16話 偉大な神
「………………は?」
鈴の純粋な疑問に、銀朱が小さく絶句した。まるで「お前の目は節穴か?」とでも言いたげな、信じられないものを見るかのような眼差しで鈴を直視する。
「小娘……浅葱様のお側にいながら、このお方がどれほど高貴で、どれほど素晴らしい力をお持ちなのか分かっていないのか!?」
「え……?」
「信じられない……そこに座れ! 教育してやる」
強引に畳の上へ座らされた鈴は、それから怒涛の勢いで銀朱から浅葱の偉業を聞かされることとなる。
「また始まったよ……。コイツ、どうにかした方がいいぜ」
山吹が縁側に腰掛け、うんざりしたように耳をほじっている。
「あはは……俺はお茶でも淹れてくるかな」
「茶だぁ? 酒持って来い酒!」
「山吹は相変わらずだなぁ。日が高いうちにお酒は出さないって決めたんだ」
「チッ、なら俺も行く。せめてなんか食わせろ」
そう言って浅葱と山吹は、賑やかに台所の方へと消えていった。取り残された部屋で鈴は正座をしたまま、銀朱の語る「浅葱様の伝説」を無理やり聞かされる。
かつて干上がった湖を一瞬で水で満たしたこと。山一つを吹き飛ばすほどの猛烈な嵐を沈めたこと。深い傷さえもひと撫でで癒やしてしまったこと――
「あの方は、この世の理そのものなのだ。あの方に叶えられないことなどない。口に出して心から願えば――」
「銀朱。その話はしないでと言っただろう」
ひやり、と部屋の温度が下がった気がした。
銀朱が言葉を切って声のした方を見上げると、お盆を持った浅葱がにこやかに立っていた。
ただいつもの柔らかな雰囲気は消え去り、射抜くような青緑色の瞳で銀朱を見つめている。背筋が凍るようなピリッとした圧迫感に、部屋中の空気が緊張で張り詰めた。
「し、失礼しました……っ、浅葱様」
銀朱が青ざめた顔ですぐに深々と頭を下げる。
浅葱はふっと息を吐くと、すぐにいつものポヤポヤとした温和な雰囲気に戻り、お盆に乗せた湯呑みを畳へ置いた。そんな彼の後ろでは、山吹が昼食で余ったきゅうりの一本漬けへかぶりついている。
「鈴もお茶をどうぞ。それと山吹が何か食べさせろって言うなら、きゅうりを与えたんだけど良かった?」
「あ、ありがとうございます。はい、きゅうりなら沢山あるので大丈夫ですよ」
二人の会話の横で銀朱はお茶を口に含むと、先ほどまでの緊張が嘘のようにうっとりと目を細めた。
「浅葱様の淹れてくださったお茶は、とても美味しいですね……!」
「ありがとう。けど、鈴が淹れてくれるお茶の方がもっと美味しいんだよ〜」
「変わらないですよ……」
浅葱の言葉に、鈴は少し照れくさそうに呟いた。お茶を飲みながら和やかな時間が流れる中、鈴の心には先ほど銀朱が言いかけた言葉が引っかかっていた。
(口に出して願えばって、どういう事なんだろう……? それに以前、浅葱様は「祓い神ではない」って言っていたけど、本当はどんな神様なんだろう……)
ぼんやりと考え込んでいると、目の前にすっと綺麗な白金の髪が降りてくる。浅葱が心配そうに、鈴の顔を覗き込んできたのだ。
「どうしたの? 鈴」
「……いえ、なんでもありません」
それから夕方になり空が茜色に染まる頃、山吹と銀朱はやっと重い腰を上げた。
「世間知らずな浅葱と過ごすのは大変かもしれねーけど、まぁ上手くやりな」
山吹はニッと笑い、鈴の頭をぽんぽんと乱暴に叩いた。
「小娘、浅葱様に不敬な振る舞いはするなよ。……何かあれば、すぐに飛んでくるからな。覚悟していろ」
銀朱は最後まで不機嫌そうに捨て台詞を残すと、二人は風に乗るようにして去っていった。
◇
その日の夜。
夕飯の片付けを終えた鈴は、高い戸棚へ食器を収めようとしていた。小さめの踏み台に乗り、背伸びをして手を伸ばす。
その時――ぐらり、と足元が大きく揺れた。
「きゃっ……!?」
バランスを崩し、盛大に倒れそうになったその瞬間。
「鈴、動かないで!」
浅葱の切迫とした声が響いた。
そして次の瞬間、鈴の視界がピタリと止まる。まるで空間そのものが凍りついたかのように、身体が一切動かなくなったのだ。倒れる姿勢のまま浮いているような感覚の中、ふわりと温かい腕が差し込まれ、しっかりと抱きかかえられる。
「……ふぅ、良かった」
気がついた時には、鈴の体は浅葱の胸の中にすっぽりと収まっていた。足元には踏み台が転がり、食器棚に頭を打ち付けることも、お皿を割ることもなく無傷のままだ。
「高いところへ戻す時は俺を呼んでね」
「は、はい……ありがとうございます、浅葱様」
浅葱はほっと安堵の息を漏らし、鈴の頭をポンポンと優しく撫でる。いつもなら安心するはずなのに、鈴の頭の中には小さな疑問が浮かんでいた。
(今……私、自分の意志で動けなくなった……?)
浅葱が「動かないで」と言ったあの瞬間、自分の身体が金縛りに遭ったかのようにピタリと固まったのだ。それはまるで、彼の言葉そのものに強い強制力があるかのように――
(あれは……一体、なんだったんだろう……)
昼間に銀朱が言いかけた「口に出して願えば」という言葉が、不意に鈴の脳裏をよぎった。




