18話 怖いもの知らず
静まり返った屋敷には、夜の冷気が満ちていた。
あの後、浅葱は夕食もいらないと告げたきり引き戸を閉ざして部屋から出てこない。心配でたまらないものの「今は一人にして」と言われた言葉が頭から離れず、鈴は強く扉を叩くこともできずにいた。
夜も更けた頃。鈴は静かに浅葱の部屋の前へ訪れ、灯りもつけられていない暗い襖の奥へと声をかける。
「……浅葱様。おやすみなさい」
けれど中からは何の返事も聞こえてはこない。やはりそっとしておくべきなのだろうと鈴が諦め、踵を返そうとした、その時だった。
勢いよく襖が開かれ、暗闇の奥から伸びて来た手によって強い力で腕を引かれた。
「っ!?」
不意を突かれた鈴の身体は軽々と室内へと引きずり込まれ、畳の上に押し倒される。衝撃に息を呑み見上げた視線の先では、浅葱の白金の髪が乱れ、青緑色の瞳が暗闇の中で苦しげに揺れていた。
「浅葱、様……?」
動揺しながら名を呼ぶ鈴の額へ浅葱はゆっくりとした動作でそっと片手を翳した。
「お願い、忘れて……鈴」
静かに願うような声に嫌な予感が走る。脳裏をよぎったのは先ほど銀朱から聞いた言霊の力だ。
(浅葱様は、私の記憶を消そうとしている……!)
そう直感した鈴は、全身の力を込めて浅葱の胸元を強く突き飛ばした。鈴の抵抗に浅葱の身体は拍子抜けするほど簡単に離れていく。
「どうして止めるの……? 鈴だってこんな呪いを持った奴と、あと半年も一緒に暮らすなんて怖いだろう……?」
浅葱は自身の声を「呪い」だと自嘲し、膝の上で強く拳を握りしめた。その声音はかすかに震えており高位の神様としての威厳など、どこにもない。
「俺は神なんて言われているけど、何一つ救ってやれなかった。俺が、あんなこと望まなければ良かったんだ……。君にだって、同じようなことをしてしまうかもしれない……俺は、もう嫌なんだ……っ」
顔を両手で覆い苦しそうに吐き出された声。今にも涙を零してしまいそうなほど、脆く傷ついた彼の姿に鈴の胸が強く痛んだ。
けれど鈴には、彼の持つ力がどうしても恐ろしい呪いなどとは思えない。
過去に何があったとしても、それは彼が大切な友の命を必死に繋ぎ止めようとした結果だ。ただひたすらに優しく、けれどどこまでも不器用だったからこそ生まれた悲劇。
「浅葱様……貴方の力は、呪いなんかじゃありません。大切な人を救おうとした、温かい言葉だと私は思いますよ」
真っ直ぐに浅葱を見つめ、鈴は想いを言葉に乗せた。
冷たい村から生贄として差し出された自分を、妖の見える奇怪な力ごと受け入れてくれたのは誰だったか。山に捨て置くこともせず、この居場所を与えてくれたのは、目の前にいる優しい神様だ。
「それに知っているでしょう? 私は怖いもの知らずなんです。貴方にどんな力があろうとも、浅葱様は浅葱様です。私を見捨てないでくれた、優しい神様です。そんな貴方を、怖がるわけがないでしょう?」
山の妖たちからも深く慕われ、頼りにされている優しい神様。彼の言葉も、その手も、決して誰かを傷つけるためだけの呪いではない。
鈴は深く俯いたままの浅葱の頭に優しく手を添えた。そして柔らかい白金の髪をそっと撫でてやる。
「っ……」
すると浅葱は弾かれたように悲痛な顔を上げた。これまで八百年の時の中、自分ですらその強大すぎる力を恐れ孤独に苛まれていた。そんな呪われた力を、ただの妖が見えるだけの人間である少女が、包み込むように受け入れてくれたのだ。
胸の奥から溢れ出す感情の波に耐えきれなくなったように、浅葱の瞳から大粒の涙が溢れる。
「鈴…………っ」
そして浅葱は飛びつく勢いで、鈴の身体を強く抱きしめた。
「わっ!?」
その勢いに圧され、鈴の身体は再び畳の上へと押し倒される。あまりの重さに押し除けようと肩に手を掛けた鈴だったが、さっきとは違ってびくとも動かない。
浅葱は鈴の肩口にぎゅっと顔を埋め、まるで縋る子供のように強くしがみついていた。
「鈴、俺を恐れないでくれて、ありがとう……っ」
