3話 脅し
入学してから数週間が経ち、翔馬たちも少しずつ学校生活に慣れてきていた。
朝のホームルーム。
授業。
昼休み。
放課後。
特別なことが起こるわけでもない、普通の毎日。
「翔馬、今日帰りどっか寄ってく?」
「んー、どうしようかな」
「じゃあ駅前の――」
「ねえ、二人とも」
横から田野が口を挟む。
「何?」
「今日の数学の課題やった?」
「あ」
翔馬と与志野の声が重なる。
田野は呆れたようにため息をついた。
「数学の笹木先生怖いし今のうちにやっといた方がいいよ」
「田野はやったの?」
「当然だろ」
「真面目かよ〜」
「いや普通だから」
入学当初と比べると、田野との距離もずいぶん近くなっていた。
以前なら必要最低限しか話さなかった田野も、今では昼休みに自然と翔馬たちのところへ来る。
そんな何気ない日々が続いていた。
――その一方で。
放課後の廊下は昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
エルサが部室の鍵を閉めていると、階段の方から男子生徒の声が聞こえてきた。
「そういえば、二組の前田って最近来てないよな」
「前田?」
「ほらあいつ、先週くらいから休んでるだろ」
「ああ……なんか優大と揉めたって話聞いたけど」
「揉めたっていうか、虐められてたって噂だぞ」
エルサは鍵を回す手を止めた。
優大。
その名前には聞き覚えがあった。
(優大って……確か入学式の時の……)
「でもあいつ昔からそういうところあるらしいぞ」
「優大?」
「うん、中学のときも結構やばかったって」
「へえ」
少し間があった。
「ていうかさ、俺らの席の近くの真斗もやばくね?」
「あいつ?」
「この前さ……授業中にパソコン使ってたから覗いてみたら変なプログラムみたいのしてたんだぜ、なんか変だろ」
「まあ……確かにな」
「この学校、やばい奴多すぎだろ」
「じゃあヤバい奴四天王でも作るか」
「あと二人誰が入るんだよ」
「お前」
「はぁ!?てか人数合わねえし」
二人の笑い声が遠ざかっていく。
エルサは一人、廊下に残された。
翌朝。
与志野は自分の机の中を覗き込んでいた。
昨日入れたはずのシャープペンがない。
机の下を見た。
鞄の中も探した。
(あれ……おかしいな)
「どうした?」
隣の席から翔馬が声をかけた。
「いや、ペンがなくて」
「落としたんじゃねえか?」
「たぶんそう」
与志野は笑った。
「まあいいや、一本くらい」
そう言って別のペンを取り出した。
その翌日には教科書のページが一枚だけ破れていた。
さらに次の日には、上履きが自分のものだけ少し離れた場所に置かれていた。
どれも誰かに訴えるほどのことではなかった。
だから与志野は誰にも話さなかった。
帰り道。
いつものように翔馬と並んで歩きながら、与志野は何度も後ろを振り返った。
「どうした?なんか最近静かだな」
「……いや」
与志野は首を横に振った。
「なんでもない」
「そうか?てか気になってたんだけどさ、なんかバック汚れてね?何の汚れだそれ?」
翔馬が与志野の持っていたバックを指差す。
「……知らね」
「何だそりゃ、てかお前授業中に音ゲーすんのやめとけよ……絶対そのうち先生にバレるぞ」
「ハハ……そうだな」
与志野が乾いた笑みを浮かべる。
その笑みが意味するものに、翔馬はまだ気づいていなかった。
次の日、五時間目にそれは起こった。
教師が黒板に数式を書いている。
与志野はノートに視線を落としたまま、黙々と手を動かしていた。
「なあ」
前から唐突に小さな声が聞こえ、与志野の手が一瞬だけ止まった。
声の主は前の席の山口だった。
クラスの中では目立つ方の男だ。
休み時間になれば誰かと話しているし、教師にもよく冗談を飛ばす。周囲にはいつも人が集まっている。
与志野はそういう人間が昔から少し苦手だった。
嫌いというわけではない。
ただ、何を考えているのか分からない。
笑っていると思ったら突然誰かをからかう。
その境目が与志野にはうまく掴めなかった。
「消しゴム貸して」
「……ああ」
与志野は筆箱から消しゴムを取り出し、山口へと手渡す。
「サンキュ」
山口はそれだけ言った。
しばらくして、与志野はふと前を見る。
山口の机の脇から見覚えのあるものが覗いていた。
黒いシャープペンシル。
見間違えるはずがなかった。
先日から見つからなかった自分のものだった。
与志野は眉を寄せた。
「……山口」
「ん?」
山口が振り返る。
「それ……」
与志野はシャープペンシルを指した。
「俺のじゃない?」
一瞬だけ山口の目が動いた。
だが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「は?」
「それ、俺がなくしたやつだと思う」
「知らねえよ」
「でも、そこに名前……」
「今授業中なんだけど、もうちょい静かに話せない?」
山口は笑っていた。
声も大きくない。
だから余計に与志野は言葉を続けにくかった。
「……返してほしいんだけど」
「だから俺のだって」
「いや、そこに見覚えのある印が……」
与志野が山口の席へ手を伸ばす。
その瞬間、山口の隣の席から声が飛んできた。
「何ムキになってんの?」
「え?」
「たかがシャーペンじゃん」
山口の隣の席の別の男子も振り返る。
「与志野ってそういう感じなんだな、まあ音ゲーやってるだけあるわ」
「は……?何だよそれ」
「いや、別に」
教師の声だけが響き渡る静かな教室に小さな笑い声が起きた。
