5話 暴走
誰も声を出さなかった。
翔馬は呆然としたまま、与志野を見ていた。
エルサも、田野も。
与志野は自分の人差し指を見つめていた。
まるで――
そこで何が起きたのか、自分自身が一番分かっていないようだった。
山口は床に倒れたまま呻き声を出しながら苦しんでいたが、そのうち動きを止めた。
与志野はその姿をじっと見つめていた。
やがて、一歩を踏み出す。
靴底が床を擦る音が妙に大きく聞こえた。
もう一歩。
その顔には先ほどまでの怯えも戸惑いもなかった。
ただ、怒りだけがあった。
翔馬はその表情を見て息を呑んだ。
「……与志野」
返事はない。
最早与志野の視界には山口しか映っていなかった。
また一歩、近づく。
その歩き方を見ているうちに、翔馬の中に嫌な予感が生まれた。
止めなければならない。
「与志野!」
翔馬は立ち上がった。
痛む身体を無理やり動かし、与志野の背中へ飛びつく。
「やめろ!」
両腕でその身体を掴んだ。
「もういい!これ以上やったら死ぬぞ!」
与志野の足が止まった。
ほんの一瞬だけ、翔馬はそう思った。
止まってくれた、と。
だが――
「……離せ」
与志野の声は低かった。
突然、身体が軽くなった。
「――うっ!!」
ドガッッ!!
次の瞬間、翔馬は後方へ吹き飛ばされていた。
背中から床に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
肺から空気が抜けた。
何が起きたのか分からない。
ただ与志野の身体に触れていた腕だけがまだ熱を残していた。
(何だこれ……超能力……!?訳わかんねえ……!)
「与志野……!」
翔馬は痛みに耐えながら顔を上げた。
与志野は振り返らない。
まるで翔馬など最初からそこにいなかったかのように、山口へ向かって歩いていく。
「待てよ……!」
翔馬は這うようにして近づいた。
「与志野、聞けって!」
返事はない。
翔馬は必死に声を張った。
「こんなのお前が望んでたことじゃないだろ!」
与志野はもう既に山口の目の前に居た。
与志野の拳がゆっくりと握られる。
翔馬は、もう一度立ち上がろうとした。
言葉では届かない。
ならば、直接止めるしかない。
床に手をつき、痛みに顔を歪めながら身体を起こす。
「与志野……!」
踏み込もうとしたその瞬間だった。
与志野の右腕がゆっくりと振り上げられた。
その先には床に倒れた山口がいる。
「……ッッ!!」
翔馬の足が止まった。
間に合わない、そう思った。
与志野の腕が振り下ろされる。
その一瞬がひどく長く感じられた。
頭の中に遠い記憶が流れ込んでくる。
まだ小学生だった頃。
与志野の家で翔馬たちは二人で遊んでいた。
二人の笑い声が部屋に響く。
ゲームに夢中になっていると、台所から与志野の母親が顔を覗かせた。
「二人は本当に仲良いわねー」
「うん!」
翔馬が答える。
「これからもずっと仲良くしてね」
翌年。
翔馬は自宅のテレビを見ていた。
画面の上には見慣れない文字が並んでいる。
『県内の住宅で夫婦が死亡しているのが発見されました』
翔馬はテレビを見つめた。
『警察は何者かに殺害された可能性もあるとみて――』
ニュースキャスターが与志野の両親の名前を読み上げる。
そして与志野はまったく笑わなくなった。
ある日、翔馬はおつかいの帰りだった。
「あれ……与志野……?」
与志野は小さな鞄を一つだけ持ち、隣には施設の職員がいる。
「今日からここが君のお家だよ」
職員は穏やかに笑った。
「困ったことがあったらいつでも言ってね」
与志野は黙って頷いた。
与志野が小さくなっていく。
扉の向こうへ消えていく。
与志野に何が起こったのか、その意味する所は翔馬には分からなかった。
翔馬の家。
リビングには翔馬と青木の二人しかいなかった。
「……与志野大丈夫かな」
青木はしばらく黙っていた。
やがて、翔馬の隣に立つ。
「翔馬」
青木は真剣な顔をしていた。
「与志野を守ってやれ」
「……俺が?」
「ああ」
青木は頷いた。
「今のあいつは心が不安定だ。
両親を突然失って、これから一人ぼっちで施設で暮らすことになる」
翔馬は何も言わなかった。
「だからお前がそばにいてやれ」
青木は翔馬の目を見た。
「友達としてでいい。
それだけでもあいつにとっては大きい」
翔馬はしばらく黙っていた。
そして小さく頷いた。
翔馬は拳を握った。
「俺が与志野を守る」
青木は何も言わず翔馬の頭に手を置いた。
その約束が。
今になって胸の奥から蘇ってきた。
翔馬の目の前には与志野がいる。
両親を失い、笑顔をなくした少年。
そして翔馬によってもう一度笑えるようになった少年。
その少年が今、目の前で誰かを傷つけようとしている。
「ウオオォォォ!!」
翔馬は床を蹴る。
与志野へ向かって一気に踏み込む。
その瞬間だった。
――バキッ。
足元の床に亀裂が走った。
それに続く轟音。
視界が白く弾けた。
何かが爆発したような衝撃が教室を駆け抜ける。
一閃。
何が起きたのか分からない。
浮遊したかのような感覚に襲われる。
遅れてガラスの割れる音がした。
ガシャァンッ!!!