耳元で聞こえる、消え入りそうな声。鈴は押し返すのを諦め、開け放たれた引き戸の向こうに浮かぶ丸い月を見上げながら、浅葱の頭を優しく撫で続けたのだった。
◇
「……落ち着きました?」
「うん……」
ようやく涙が引いた浅葱は、少しだけ身体を離してくれた。けれど鈴を押し倒したような体勢のまま、どこか茫然とした様子で鈴を見下ろしている。
一向に起きてくれない彼の様子に、鈴は首を傾げた。
「浅葱様……?」
「…………どうしよう、俺……鈴のこと、すごく好きになっちゃったみたい」
「すっ……!? 冗談ですよね!?」
あまりにも突拍子のない言葉に、鈴の思考が一瞬止まりかける。
「ううん、冗談じゃないよ。本気で鈴のこと好きになっちゃった。このまま手放したくないな……。ねぇ、鈴を妻にもらってもいい?」
浅葱はほんのりと頬を赤く染め、自身の腕の下で組み敷かれ困惑する鈴を見下ろした。その瞳はどこか熱を帯びていて鈴の頬も一気に赤く染まる。
「あの、一旦落ち着いてください……! 取り敢えず身体を離してもらってもいいですか?」
「……うん」
彼は少しだけ名残惜しそうに身体を離すと、鈴の手を引いて起き上がらせてくれた。そのまま正面に向かい合う形となったが、浅葱の手は鈴の手を固く握ったまま離そうとしない。
「鈴、好きだよ。俺の妻になってほしい」
二度目の告白。青緑色の瞳が真っ直ぐに鈴を射抜く。
「ですから! 落ち着いてください!」
「落ち着いてるよ。鈴のおかげで落ち着いた」
「落ち着いてないですよ……」
困惑する鈴に対し、浅葱はどこか不満そうに眉を寄せた。
「鈴は俺では嫌? もしかして人里に好いている相手でもいるの?」
「そういうわけではないですが……」
すがりつくような、甘えた眼差しで詰め寄ってくる浅葱。どう見ても平静を取り戻しているようには見えず、ただ感情が昂っているだけなのではないかと思えてくる。
鈴は照れくささと混乱から、かろうじて顔を逸らすと深く息を吐いた。生贄としてこの山に捧げられ、死ぬ覚悟でやってきた自分がまさか神様から求婚されるなんて夢にも思っていなかった。それにこれまでの人生で、恋などというものに触れたこともない。
戸惑いは隠せなかったが、鈴は嘘偽りのない真っ直ぐな想いを伝えることにした。
「お気持ちは嬉しいのですが……好きがどういうものなのか、まだ私は分からないんです。だから浅葱様の好意と同じものを返すことはできません」
はっきりと告げられたお断りの言葉に、浅葱は瞬きを繰り返した。
「……わかった。急にこんなことを言って、困らせちゃってごめんね」
ぐいぐいと迫っていた浅葱の身体が、ようやく引き下がる。鈴がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、浅葱の口元にはどこか意地悪で艶やかな笑みが浮かんでいた。
「――でも妖桜の蜜が手に入る日まで、鈴は山から出られないんだし、その間に心変わりをするかもしれないよね?」
「え……?」
理解が追いつく前に浅葱の手がすっと伸ばされ、鈴の後頭部へと回された。抗う間もなく少し強引に引き寄せられた次の瞬間、柔らかいなにかが鈴の頬を優しく掠める。
肌へ伝わる温もりに、鈴の心臓が跳ね上がる。頬から唇を離した浅葱は至近距離のまま鈴を見つめ、親指で彼女の唇を優しくなぞった。
今の彼かは、ポヤポヤとした普段の穏やかな表情は消え去っている。そこにあるのは男としての熱を帯びた眼差しだけ。
「だから……術が解けて、この山を出るその時に、もう一度、鈴の気持ちを教えて?」
吐息が触れ合うほどの距離で囁かれる、逃げ場のない問いかけ。
「それなら、良いよね?」
甘く逆らいがたい響き。これまでは浮世離れした神様として見ていたはずの相手を、一気に「男」として意識せざるを得なくなった瞬間だった。
「……はい」
真っ赤に煮詰まった顔を隠すこともできず、鈴は引きつった声を絞り出すのが精一杯だった。