教室の何人かがこちらを見ている。
その視線に耐えられず、与志野は立ち上がりかけた体をゆっくり椅子に戻した。
教師は何も気づいていない。
黒板には新しい数式が書き足されていた。
山口は前を向き直った。
そして、与志野から借りた消しゴムを使いながら、隣の席の仲間と小さく笑った。
授業が終わるまで、与志野は一度も山口に声をかけなかった。
そして放課後。
教室を出たところで、背後から肩を掴まれた。
「与志野」
振り返る。
山口がいた。
その後ろには、山口の仲間たちもいる。
「ちょっと話そうぜ」
昼休みと同じ気持ちの悪い笑顔だった。
それから数日。
与志野は放課後になると翔馬たちと帰らなくなった。
「今日も予定あんのか?」
無言で教室を出て行こうとする与志野に翔馬が聞く。
「ああ、ちょっと用事あるから」
与志野は笑って答えた。
その笑顔が少しだけ不自然だった。
翌日も。
その翌日も同じだった。
ある日の放課後、翔馬はエルサと田野に言った。
「……やっぱりおかしいよな」
「そうだな」
エルサは鞄に教科書をしまいながら顔を上げた。
「最近全然笑わねえし……絶対何かあったって」
田野は窓の外を見ながら、少し考えてから言った。
「……つけてみる?」
「え?」
「本人に聞いても何も言わないだろ」
田野が振り返った。
「だったら自分たちで確かめればいい」
翔馬は少し迷った。
与志野が嫌がるかもしれない。
けれどそれ以上に気になっていた。
「……分かった」
翌日、与志野はいつものように翔馬たちより先に教室を出ていく。
三人は少し時間を置いて、教室を出た。
廊下の先を歩く与志野の姿が見える。
階段を下りる。
与志野は昇降口へ向かわなかった。
校舎の奥へ進んでいく。
「……どこ行くんだ?」
翔馬が小声で言う。
与志野は誰もいない廊下を歩き、普段ほとんど使われていない棟へ入っていった。
その先に古い空き教室があった。
「ここって……確か旧校舎だろ?こんなとこに何の用だよ」
エルサがそう呟くのと同時に与志野が扉を開ける。
三人は廊下の角から様子を窺った。
「……中に誰かいる」
エルサが呟いたその直後だった。
教室の中から、大きな笑い声が聞こえた。
「この声って……同じクラスの山口じゃねえか?与志野の前の席の」
「……行こう」
三人はドアの前で止まり、中の様子に聞き耳を立てる。
扉の向こうから、山口の声が聞こえてきた。
「で、今週分は?」
「……え?」
「金だよ」
「先週もう渡しただろ……あれで全部だよ」
教室の中には山口ともう何人かの男子たちがいた。
山口は教卓に腰を掛け、与志野を見下ろしている。
「毎月最低5万は払うって話になってるだろ」
「は……?バイトもしてないのに払える訳ないだろ」
山口の表情から笑みが消えた。
「チッ……じゃあ今週はいくら持ってきた?」
「……五千円しかない」
「少な」
「中学生かよ」
山口の仲間たちがスマホを見ながら笑う。
「……もう払えないって言ってるだろ!」
沈黙が落ちた。
山口の後ろにいた男子が鼻で笑った。
「与志野君カッコいい〜!」
「音ゲーで鍛えた身体で戦っちゃう?」
山口が無言で立ち上がる。
与志野は怯えながら一歩下がった。
「与志野……言葉で言ってる内に早く払った方がいいよ?」
「だから……もう無いんだって!」
「お前の友達から借りればいいじゃん、それか財布パクれば?」
「そんな事できる訳ないだろ!」
「声でけえよ」
山口が与志野の胸を押した。
与志野の背中が壁に当たる。
「もう……もう払わない!お前らとも関わらない!」
今度ははっきりと言った。
その言葉を聞いた瞬間、山口の顔つきが変わった。
「お前さ、自分の立場分かってる?」
山口が更に近づく。
与志野は俯いて黙っていた。
「優大先輩って知ってる?一年前同級生何人も半殺しにして病院送りにした先輩、俺たち友達なんだよね」
山口がさらに一歩近づいた。
「そういえばさ」
ふと思い出したように言う。
「俺、お前の家調べようと思ってたんだよ」
「……何で」
「万が一お前が金払わなかったらお前の両親に払ってもらおうと思ってさ、でもさぁビックリしたよ」
与志野の表情が変わった。
「お前、施設暮らしだったんだな」
空気が止まった。
与志野は何も言わなかった。
山口はその反応を面白がるように続けた。
「へえ、だから家の話とか全然しなかったんだ」
「……やめろ」
ドンッ!!
次の瞬間、横にいた男子が与志野の肩を突き飛ばした。
「うっ!!」
与志野がよろめく。
瞬間、もう一人が腕を掴む。
「離せよ!」
「暴れんなって、すぐ終わるから」
与志野が振りほどこうとした。
だが、二人がかりでは動けない。
山口はその様子を見ながら床に落ちた与志野の財布を拾った。
「とりあえず身分証とか色々預かっとくね、あとお前のスマホも」
「返せよ!」
与志野が手を伸ばす。
山口はその手を勢いよくはたき落とすと、仲間と共に廊下へと向かう。
「来週も忘れんなよ〜、出来なかったら身分証悪い人たちに渡しちゃうからね」
「ハハッ!怖ぇ〜山口!」
その瞬間だった。
ガララッ!!
勢いよく教室の扉が開いた。
「――何してんだよ」
そこに翔馬が立っていた。
その後ろにはエルサと田野。
三人とも黙って教室の中を見ていた。
床に散らばった与志野の荷物。
山口の手にある財布とスマホ。
そして壁際に追い詰められた与志野。
翔馬の表情から血の気が引いていった。
「……与志野」
名前を呼ばれて咄嗟に目が合う。
何か言おうとした。
けれど、声にならなかった。