翔馬は反射的に何かを両手で掴んでいた。
与志野だった。
「与志野ッ……!」
声が出た。
しかし、自分の声さえ遠く感じる。
翔馬は与志野を抱えたまま空中にいた。
翔馬の目に教室の窓が映る。
割れたガラスがゆっくりと宙を舞っていた。
すべてが異様なほどゆっくりだった。
落ちていくガラス片。
舞い上がる紙。
風に揺れるカーテン。
そして遠く離れた教室。
窓際に立つエルサと田野の姿が見えた。
二人ともこちらを見ている。
驚愕した表情。
エルサが何かを叫んでいるようだった。
だが声は届かない。
翔馬はようやく理解した。
――俺、窓から飛び降りたのか?
地面が見える。
――俺が居たのは四階……
その高さを認識した瞬間、背筋が凍った。
ブォッッ!!
下から爆風が一気に吹きつけてきた。
「うわあああああっ!」
叫び声が空へ消える。
その直後――
大量の葉が視界を覆った。
――ガサガサガサッ!
木の枝を何本もへし折りながら二人の身体が樹冠へ突っ込む。
「ぐっ……あっ……ウゥ!!」
葉が舞う。
枝がしなる。
衝撃が何度も身体を打つ。
そして最後に――
ドンッッ!!
二人の身体が校舎脇の倉庫の屋根へ叩きつけられた。
しばらく何も聞こえなかった。
屋根の上に葉が一枚、ひらりと落ちる。
翔馬は仰向けになったまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「……痛っ……」
翔馬たちは屋根の上でしばらく動けなかった。
荒い息だけがやけに大きく聞こえる。
「……与志野……生きてる?」
隣にいた与志野がゆっくりと身を起こした。
「……たぶん」
二人は顔を見合わせた。
「与志野……良かった……正気に戻ったんだな」
「いや……まだ正気だとは思えないんだけど……」
吹っ飛んだ山口たち、床に走った亀裂、あの一瞬の光。
どれも現実とは思えなかった。
「……俺たち四階から落ちたよな?」
「うん」
「なんで?」
「知らねえよ……」
二人とも答えを出せない。
その時だった。
「おい!!なんだ今の音は!!」
校舎の中から怒鳴り声が響いた。
二人の身体が同時に固まる。
翔馬にはその声に聞き覚えがあった。
「この声……」
校舎へ目を向ける。
「担任の……大井史!?」
頭の中で最悪の光景が一瞬にして浮かんだ。
四階の窓は割れ、教室には山口たちが倒れている。
そのうえ二人は倉庫の屋根にいる。
こんなものを見られて、説明できるはずがない。
停学。
そんな言葉では済まないかもしれない。
下手をすれば二人とも学校にいられなくなる。
(エルサと田野は……ダメだ、そんな余裕ねえ!)
「与志野」
「え?」
「来い!」
翔馬は立ち上がった。
「どこに?」
「いいから!」
返事を待つ余裕はなかった。
翔馬は与志野の腕を掴む。
背後から教師の足音が近づいてくる。
まだ頭が追いついていない。
何が起きたのかも分からない。
それでも、今ここにいるわけにはいかなかった。
近くから大井史の声が響いている。
「おい!誰かいるのか!」
「……やばい!」
翔馬はさらに速度を上げた。
校庭を横切り、靴底が地面を叩く。
息が苦しい。
身体中が痛い。
それでも止まらない。
与志野も必死についてくる。
二人はそのまま校門を走り抜けた。
校門の外へ出た瞬間、翔馬はようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつき、肩で息をする。
与志野も隣で息を整えていた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
背後にある学校を振り返る。
いつもと変わらない筈の校舎。
なのに今日は違う。
翔馬はまだ震えている自分の手を見た。
それが――
新界高校の“裏側”への入り口だった。




