第7話 初めての外出先が教会なの、詰んでない?
五歳になった俺は、屋敷の外へ出る権利を手に入れた。
正確には、連れ出された。
行き先は遊園地ではない。
市場でもない。
貴族の子ども向けのお茶会でもない。
白燭教会だった。
初めての外出先が教会。
嫌すぎる。
しかも目的は、俺の左手の黒痣の定期観察である。
観光ではない。
健康診断でもない。
いや、向こうは健康診断のつもりかもしれない。
だが俺からすると、将来の即死イベントの前哨戦である。
五歳児にして、人生初の外出が監視機関への出頭。
この世界、子どもの情操教育に向いていない。
◆
朝から屋敷は少しだけ慌ただしかった。
母マリアンヌは、俺の髪を何度も整えた。
父レオンは、いつもより硬い顔で馬車の準備を確認していた。
俺は灰色の上着を着せられ、左手には例の手袋をはめられた。
小さな布の手袋。
俺の初期装備。
今ではもう、屋敷の者たちもそれに慣れている。
「エリアス様は、左手を出されるのがお嫌いですものね」
女中がそんなことを言って、手袋の端を直してくれた。
よし。
癖づけ成功。
俺は子どもらしく頷いた。
「うん。これ、すき」
好きではない。
必要だからだ。
でも、そう思われておけばいい。
五歳児が「これは十六年後の聖印検査対策です」と説明したら、別の部署に送られる。
教会ではなく、もっと怖いところに。
あるかどうか知らないけど。
父は俺の手袋を見て、短く言った。
「今日は、外すよう求められるかもしれない」
来た。
俺は内心で姿勢を正した。
「いや」
即答した。
父が少し目を細める。
「理由は?」
「さむい」
嘘ではない。
王都の朝は少し冷える。
ただ、本当の理由は寒さではない。
左手を見せたくない。
祈祷や聖印に近いものへ不用意に触れさせたくない。
だが、五歳児の言葉としては「さむい」が限界である。
便利だな、幼児語。
父は少し考えてから頷いた。
「無理に外す必要はない。だが、聞かれたら私が答える。お前は黙っていなさい」
ありがたい。
同時に、ちょっと怖い。
父は俺を守ってくれている。
でも、守り方が完全に貴族の危機管理だ。
家庭内でコンプライアンス研修を受けている気分になる。
◆
馬車に乗ると、世界が揺れた。
屋敷の外に出るのは、ほとんど初めてだった。
窓の向こうには、王都の街並みが流れていく。
石畳。
馬車の車輪。
パンを焼く匂い。
朝市の声。
教会の鐘。
遠くに見える白い塔。
ゲーム画面では、王都背景の一枚絵で済んでいた場所だ。
前世の俺は、その背景を何度も見た。
綺麗な街だな、くらいに思っていた。
でも、現実の王都は一枚絵ではなかった。
馬の匂いがする。
人の声がうるさい。
石畳の継ぎ目で馬車が跳ねる。
子どもが走って、物売りが怒鳴って、どこかの家から焼きたてのパンの匂いがする。
情報量が多い。
背景、動きすぎ。
俺は窓に張りつきたかったが、貴族の子どもらしく座っていなければならなかった。
つらい。
五歳児としては窓に張りついても許されそうだが、父の横顔が硬すぎる。
今日は観光ではない。
教会だ。
俺は窓の外を見ながら、心の中で王都の地図を重ねた。
父の書斎で読んだ『王国初等地理』。
そこに載っていた大通り、広場、白燭大聖堂。
今、馬車はたぶん東の通りを抜けている。
大聖堂までの距離は、子どもの足なら遠い。
逃げるなら無理。
いや、今から逃げるな。
発想が犯罪者になっている。
でも、将来は逃げる必要があるかもしれない。
道は覚えておく。
五歳児、初めての外出で逃走経路を確認する。
本当にかわいげがない。
◆
白燭教会は、近くで見るとやたら白かった。
白い石壁。
高い尖塔。
扉には燭台の紋章。
中庭には、子どもや老人、祈りに来たらしい市民が何人もいた。
思ったより生活感がある。
もっとこう、怪しい秘密組織の入口みたいなものを想像していた。
