9話 いつか手放す存在
「――珍しくお前の気配が近いと思えば……こんなところでなにをしているんだ、浅葱」
突如として頭上から美しい女性の声が降ってきた。驚いて鈴が天を仰ぐと、そこにはふわりと宙に浮いた可憐な少女の姿があった。新緑の葉を思わせる瑞々しい着物をまとい、長い髪を風に靡かせている。
「撫子……」
浅葱の口から酷く苦み走った声が漏れた。その端正な顔は見事に歪んでおり嫌悪そうな感情を隠そうともしていない。
いつもポヤポヤと穏やかな彼がこれほど露骨に嫌そうな顔をするのは珍しく、鈴は二人が古い知り合いなのだろうかと首を傾げた。
「人間の小娘なんか連れて、どうしたんだい」
撫子と呼ばれた少女は宙で鈴たちの周りを回るように動いたかと思えば、悪戯っぽく笑って鈴の目の前に顔を近づけてきた。人ならざる者の圧倒的な美貌と迫力に鈴が思わず身体を強張らせた瞬間――
すかさず浅葱が大きな身体で遮るように、二人の間に割って入った。
「この子は生贄として人の世からやって来た子だよ……。術をかけられて山から降りられないから、しばらくうちで面倒を見てる」
どこか警戒を孕んだ浅葱の背中から、鈴はそっと顔を出した。怯えてばかりいては失礼に当たると思い、姿勢を正し丁寧にお辞儀をして挨拶をした。
「はじめまして……! 鈴と申します」
「おや、礼儀正しい子じゃないか。今頃になってようやく挨拶に連れて来た、どこぞの薄情な神とは大違いだね」
撫子がわざとらしくため息をつくと、浅葱は気まずそうに目を逸らした。その様子に冷ややかな視線を一瞥だけ向けた後、撫子は再び鈴に向き直り柔らかな笑みを浮かべる。
「私はあそこに見える大樹の化身、撫子。妖たちからは『山の主』とも呼ばれている。よろしく、鈴」
彼女が白く細い指で示した先を遥かに見遣れば、周囲の木々を圧倒するほど巨大で立派な一本の大樹がそびえ立っていた。
「こんなに愛らしくて綺麗な方が、あの大樹の化身なんですね……」
あれほど歴史のありそうな巨木の化身というからには、もっと厳めしい姿を想像していた。しかし目の前にいる撫子は、鈴と同じ十代後半くらいの歳の見た目で、自分よりもずっと可憐な美少女。鈴は思わずうっとりとその姿に見惚れてしまう。
「騙されないで、鈴。この妖、千歳を超えてるからね。俺よりもよっぽどおばさ――」
「浅葱」
地を這うような低く冷徹な声が、浅葱の言葉を遮った。撫子の笑顔の奥にある瞳が完全に据わっている。
「なんでもないです、お姉さん……」
途端に浅葱は借りてきた猫のように大人しくなった。大袈裟に肩を震わせ、怯えた風を装いながら鈴の背後に回り込み、その細い肩にピタリと寄り添う。
数百年を生きる神様がこれほど恐れる存在なのかと、鈴は感心すると同時に、ふとした疑問が湧いた。
「そういえば、浅葱様は何歳なんですか?」
「え~、細かくは覚えてないけど八百歳くらいかなぁ」
「八百……!」
改めて数字で聞かされると言葉を失う。けれど村から祓い神として恐れ敬われるほどの存在なのだから、それくらいの年月を重ねているのも当然かと納得がいった。
だが、そうなると新たにもう一つ不思議なことがある。
「この山の主は撫子様なのに、村の人たちに祀られている神様は浅葱様なんですね」
「撫子は山を見守るだけだからね。人間なんかには関わらないんだよ」
浅葱がそう答えると、撫子は嘲笑うように鼻で笑った。
「お前が人間に干渉しすぎなんだよ、浅葱」
「今は干渉してないよ……」
「どこが」
撫子はチラリと鈴へ視線を向けた後、不満げに口を尖らせる浅葱の様子をジロリと睨む。すると浅葱は撫子から視線を逸らしたまま、そっと手を伸ばして鈴の小さな手を優しく握りしめた。
「鈴には術がかけられているから、妖桜が咲くまで山から出られない。だから多少干渉するのは仕方ないだろう」
「多少ねぇ……随分と気に入っているようだが……。時が来たら、きちんと手放せるのかい?」
撫子の声音に試すような響きが混じる。浅葱は唇を固く結んで鈴の方を見ようとしないが、重ねられた手のひらにはぐっと力が込められた。
撫子と浅葱の間に流れる空気が、急にピリピリと張り詰めていく。その緊張感に耐えかねて鈴は咄嗟に声を上げた。
「あの、私もちゃんと春になったら村へ帰ります! だから……安心ください」
「……安心?」
撫子が不思議そうに眉を上げる。
「はい。やっぱり山に人間がいつまでも居座っているのは、妖の皆さんにとっては気分の良いものではないのですよね……」
鈴が恐る恐る尋ねると撫子は一瞬だけきょとんとした顔をした後、お腹を抱えて愉快そうに笑い飛ばした。
「あはは! 私は人の子が好きだからね。お前がこの山にいること自体は構わないよ」
ひとしきり笑って息を落ち着かせると、撫子はすっと真面目な表情になり鈴を真っ直ぐに見つめた。
「ただね、鈴。お前は一年近くも人の世を離れることになる。一年という人間にとって長い時間、禁足地で神隠しに遭っていたお前が村へ戻れば周囲の人間たちは奇妙に思うかもしれない。不気味だと遠ざけるかもしれない。お前はその孤独に耐えられるのかい?」
それは現実的で重い問いかけ。普通であれば禁足地の山で一年も生きながらえていること自体、奇妙に思われるだろう。けれど人から奇妙に思われることなど、妖が見える体質だった鈴にとっては今更のことだった。
「はい……私は、大丈夫です!」
鈴は撫子の目を真っ直ぐに見返し、力強く頷いた。何よりこの山で浅葱や妖たちと過ごす時間は、きっと何物にも代えがたい宝物になる。その思い出を胸に、春が来たら自分の足で村へ帰るという意思は微塵も揺らがなかった。
「……そうかい。覚悟があるのなら良いけれど。――しかしまぁ、この無頓着な男と暮らすのは色々と苦労するだろう。もし嫌気がさしたなら、いつでも私のところへおいで。鈴」
「いえ、浅葱様には本当に良くしていただいていますから……!」
「そうだよ。鈴はうちが良いって言ってるんだから、勝手に連れていこうとしないでくれる?」
言うが早いか、浅葱は後ろから鈴の身体をぎゅっと抱きすくめ鋭い眼差しを撫子に向ける。彼の体温が背中から直に伝わり、あまりの距離の近さに鈴の心臓が跳ね上がった。
「浅葱様! ちょっと近いです……!」
動揺してバタつく鈴とそれを必死に抱きしめる浅葱。撫子はその二人の微笑ましい様子を、実に愉快そうに眺めていた。
「ふん、まあせいぜい、その言葉を忘れないことだね。春が来た時に泣きを見るのは誰か楽しみにさせてもらおう」
そう言い残すと山の主は新緑の風と共に、再びひらりと宙へと舞い上がり大樹の方へと去っていった。
後に残されたのはまだ浅葱の腕の中で顔を赤くしている鈴と、撫子が去った方向を不満げに見つめ続ける少し困った神様の姿だけだった。




