第10話 魔術は右手でお願いします
祈りを覚えたあと、父レオンは俺に家庭教師をつけた。
貴族の子どもとしては、少し早いらしい。
理由は、俺が本を読むのを嫌がらなかったから。
いや、嫌がるわけがない。
こっちは攻略サイトも設定資料集も失っているのだ。
本は命綱である。
ただ、父が用意した家庭教師は、読み書きだけの先生ではなかった。
算術。
地理。
礼法。
そして、魔術の基礎。
来た。
ようやく来た。
俺は内心で拳を握った。
ファンタジー世界に転生して、赤ん坊期間を乗り越えて、ようやく魔術である。
長かった。
長すぎた。
ここまでの主な攻略行動、泣く、寝る、手袋をはめる、絵本を読む。
地味すぎる。
そろそろ火球くらい撃たせてほしい。
◆
家庭教師の名前は、ベルトラム・ヨルグ。
白い髭を短く整えた、細身の老人だった。
貴族向けの初等教育を請け負う元宮廷魔術師らしい。
宮廷魔術師。
肩書きが強い。
俺の中の少年心が少し騒いだ。
だが、実際のベルトラム先生は、黒いローブを翻して雷を落とすタイプではなかった。
眼鏡。
革の鞄。
分厚い手帳。
細かい字。
完全に塾講師である。
「エリアス様。まず確認します」
ベルトラム先生は、俺の前に小さな蝋燭を置いた。
「魔術とは、何だと思いますか」
いきなり問答。
五歳児に聞く質問ではない。
ただし、俺の中身は前世込みなので答えたいことは山ほどある。
霊脈。魔力。術式。媒介。
設定資料集で読んだ単語が頭の中に並ぶ。
だが、ここで全部言ったら危ない。
五歳児が急に用語を並べ始めたら、天才ではなく不審者である。
俺は子どもらしく首をかしげた。
「おねがいすると、ひがつく?」
ベルトラム先生は、少しだけ笑った。
「惜しい。お願いでは火はつきません。手順を通すのです」
手順。
いい言葉だ。
俺は一気に信用した。
祈りは願う。
魔術は手順を通す。
この区別、かなり大事そうだ。
◆
ベルトラム先生は、机の上に小さな紙片を置いた。
紙には円と線が描かれている。
子ども向けの簡単な術式らしい。
「これは火を呼ぶための形です。火そのものを作るのではありません。近くの熱を集め、芯へ渡すだけです」
なるほど。
つまり、いきなり爆炎ではない。
蝋燭に火をつけるだけ。
地味。
だが、今の俺には十分すぎる。
ベルトラム先生は俺の右手を取り、指先を蝋燭の前に向けさせた。
「息を吸って、止めて、ゆっくり吐く。手の先を熱が通る道だと思いなさい」
俺は言われた通りにした。
吸う。
止める。
吐く。
指先が、少しだけ温かくなった。
お。
おお。
これ、来てるのでは。
蝋燭の芯が、ほんの少し赤くなった。
火はつかなかった。
つかないのかよ。
俺の初魔術、ぬるい指先で終了。
ベルトラム先生は満足そうに頷いた。
「初回で熱を動かせたなら十分です」
十分なのか。
俺としては、せめて火花くらい欲しかった。
ファンタジーへの期待値が高すぎたかもしれない。
◆
問題は、二回目に起きた。
右手でうまくいかないなら、左手ならどうか。
そう思ったわけではない。
いや、少しは思った。
だって左手には黒痣がある。
厄ネタではあるが、何か特別な力が流れている可能性は高い。
ゲームの主人公的には、呪われた左手で特殊魔術。
絵面は強い。
でも、危険なのも分かっている。
だから俺は左手を動かすつもりはなかった。
なかったのだが、呼吸に合わせて、左手の奥が勝手に熱を持った。
手袋の下。
黒痣のあたり。
そこだけ、じわりと熱い。
蝋燭の火はまだついていない。
だが、芯の赤みがゆらりと揺れた。
白いはずの蝋燭の影が、一瞬だけ黒く伸びた。
父が立ち上がった。
「そこまでだ」
声が低い。
母が隣で息を呑む。
ベルトラム先生も、表情を変えた。
しまった。
これは、普通ではない。
俺は慌てて右手を下ろし、左手を胸元に引き寄せた。
いつもの癖。
手袋を隠す。
黒痣を隠す。
大人たちは、その動きを見ていた。
空気が重い。
初魔術体験、いきなり事故りかけである。
チュートリアルくらい安全にしてくれ。
◆
ベルトラム先生は、しばらく黙ってから言った。
「左手は、使わない方がよろしいでしょう」
父は即答した。
「当然だ」
当然らしい。
俺も同意である。
左手、危険。
これを本日の授業のまとめにしたい。
ただ、ベルトラム先生は俺を怖がっているというより、考え込んでいる顔だった。
「右手で熱を動かす素質はあります。呼吸も悪くない。ですが、左手が勝手に流れを引く。これは癖になる前に分けた方がいい」
分ける。
つまり、右手は普通の魔術。
左手は黒痣に引っ張られる危険な流れ。
そういうことか。
父が俺を見た。
「エリアス。魔術は右手で習いなさい」
言い方が、小さい子どもへの注意ではない。
家訓みたいな重さがある。
俺は素直に頷いた。
「うん」
本音である。
左手で格好よく闇魔術とか、そういう中二病を発症する余裕はない。
十六年後の聖印検査で詰まないことが最優先だ。
主人公の呪われた左手。
使えば強いかもしれない。
でも、使ったらたぶん監視ルート直行。
ロマンより生存。
現実はだいたいこういう選択になる。
◆
その夜、俺は寝台の中で右手を握ったり開いたりした。
指先に、まだ少しだけ熱の感覚が残っている。
魔術は使える。
少なくとも、入口には立てた。
ただし、左手は危ない。
祈りに反応する。
教会にも反応する。
魔術にも反応する。
黒痣、反応条件が多すぎる。
センサーか。
いや、センサーならまだいい。
これは爆弾に近い。
でも、今日分かったことは大きい。
魔術は願いではなく手順。
呼吸で流れを整える。
右手なら、少しだけ熱を動かせる。
左手は、勝手に流れを引く。
つまり、今後の目標は決まった。
右手で普通の魔術を覚える。
左手は隠す。
左手に流れそうになったら、呼吸で逃がす。
地味。
本当に地味。
でも、地味なことを積み上げないと、このゲームはすぐ殺しにくる。
俺は右手を見つめた。
小さい。
まだ弱い。
でも、動く。
熱も通る。
それだけで、少しだけ安心した。
世界を救うには、まず右手で蝋燭に火をつけるところから。
救世主というより、火の用心係である。
だがまあ、火の扱いを間違えたら普通に屋敷が燃える。
そう考えると、わりと大事かもしれない。
俺は右手を布団の上に置き、左手は手袋ごと胸元に隠した。
魔術は右手で。
左手は、まだ使わない。
今日のところは、それでいい。