だが実際には、近所の人が普通に出入りしている。
子どもが走り、老婆が祈り、司祭が笑顔で挨拶している。
表向きは、完全に地域密着型の善良な宗教施設だった。
それが嫌だ。
悪そうな顔で悪いことをしてくれた方が、こっちも警戒しやすい。
優しい顔で近づいてくる組織が一番怖い。
父に手を引かれ、俺は教会の中へ入った。
中は、思ったより静かだった。
香の匂い。
磨かれた床。
壁に並ぶ白い蝋燭。
その前で、人々が小さく祈っている。
耳を澄ませると、同じ言葉が何度も聞こえた。
「名を灯せ。灯は魂を導く」
白燭教義の基本句だ。
絵本にも出てきた。
死者の名を忘れず、灯によって魂を導く。
良い教えだと思う。
本来なら。
問題は、その教えを掲げている国と教会が、六人の乙女たちの名前を消していることだ。
俺は口には出さない。
五歳児なので。
五歳児が教義矛盾を指摘したら、だいぶ怖い。
代わりに、俺は蝋燭を見上げた。
「きれい」
母が少し安心したように笑う。
「ええ。きれいね」
きれいだ。
だから余計に腹が立つ。
綺麗なものが、綺麗な顔で誰かを縛っているかもしれないのだから。
◆
マティアス司祭は、奥の小部屋で待っていた。
白い法衣。
穏やかな顔。
細い指。
相変わらず、悪人には見えない。
「よくお越しくださいました、レオン様、マリアンヌ様。エリアス様も、大きくなられましたね」
俺は子どもらしく父の後ろに隠れた。
警戒心を見せすぎてもいけない。
だが、なつきすぎるのもまずい。
五歳児らしい人見知り。
これが一番安全。
演技派幼児である。
マティアスは膝を折って、俺と目線を合わせた。
「こんにちは、エリアス様。私を覚えていますか」
覚えています。
前に俺の左手を触ろうとして、痣を少し熱くした人です。
とは言えない。
俺は首を傾げた。
「しさいさま」
「ええ、よく覚えておられました」
覚えているに決まっている。
こっちは人生がかかっている。
マティアスは机の上に小さな燭台を置いた。
その炎は、普通の火より少し白かった。
嫌な予感がする。
「今日は、簡単なお祈りと、左手の痣の様子を見せていただきます」
来た。
左手。
俺は反射的に、手袋をはめた左手を胸元に引き寄せた。
父がすぐに口を開く。
「この子は、左手に触れられるのをひどく嫌がります」
ナイス父。
父親好感度が上がった。
マティアスは困ったように微笑む。
「無理にとは申しません。ただ、状態を確認しなければ、教会としても判断ができません」
判断しなくていいです。
経過観察のままでお願いします。
俺は父の服を右手で掴んだ。
左手は隠したまま。
母が心配そうに俺を見る。
「エリアス、大丈夫よ」
大丈夫ではない。
この小部屋、地味にボス戦前の空気がする。
ただ、ここで泣きすぎると、逆に不自然だ。
前に赤ん坊スキルとして泣くのは有効だった。
だが五歳になると、泣けばいいというものではない。
泣きすぎる子は、別の意味で精神不安定扱いされる。
このゲーム、年齢が上がると使えなくなるコマンドがある。
リアルだな。
嫌なリアルさだな。
俺は小さく息を吸った。
左手が熱くならないように。
黒痣が反応しないように。
手袋の中で、指を軽く丸める。
マティアスが言った。
「では、手袋の上からで構いません」
手袋の上から。
ギリギリ許容範囲か。
俺は父を見た。
父が小さく頷く。
俺は、ゆっくり左手を出した。
手袋越しに、マティアスの指が触れる。
燭台の白い火が、ほんの少し揺れた。
左手の奥が、じん、と熱くなる。
まずい。
でも、前ほど強くない。
手袋が効いている。
俺は呼吸を止めかけて、慌ててゆっくり吐いた。
止めるな。
力むな。
熱を追いかけるな。
何も起きていない顔をしろ。
五歳児に要求される演技力ではない。
マティアスは目を細めた。
「……ふむ」
やめろ。
その「ふむ」は怖い。
