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11話 不器用なただいまと髪紐


 台所で作業をしていると、うなじのあたりにまとわりつく髪がどうにも鬱陶しく感じられた。

 

 伸びてきた黒髪は、前屈みになるたびにさらりと肩から落ちてきて作業の邪魔だ。鈴は引き出しの隅にあった使い古しの手拭いの切れ端で、無造作に髪を一つに括った。お洒落とは程遠いけれど、これで視界も首回りもすっきりとして格段に動きやすくなった。

 

「鈴〜、墨が無くなったからちょっと買いに出てくるね」

 

 するとのんびりとした声とともに、奥の部屋から浅葱がぱたぱたとやってきた。

 

「はーい、お気をつけて……って、えっ!? 人里に降りるんですか!?」

 

 振り返った鈴は思わず目を丸くして浅葱を見やった。

 神様がわざわざ人間の街へ買い物に行く姿が、どうしても想像できない。それに神様というのは人に見えるのだろうか? 見えたとしても、そんな浮世離れした美貌の男が現れたら街中大騒ぎになってしまうだろう。


「まさか。常世に妖の街があるから、そこで買ってくるんだよ」

 

 動揺した鈴を浅葱はふふっとおかしそうに笑う。

(妖の街なんてあるのだ)


 鈴は頭の中でまだ見ぬその場所へ想像を膨らませる。

 人間たちの街並みとはまた違う、おどろおどろしくも賑やかな世界なのだろうか。お面をつけた妖たちが、楽しげに店番をしている姿がぽんぽんと頭に浮かんでくる。

 

「鈴は何か必要なものはある? あそこなら人間の物なんかも一通りは揃っているよ」

「いえ、私は大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 

 首を振る鈴だったが、浅葱はそれで納得した風もなくチラリと鈴の頭へと視線を巡らせた。そしてその綺麗な青緑色の瞳が不満げに細められる。

 

「……ところで、どうしてそんな布切れで髪を結ってるの?」

「これですか? 髪が伸びてきて邪魔だったので、布切れでまとめただけですよ?」


 何気なく答えた鈴に浅葱はあからさまに呆れたような溜息を吐くと、着物の袖から一本の紐を取り出す。それは深みのある、とても綺麗な紺色の髪紐だった。

 

「俺の使い古しで悪いけど、これを貸してあげるから……」

「綺麗な深い青の髪紐ですね。いいんですか?」

「うん、気に入ったのならあげるよ」

「いえ、それは大丈夫です……!」

 

 光の加減で明るい青にも見える、吸い込まれそうなほど美しい紺色の髪紐。神様が使っていたものというだけで、なんだかとても価値のある上等な品に思えてしまう。

 

「汚さないよう大切に使いますね。ありがとうございます!」

 

 鈴が嬉しそうな笑みを向けると、浅葱は少し呆れたように彼女を見つめ目元を優しく和ませる。

 

「鈴なら汚しても構わないよ。それじゃあ行ってくるから、お留守番よろしくね」

「はい。いってらっしゃい、浅葱様」

 

 何気なく発した見送りの言葉。その瞬間、浅葱の体がびくりと硬直した。


 彼の美しい瞳が驚きに見開かれ、その白い肌がみるみるうちに赤く染まっていく。まるで八百年という歳月の中で誰かに「いってらっしゃい」などと言われたのが初めてだとでもいうように。

 

「……っ、い、いってきます……」

 

 酷く照れくさそうに、けれどどこか嬉しさを隠しきれない様子で浅葱は玄関から足早に出て行ってしまった。その耳の裏まで真っ赤になっていた姿に、鈴は喉を鳴らしながら彼の背中を見送ったのだった。


 

 ◇


 

 それから、お昼を少し過ぎた頃。

 

 鈴が台所で昼ご飯の準備をしていると、静まり返った家の中に玄関の格子戸が開く音が響いた。浅葱が帰ってきたのだと気づき、鈴は包丁を置いて、いそいそと玄関へと小走りで向かう。

 

「浅葱様、おかえりなさい!」

 

 ぱっと出迎えると、浅葱は鈴の姿を見るなりまたしてもぎこちなく視線を泳がせほんのりと頬を赤色に染める。

 

「……うん、ただいま」

 

 消え入りそうな声で答えた浅葱は、泳がせていた視線を遠慮がちに鈴へと向ける。

 

「……誰かに出迎えられるなんて、なんだかすごく変な感じがする」

 

 そう言って彼は長くしなやかな指の背で鈴の頬を優しく撫でてくる。ほんのりと温かな浅葱の指先が、料理で火照った肌にやけに心地よかった。


「浅葱様は……ずっと一人でここに暮らしていたのですか?」

「そうだよ。この山で、ずっと一人きり」

 

 八百年もの長い間。人間なんてあっという間に老いて死んでしまうほどの気の遠くなるような時間を、この神様はこの広い家でたった一人で過ごしてきたのだ。想像するだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。

 

「寂しくはなかったのですか?」

「んー……あんまりそうは思わなかったな。俺は静かなところが好きだから」

 

 首を少し傾げながらポヤポヤと答える浅葱を見て「そういうものなのかな」と納得しようとしたその時――鼻腔をツンと突く妙に香ばしい匂いが漂ってきた。

 

