺の妖力で守りながら、術を施そうと思って」
「ほう」
撫子は興味深そうに眉を上げた。鈴に悲劇が及ばぬよう、彼女の魂の輪郭を傷つけないように自身の妖力で包み込むという算段だ。
「色々試して練習はしているし、俺のこの方法で鈴に負担がないか撫子にも見てほしいんだ」
(そんな練習をしていたなんて……)
浅葱の知られざる配慮に、鈴は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
それから浅葱と撫子は専門的な妖術の話を進め始めたが聞いたこともない難解な言葉が飛び交い、鈴はただ二人を交互に見つめることしかできない。
ただぼんやりと周囲の木々を眺めていた鈴の名前が、しばらく話し込んでいた浅葱に呼ばれた。どうやら実際に術を試してみることになったのだ。
といっても、今は術の要となる妖桜の蜜がないため、あくまで妖力を流し込むだけの練習である。
「心臓の近くに触れて、お前の妖力を鈴の体内に流すんだよ」
「……え!?」
撫子の指示に、浅葱はピクッと肩を揺らした。浮世離れした美貌の頬がほんのりと赤く染まる。
「で、でも俺……そこに触れるのは、祝言を上げた後でもいいかなって思ってて……。俺と鈴はまだ口付けも交わしてないし……あ、でも嫌ってわけじゃなくて! 嬉しいけど、鈴の事は大切にしたいから順を追って……」
「何を考えてるんだい阿呆め。背中からに決まっているだろう」
初々しく照れ散らかす浅葱に対し、撫子はまるで路傍の虫でも見るような軽蔑の目を向けた。
「なんだ……。それはそれで、ちょっと残念」
「浅葱様……」
ボソッと本音を漏らした浅葱に鈴も若干引き気味の視線を向けてしまう。気を取り直して、浅葱が鈴の後ろに周り着物の上からそっと大きな掌を背中に添える。
「鈴の中に俺の妖力を流すね。もし痛かったり苦しかったりしたら、すぐに言ってね」
「はい!」
覚悟を決めて返事をすると、背中からひんやりとした異質な感覚が侵入してきた。浅葱の澄んだ妖力が鈴の体内を巡っていく。しかしそれが胸のあたりに溜まった瞬間、ピリッとした小さな痛みが走ったのだ。
浅葱は瞬時にそれを察知し、弾かれたように手を離した。
「鈴、大丈夫!?」
心底心配そうに顔を覗き込んでくる浅葱に、鈴は心配させまいと取り繕って微笑んだ。
「大丈夫です、少しピリッとしただけですから」
「……今日はもうやめておきな。ただ浅葱の妖力に慣れるためにも、練習は継続するんだよ」
撫子の言葉に、二人は静かに頷いたのだった。
◇
その帰り道、空模様が怪しくなったと思えばポツポツと冷たい雨が降り出してきた。二人は大きな木の幹の陰に駆け込み、雨宿りをすることに。
濡れてしまった着物は浅葱が乾かしてくれたものの、秋の雨は風を伴い少し肌寒い。それに気づいた浅葱が、自分が着ている羽織りを広げ、中へ包み込むように鈴を後ろから抱きしめてきた。
「こうしていれば多少は温かいかな? 俺はそこまで体温が高くなくてごめんね」
密着した身体から伝わる感覚と、耳元で響く甘い囁きに鈴の心臓が跳ねる。浅葱の体温は低めで今まで熱いと感じたことはないけれど、不思議と心が落ち着くのだ。
「ありがとうございます。浅葱様の体温はほんのりと温かくて、とても心地良いと思いますよ」
素直な気持ちを伝えると、浅葱は力を込めてもっと強く鈴を抱きしめてきた。あまりの距離の近さに、鈴の心臓が小さく跳ねる。
抱きつかれることが増えたものの、未だにこの近さには慣れない。誤魔化すように雨足が強まる景色を眺めながら、疑問に思っていたことを口にした。
「あ、妖というものは、温度がないのだと思っていました」
「ん〜そうだね。俺みたいに体温が低かったり、温度そのものがない奴の方が大半だよ。でも逆にすごく熱い奴もいる。ほら、山吹とか」
浅葱の友人である妖狐の妖、山吹の姿を思い浮かべる。そういえば彼はいつも胸元を豪快にはだけさせていた。
「だからいつも、山吹様は薄着なんですね」
「いや、あれはアイツの趣味なだけ。山吹は派手な装いを好むからね〜」
浅葱の声音には、呆れつつも友人への愛着が滲んでいた。
「……鈴も山吹みたいな装いをしたいなら、しても良いけど、俺の前だけにしてね?」
低く落ちついた声とともに、浅葱の大きな手が着物の上から鈴の鎖骨や首元をなぞるように撫で上げた。指先から伝わる触感が、肌にゾクリとした熱を残す。
驚いて振り返れば、浅葱はニッコリと優しく微笑んでいるものの明るい青緑色の瞳の奥には、隠しきれない熱が宿っている。
「私はあんな着方しませんよ……!」
「そう。良かった〜」
即座に宣言すると、浅葱は首元から手を離しポンポンと鈴の頭を優しく撫でる。
(お風呂上がりとか、寝起きは浴衣が乱れがちだから気をつけよう……)
愛おしそうに目を細める神様の胸の中で、鈴は強く心に誓うのだった。