父が低く尋ねる。
「何か」
「いえ。大きな変化はありません。痣が広がっている様子もない」
セーフ。
たぶんセーフ。
「ただ、霊性の反応はやはり少し強い。今後も定期的に祈祷を続けましょう」
続けなくていい。
でも、拒否できない。
マティアスは手を離した。
左手の熱が、ゆっくり引いていく。
俺は内心で大きく息を吐いた。
教会検査、初回突破。
ただし、完全勝利ではない。
向こうは何かを感じ取っている。
俺も分かった。
手袋は効く。
呼吸もたぶん効く。
だが、白燭教会の祈りは、黒痣に反応する。
この情報は大きい。
メモしたい。
できない。
五歳児になっても、まだまともにメモは取れない。
不便すぎる。
◆
検査が終わったあと、母は少し安心したようだった。
父は安心していなかった。
マティアスも、完全には安心していなかった。
俺も当然、安心していない。
安心している人間が一人もいない定期観察。
やめた方がいいのでは。
帰り際、教会の廊下で子どもたちの歌声が聞こえた。
白い服を着た子どもたちが、蝋燭の前で聖歌を歌っている。
その中に、俺と同じくらいの歳の女の子がいた。
淡い銀色の髪。
少し大きめの白い服。
真面目そうな顔。
彼女は他の子より、ほんの少し遅れて歌っていた。
緊張しているのかもしれない。
俺が見ていると、その子がこちらに気づいた。
目が合う。
彼女は一瞬だけ驚いて、それから小さく頭を下げた。
俺も反射で頭を下げた。
誰だ。
いや、待て。
白い服。
銀色の髪。
教会の子ども。
もしかして。
俺の頭の中で、攻略不能サブキャラ一覧がざわついた。
だが、今は名前を確認できない。
父が俺の肩に手を置く。
「行くぞ」
「うん」
俺はもう一度だけ振り返った。
少女はもう、聖歌に戻っていた。
歌声は細い。
でも、まっすぐだった。
ゲームでは、王立高等学院に入ってから会うはずの人物かもしれない。
それとも、ただの教会の子かもしれない。
分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
ゲームでイベントが始まる前から、人はそこにいる。
俺が知らなかっただけで、生きている。
この事実、地味に重い。
そして、少しだけ面白い。
◆
帰りの馬車で、俺はずっと左手を見ていた。
手袋の内側には、まだかすかに熱が残っている気がした。
黒痣は反応する。
手袋は効く。
呼吸も効くかもしれない。
教会はまだ俺を異端とは見ていない。
ただし、観察対象ではある。
情報は増えた。
同時に、怖さも増えた。
父がふと尋ねた。
「怖かったか」
俺は少し考えた。
五歳児としての答え。
エリアスとしての本音。
どちらを出すべきか。
俺は手袋の左手を握った。
「うん。でも、なかない」
父は黙った。
母が俺の頭を撫でた。
「えらかったわ」
違う。
偉いわけではない。
泣いたら負けそうだっただけだ。
それに、今日は分かった。
教会は、優しい顔で近づいてくる。
祈りは、黒痣を揺らす。
白い火は、俺の中の何かを照らそうとする。
だったら、俺はそれに慣れなければならない。
聖印検査まで、まだ十一年。
長い。
でも、こういう小さな検査を一つずつ越えていくしかない。
世界を救う前に、まず定期観察をやり過ごす。
地味。
本当に地味。
だが、このクソゲーは、地味なところで失敗すると派手に死ぬ。
俺は馬車の揺れに身を任せながら、目を閉じた。
今日の成果。
初めての外出。
王都の道を少し覚えた。
白燭教会の空気を知った。
手袋越しなら、祈祷に少し耐えられると分かった。
それから、たぶん、未来の攻略不能キャラらしき少女を見た。
収穫は多い。
ただし、疲労も多い。
五歳児の体力、すぐ尽きる。
俺は眠気に負けながら、小さく思った。
次は、もっと準備して来よう。
教会に行くだけでこれなら、入学式はたぶん地獄だ。




