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第9話 名前を呼ぶ祈り

 教会から帰ってきたあと、俺はしばらく聖歌のことを考えていた。


 ノエル・アシュベル。

 祈りを間違えない少女。

 白い服。

 銀色の髪。

 まっすぐな歌声。


 そして、父が「近づきすぎるな」と言った子ども。

 情報量が多い。


 五歳児の一日としては、明らかに処理負荷が高い。

 俺はその夜、寝台の上でぼんやり天井を見ていた。


 白い布。

 揺れる燭台の光。

 母の足音。


 前世なら、ここで攻略メモを開いていた。

 ノエル・アシュベル、教会、聖歌、父が警戒。

 そう書いて、横に赤丸をつけるところだ。

 今は書けない。

 だから覚える。


 人間の記憶容量に頼るしかない。

 不便。

 現代人、外部記憶に甘えすぎだ。



     ◆



 翌朝、母が言った。

「エリアス、昨日の聖歌が気に入ったの?」


 気に入った、という表現は少し違う。

 警戒している。

 調査対象として気になっている。


 あと、ノエルが本当に原作のノエルなのか確認したい。

 だが、そんなことを五歳児が言えるわけがない。

 俺は無難に頷いた。


「うん。きれいだった」


 母は嬉しそうに笑った。


「そう。なら、少しずつお祈りも覚えましょうか」


 来た。

 祈り。

 白燭教会はくしょくきょうかいの基本システム。

 ゲームでは、だいたい教会イベントの背景にあったものだ。


 前世の俺は、祈りなんて雰囲気づくりのテキストだと思っていた。

 だが今は違う。

 この世界では、祈りはただの演出ではない。


 名前。

 ともしび

 死者。

 記録。

 たぶん、全部つながっている。


 俺は子どもらしく言った。


「おぼえる」


 母は俺の頭を撫でた。

 素直な子だと思われたらしい。

 違います。

 情報収集です。



     ◆



 母が最初に教えてくれたのは、夜の祈りだった。

 寝る前に、燭台の前で唱える短い言葉。

 子ども用なので、難しいものではない。


 母はゆっくり言った。

「灯よ、今日を終える私たちをお守りください」


 俺も真似する。

「ともしびよ、きょうをおえる、わたしたちを、おまもりください」


 長い。

 五歳児の口には長い。

 途中で舌がもつれる。


 祈り、発音判定が地味に厳しい。

 母は笑わず、ちゃんと待ってくれた。


「そして、先に眠った者たちに、道を示してください」


 先に眠った者。

 死者のことだ。

 白燭教会は、死を眠りにたとえる。

 表現としてはやさしい。


 やさしい表現ほど、裏がある気がしてしまう。

 このゲームに毒されすぎている。


 母は続けた。

「祖父アルベルトに灯を」


 知らない名前が出た。

 たぶん、ヴェイル家の誰かだ。


「祖母ロザリンドに灯を」


 また名前。


「幼くして眠ったルシアに灯を」


 母の声が、少しだけ柔らかくなった。

 ルシア。

 誰だろう。

 亡くなった親族か。

 母のきょうだいか。


 聞きたい。

 だが、今は黙る。

 母は、その人たちの名を一人ずつ呼んだ。


 アルベルト。

 ロザリンド。

 ルシア。


 知らない死者たち。

 けれど、名前で呼ばれている。

 そこに、引っかかった。


 家の死者は、名前で呼ぶ。

 では、絵本の六人は?


