21話 湖に映るのは
夏の厳しい暑さがようやく和らぎ、夕暮れの風にほんのりと涼しさが混ざり始める頃。
山間に沈む夕日を見つめていた鈴の耳に、風に乗って掠れた音が届いた。トントンと規則正しく鳴り響く太鼓の音と、高く澄んだ笛の音色。山の麓にある村の方角から響いてくるのは、夏の終わりを告げる祭りの音だった。
「太鼓と笛の音が聞こえる……お祭りですかね」
「本当だ、賑やかな音が聞こえてくるね」
台所からお茶を淹れて戻ってきた浅葱が、鈴の隣に腰を下ろして頷いた。
鈴の心に小さな切なさが押し寄せる。生贄として捧げられた時に施された術のせいで、鈴はこの山から出ることができない。
村の祭りの賑わいを思い出し、鈴は思わず肩を落とした。自分はあの賑やかな音の中に混ざることはできないのだと、改めて突きつけられた気がしたからだ。
そんな鈴の雰囲気を察したのか浅葱は持っていた湯呑みを置くと、ぬくもりを分け与えるように背後からふわり鈴の腰を抱き寄せた。触れ合った肌から感じる体温に、鈴の胸が小さく跳ねる。
「――ねえ、鈴。今夜、散歩に出かけない?」
耳元で囁かれた低く優しい声に、鈴は首を傾げて浅葱を見上げた。
「良いですけど、どこに行くんですか?」
「ん〜? それはまだ内緒」
浅葱は青緑色の瞳を細め、悪戯っぽく微笑んで見せた。いつものポヤポヤとした雰囲気とは違う、どこか企みを含んだその笑顔に鈴は不思議そうに目を丸くした。
◇
すっかり日が落ち、夜空に大きな満月が浮かぶ頃。
浅葱に手を引かれてやって来たのは、屋敷から少し歩いた場所にある湖畔だった。
「湖ですか? 月が水面に映っていて綺麗ですね」
周囲はしんと静まり返り、涼しい夜風が水面を撫でていく。満月の白い光がゆらゆらと波紋を描く様子はとても綺麗に思えた。
「もっと綺麗な光景を見せてあげる」
浅葱はそう言うと、自身の白い指先をすっと口元へ運び薄く歯を立てるようにして小さな傷をつけた。
「浅葱様……!?」
驚く鈴を余所に指先から滲み出た一滴の血が静かな水面へと滴り落ちる。
次の瞬間、湖の奥が一瞬にして眩しい光に包まれた。そして水底から次々と姿を現したのは、白く輝く蓮の花々。幻想的な光が広がっていき、暗闇だった湖を美しく照らしだしていく。
するとどこからともなく、すぐ近くで楽し気な賑わう声と軽快な笛や太鼓の音が聞こえ始めた。
「常世で妖達の祭りが開かれているから、湖に向こうの光を映し出させたんだ」
「すごい……」
鈴は口元に手を当て、ただただ目の前の景色に見惚れていた。水面に映し出されているのは、提灯の光が揺れる常世の豪華絢爛な祭り。美しい光景に、鈴の黒い瞳がキラキラと輝きを増した。
すると浅葱は鈴の手に自分の手を重ね、ぎゅっと指を絡めて優しく握りしめる。そのまま湖の水面の上へと足を踏み出そうとするのだ。
「沈んじゃいますよ!」
慌てて叫ぶ鈴に、浅葱はフッと笑みを零す。
「大丈夫、沈みはしないよ。ほら、鈴もおいで」
その穏やかな声に促され、鈴は恐る恐る伸ばした足の裏を水面につける。下駄からひんやりとした感触が伝わったものの、身体が水底へ沈むことはなかった。
まるで目に見えない透明な氷が張っているかのように、しっかりと足元を支えられている。これもまた神様である浅葱の力なのだろうか。鈴が驚きに目を丸くした瞬間、浅葱は小さく喉を鳴らして繋いでいた手を強く引いた。
「わっ……!」
腰に回された腕で引き寄せられ、浅葱は臆することなく湖の中央へと歩みを進める。
沈みはしないものの、やはり足元はゆらゆらと揺れて見えるため鈴は必死で浅葱の胸元にしがみついた。浅葱の浴衣をぎゅっと掴みながら、一歩一歩踏みしめる。
(まさか水の上を歩くなんて……)
「鈴、顔を上げてごらん」
下ばかり見つめて懸命に足を動かしていた鈴に、足を止めた浅葱が声をかける。
言われるがままに顔を上げると、そこはちょうど湖の中心だった。いつの間にか周りを取り囲んでいた蓮の花が、溢れんばかりの白い光を放っている。透き通った湖の底までもが淡く発光し、美しい白い光で満たされていた。水面に揺れる常世の祭りの景色と相まって、うっとりとしてしまうほど幻想的な光景が広がっている。
「綺麗……」
思わず息を呑み、その景色に目を奪われる鈴。そんな彼女の反応が心底嬉しかったのか、浅葱は満足そうに口角を上げた。そして腰を抱く腕の力を強め、鈴の身体を一層近くへと引き寄せる。
「ふふっ。目を輝かせてる鈴、可愛いね」
白金の髪が鈴の頬をかすめ、耳元で浅葱が甘く囁いた。頭をすりすりと寄せてくる動作は、まるで甘える大きな犬のようだ。
(この人はまた、恥ずかしげもなくそう言うことを……っ!)
浅葱を見上げると彼は目の前に広がる幻想的な光景には目もくれず、ただ真っ直ぐに鈴だけを見つめていた。こちらを見下ろす青緑色の瞳に、鈴の姿だけが映り込んでいる。
「来年は、本物の光を見せてあげたいな……」
浅葱は優しく目を細めると、鈴の赤い頬を指先でそっと撫でた。
その言葉に込められた意味に、鈴の鼓動が大きく跳ね上がる。心臓の音が浅葱に聞こえてしまいそうで、鈴は赤い頬を隠すように視線を前へと逸らした。
そして愉快な音を聞きながらこの美しい光景を、ただただ目に焼き付けるのだった。