「あ! 火を付けっぱなしだった……!」

 

 

 ◇


 

「そんなに落ち込まないで。ちゃんと美味しかったよ?」

 

 浅葱が慰めるような声を鈴にかける。お昼ご飯にと作った煮物を出迎えに夢中になるあまり、少しばかり焦がしてしまったのだ。食べる分には問題はなかったとはいえ、自分の不手際が悔しくてたまらない。


「すみません……次は気をつけます……」

「いつも美味しい料理を作ってくれるだけでも助かってるし、本当に俺は気にしてないから大丈夫だよ。それよりさ、鈴に渡したい物があるんだ。手を出して?」

 

 浅葱の言葉に鈴は首を傾げながらも、言われた通りに両手を差し出す。すると浅葱の白い手から、さらりと何かが鈴の手のひらの上へと滑り落ちてきた。

 

「わあ……」

 

 それは水色の糸で丁寧に編み込まれた美しい髪紐。窓から差し込む日の光に当たると、糸の隙間に織り込まれた細い金色の糸が星のようにキラキラと美しく輝いている。

 

「髪紐。鈴に似合うと思って」

「綺麗……これを私に?」

「うん。……どうかな? 気に入ってくれた?」

 

 覗き込んでくる青緑色の瞳が少し不安げに揺れている。鈴は煮物を焦がした落ち込みを吹き飛ばし、満面の笑みで浅葱を見上げる。

 

「はい……! とっても嬉しいです! ありがとうございます、浅葱様!」

 

 大切そうに髪紐を抱える鈴の姿に、浅葱は目尻を緩めた。鈴が喜んでくれたことが、何よりも彼を満足させたようだった。

 

「ふふっ、結ってあげるね。おいで」

 

 浅葱は自分の足と足の間をポンポンと手で叩いて鈴を呼ぶ。

 

「えっ、いえ、自分でできます!」

「いいから、いいから」

 

 気恥ずかしさから遠慮する鈴だったが浅葱はそれを無視して、鈴の細い手首を引き強引に自分の前に座らせる。鈴は「もう……」と困ったように息を漏らしながらも、大人しくその身を委ねた。

 

 すると浅葱の長い指先が、今朝貸してくれた紺色の髪紐をそっと解く。パサリと黒い髪が視界の隅で揺れ、解きほぐすように浅葱の大きな手櫛で鈴の髪を梳いていく。

 

「鈴の髪は黒くてサラサラしてて本当に美しいね。上質な絹みたいだ」

「大袈裟ですよ……」


 背後からかかる声音や、頭に触れる指が優しくて妙にくすぐったさを覚える。浅葱は器用な手つきで楽しげに鈴の髪を結い進め……。

 

「できたよ。うん、やっぱり思った通りよく似合ってるね。可愛い」

 

 満足げな浅葱の声へ導かれるように、自分の髪に触れてみると、思ったよりも綺麗に結ばれていた。浅葱は髪が長いので、結ぶのに慣れているのだろう。

 

「ありがとうございます、浅葱様。……お礼に私も浅葱様の髪を結ってもいいですか?」

「え? 俺の?」

「ちょうど、このお借りしていた髪紐もありますし」

 

 鈴は今しがた解かれた、紺色の髪紐を掲げて見せた。浅葱は一瞬、目を見開かせたが、すぐに嬉しそうに笑って今度は自分が鈴の前に背を向けて座り直した。

 

「じゃあ、お願いしようかな」

「はい! 任せてください」

 

 鈴はそっと浅葱の白金の髪に触れる。自分の髪よりも柔らかく触り心地のいい髪。光を透かす薄い色はいつ見ても本当に綺麗で、ため息を零してしまいそうになる。

 

「――できました!」

「ありがとう、鈴」

 

 振り返った浅葱の頭には紺色の髪紐が揺れている。白金の髪に映える深い青と、黒髪に映える瑞々しい水色。お互いの髪を見つめ合い、なんだか温かい気持ちが胸に広がっていく。

 

「――おや、お揃いだなんて随分と仲がよろしいのですねぇ」

 

 突然、縁側の方からのんびりとした声が聞こえてきた。

 見ればいつの間にやって来たらしい狸のポチが、たくさんの木の実を抱えて縁側にちょこんと腰掛けていた。どうやら木の実をお裾分けに来てくれたらしい。

 

「ポチさん!? いつからそこに……っ」

「いやぁ今しがた。あまりにも睦まじいご様子でしたので、声をかけるのを躊躇ってしまいました」

 

 ポチの揶揄うような温かい視線に鈴は一気に顔が火照るのを感じた。隣の浅葱を見上げれば、彼もまた白い肌をほんのりと赤く染めて、視線をあちこちへと彷徨わせている。

 

「髪紐をいただいたので、お礼として浅葱様の髪を結っただけで……っ」

「そ、そうだよ! ただお互いに結び合っていただけだから……!」

 

 二人は慌てて弁明するように同時に声を上げた。

 そんな二人を見てポチは何度も何度も感心したように頷きながら、可笑しそうに小さな手で顎を撫でているのだった。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

二人の距離が徐々に縮まった春でした!

次回、波乱の新章【夏】がスタートします。


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どうぞよろしくお願いします!

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