 北の乙女。

 東の乙女。

 南の乙女。

 西の乙女。

 王都の乙女。

 灰かぶりの乙女。


 あれは、名前ではない。

 役目だ。

 称号だ。

 便利なラベルだ。


 俺は燭台の火を見ながら、じっと黙った。

 やっぱり、おかしい。



     ◆



 祈りが終わったあと、俺は母に聞いた。


「せいじょさまは?」


 母が瞬きをする。

「聖女様?」

「うん。おいのり。なまえ、よばないの?」


 母の表情が、ほんの少し固まった。

 失敗したか。

 いや、質問としては子どもっぽいはずだ。


 絵本を読んだ。

 祈りを覚えた。

 死者の名前を呼ぶと知った。

 なら、聖女の名前は呼ばないのかと聞く。


 自然。

 たぶん自然。

 頼む、自然であってくれ。


 母は困ったように微笑んだ。

「聖女様は、みんなのための方だから、お名前ではなく、お役目でお祈りするのよ」


 またそれだ。

 役目。

 みんなのため。

 個人より尊いもの。


 綺麗な言葉の二回目である。

 俺はさらに聞きたかった。

 それは本人が望んだのか。


 名前を呼ばれなくても、魂は迷わないのか。

 白燭教義はくしょくきょうぎでは、名は灯になるんじゃないのか。


 だが、五歳児の俺がそこまで踏み込んだら終わる。

 不審者である。

 なので、俺は一段だけ下がった。


「ふうん」


 子どもらしい無理解。

 便利。

 母は少し安心したように、俺の髪を撫でた。

 俺は撫でられながら思った。

 納得はしていない。

 全然していない。



     ◆



 その夜、父も祈りの場に来た。

 父は普段、母ほど長く祈らない。

 短く、静かに、必要なことだけを言う。


 性格が出ている。

 祈りにも性格が出るのか。

 面倒くさい世界だ。


 俺が聖女の名について聞いたことは、母から伝わっていたらしい。

 父は燭台の前で、俺を見た。


「エリアス。名は軽く扱うものではない」


 急に重い話が来た。

 五歳児向けの説教としては、かなり硬い。


「名は、家につながる。血につながる。記録につながる。誰の名を呼ぶかは、誰と結びつくかということだ」


 なるほど。

 この世界での名前は、ただの呼び方ではない。

 社会的な住所。

 血筋のタグ。

 祈りの宛先。


 たぶん、魔術的な座標でもある。

 前世で言えば、名前、住所、マイナンバー、メールアドレスをまとめたようなものかもしれない。

 重い。

 個人情報の扱いが重すぎる。

 俺は子どもらしく聞いた。


「ぼくの、なまえも?」

 父は頷いた。


「エリアス・ヴェイル。お前の名は、ヴェイル家の名だ」


 俺の名。

 エリアス。

 ヴェイル。

 ゲーム主人公の名前。

 今は、俺の名前。


 父の言い方には、少し引っかかるものがあった。

 お前の名は、ヴェイル家の名。

 俺自身のもの、とは言わない。

 この家に属するもの。


 家が守り、家が隠し、家が扱うもの。

 たぶん、そういう感覚なのだろう。


 俺の左手の黒痣と同じだ。

 俺のものなのに、俺だけのものではない。

 面倒くさい。

 名前も痣も、所有権が曖昧すぎる。



     ◆



 父は続けた。


「だから、知らぬ相手の名をむやみに呼ぶな。呼ばせるな」

「どうして?」

「名を呼ぶことは、相手に近づくことだ」


 ああ。

 それで父は、教会の子どもと近づきすぎるなと言ったのか。


 ノエル・アシュベル。

 俺はもう、彼女の名前を知っている。

 聖歌集の内側に書かれていたからだ。

 けれど、本人から聞いたわけではない。


 この世界の感覚では、それは少し危ういのかもしれない。

 勝手に名前を知っている。

 勝手に覚えている。

 勝手に、未来の攻略不能サブキャラとして見ている。


 ……うん。

 だいぶ失礼だな。


 前世のゲーム知識、便利だけど人格への配慮が雑になりがちである。

 反省。

 少しだけ。


 父は俺の左手を見た。

 手袋の下の黒痣までは見えない。

 それでも、見ているのはそこだと分かった。


「お前は、今はまだ名を覚えすぎなくていい」


 無理です。

 もうだいぶ覚えています。

 とは言えない。


 俺は素直に頷いた。

「うん」


 嘘ではない。

 覚えすぎないよう努力はする。

 結果は保証できない。



     ◆



 その夜、俺は寝台の中で、覚えた名前を並べていた。


 マリアンヌ。

 レオン。

 マティアス。

 ノエル・アシュベル。

 アルベルト。

 ロザリンド。

 ルシア。

 そして、名前を失った六人の乙女たち。


 人には名前がある。

 死者にも名前がある。

 祈りは、その名前を灯として扱う。


 それなのに、王国を守ったはずの聖女たちには名前がない。

 いや、ないのではない。

 消されている。

 たぶん。


 まだ証拠はない。

 ただの五歳児の疑いだ。

 五歳児の疑いにしては、だいぶ嫌な方向へ伸びている。

 でも、この疑いは覚えておく必要がある。


 いつかノエルに聞く。

 名を呼ばれない聖女は、本当に救われるのか。

 その問いを投げるには、俺自身がまず、この世界で名がどう扱われているのかを知らなければならない。


 祈りを覚える。

 名前を覚える。

 呼んでいい名と、まだ呼んではいけない名を覚える。

 やることが多い。


 世界を救う前に、礼儀作法と個人情報保護を学ぶ必要がある。

 ファンタジー救世主のカリキュラムとして、地味すぎる。

 俺は手袋をした左手を胸元に寄せた。


 まだ、ただの黒痣。

 まだ、ただの子ども。

 でも、少しずつ分かってきた。

 この世界では、名前が重い。


 なら、その重さを知らないまま、誰かを救うなんて言えない。

 俺は目を閉じた。

 明日から、祈りの言葉をもう少し真面目に覚えよう。

 ノエルほど間違えずに、とは言わない。


 あれはたぶん才能か性格だ。

 俺は俺のやり方でいい。

 まずは、聞く。


 覚える。

 そして、いつかちゃんと問う。

 名前を呼ばない祈りは、誰に届くのか、と。



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