第6話 攻略本のかわりに絵本を読む
四歳になった俺は、ついに本に触れる権利を手に入れた。
正確には、絵本である。
分厚い魔術書でもない。
王国の機密文書でもない。
白燭教会の禁書でもない。
子ども向けの、聖女と王様の絵本。
タイトルは、
『六つの灯と白い王』
だった。
来た。
俺は表紙を見た瞬間、内心で身を乗り出した。
子ども向けの絵本。
一見、ただの教育用。
だがこういう本ほど、国が子どもに最初に覚えさせたい物語が入っている。
つまり、洗脳教材。
言い方が悪い?
でもだいたい合っている。
◆
母は俺を膝に乗せて、ゆっくり読み聞かせてくれた。
「むかしむかし、王国がまだ暗い森に囲まれていた頃、六人の清らかな乙女がいました」
絵本には、六人の少女が描かれている。
雪の衣、海の衣、麦の冠、砂の薄布、王都の白衣、そして灰色のヴェール。
名前はない。
称号だけだ。
北の乙女。
東の乙女。
南の乙女。
西の乙女。
王都の乙女。
灰かぶりの乙女。
俺はそこで、少しだけ胸が冷えた。
やっぱりだ。
この国は、彼女たちを名前で呼ばない。
子ども向けの絵本ですら、個人名を消している。
白燭教義では、死者の名は魂を導く灯になる。
それなのに、国を守ったはずの乙女たちの名は教えない。
矛盾している。
四歳児の俺は、そこで母に聞いた。
「なまえ、ないの?」
母は一瞬、読むのを止めた。
「え?」
「このひとたち。なまえ」
母は困ったように微笑んだ。
「聖女様は、みんなのための方だから、お名前よりもお役目が大切なのよ」
なるほど。
そう説明するのか。
子ども相手には、かなり自然に聞こえる。
役目が大切。
みんなのため。
個人よりも尊いもの。
綺麗な言葉だ。
綺麗な言葉ほど、危ない。
◆
俺はそこから、絵本を何度も読んでもらった。
もちろん、表向きはただのお気に入りである。
「エリアスはこの絵本が好きね」
母は嬉しそうに言う。
好きではない。
資料として有用なのです。
とは言えないので、俺は子どもらしく頷いた。
「すき」
嘘ではない。
資料価値が好きだ。
何度も聞くうちに、絵本の文章をほとんど覚えた。
そこから文字を追う。
音と文字を対応させる。
一文字ずつ拾う。
攻略サイトも公式設定資料集もない。
なら、この世界の本を読むしかない。
最初の攻略本は、絵本だった。
難易度の落差がすごい。
前世では広辞苑みたいな設定資料集を読んでいた男が、今は「おうさま」の文字で喜んでいる。
人間、環境でここまで下がれる。
◆
父は、俺が文字に興味を持つことを歓迎した。
貴族の子なら、早く文字を覚えるのは良いことらしい。
ただし父は、俺に本を与える時、必ず選んだ。
子ども向けの聖典。
王国の童話。
礼法の絵解き。
簡単な算術。
危なそうな本は出てこない。
まあ、当たり前だ。
四歳児に禁書を渡す親がいたら、それはそれで怖い。
ただ、俺にとっては十分だった。
禁書はいらない。
少なくとも今は。
王都ルートの初見殺しのひとつは、図書館で禁書を読むことだ。
禁書棚には読者を記録する術式がある。
ゲームでは好奇心で読んだ瞬間、教会に通知が飛ぶ。
だから俺は決めている。
まず普通の本を読む。
普通の本に書かれていることを覚える。
普通の本に書かれていないことを見つける。
禁書の答えを、禁書なしで推理する。
遠回りだ。
でも、このゲームは遠回りが最短になりがちだ。
入学式でいきなり詰むゲームだからな。
信用してはいけない。
◆
五歳になる少し前、俺は初めて父の書斎に入ることを許された。
もちろん、自由に本を読めるわけではない。
父がいる時だけ。
触っていい本だけ。
左手には手袋。
条件つき入室である。
それでも、俺は内心で震えた。
本棚。
紙。
インク。
革表紙。
古い王国地図。
情報の山。
前世の俺ならスマホで検索していた。
今は、目の前の本棚がインターネットである。
回線速度は最悪。
検索窓もない。
だが、情報はある。
父は小さな本を一冊、俺に渡した。
『王国初等地理』
地理。
俺は思わず本を抱きしめそうになった。
北方。
東港。
南穀倉地帯。
西方荒野。
王都。
灰かぶり山。
ゲームの出生エリアで見た名前が、地図の上に並んでいる。
ここで、俺は改めて理解した。
この世界は、画面の中の背景ではない。
地続きだ。
山があり、川があり、街道があり、人が住んでいる。
ゲームでは行けなかった場所にも、たぶん誰かがいる。
イベントがない場所にも、生活がある。
なら、原作にないルートも、きっと作れる。
父が俺を見て言った。
「地図が好きか」
俺は本音を飲み込んで、子どもらしく答えた。
「うん。とおく、いきたい」
父は少しだけ困った顔をした。
「遠くへ行くには、まず足元を知らねばならない」
いいことを言う。
その通りだ。
俺はまだ、ヴェイル家の屋敷の外にもほとんど出られない。
でも、文字が読める。
地図が読める。
左手を隠す習慣もできてきた。
赤ん坊期の「聞く」は終わった。
幼児期の「動く」も始まった。
そして今、ようやく「読む」が始まる。
王都高等学院入学まで、あと十一年。
長い。
普通に長い。
でも、ゲームでは飛ばされたこの時間こそ、俺の最大のアドバンテージだ。
攻略本のかわりに絵本。
攻略サイトのかわりに父の書斎。
セーブロードなし。
不便すぎる。
でも、やるしかない。
俺は『王国初等地理』の最初のページを開いた。
まずは地図から。
このクソゲーの盤面を、覚えるところから始めよう。




