第5話 言葉の重み
一歳を過ぎる頃、俺は少しだけ人間らしくなった。
首がすわった。
寝返りができた。
座れるようになった。
つかまり立ちも、まあ、できた。
人類、すごい。
赤ん坊から二足歩行に移行する過程、普通に大偉業である。
前世の俺は、歩けることに感謝したことなどなかった。
今なら分かる。
歩行はチート。
立てるだけで行動範囲が三倍くらいになる。
ただし、油断すると転ぶ。
めちゃくちゃ転ぶ。
王都下級貴族ヴェイル家の嫡男、エリアス・ヴェイル。
現在、絨毯の段差に敗北中。
未来の人柱候補にしては、足元が弱すぎる。
◆
この時期の最大目標は、言葉だった。
聞くことはできる。
意味もだいたい分かる。
問題は、喋れないことだ。
俺の頭の中では、かなり複雑なことを考えている。
たとえば、白燭教会の定期観察は、どこまで情報を上に流しているのか。
父の書斎に届く封書の紋章は、一般教会のものか、それとも別部署のものか。
左手の黒痣が聖印に反応する条件は、体調や睡眠で変わるのか。
だが、口から出るのは、
「ま」
である。
情報量が消し飛ぶ。
母はそれを聞いて、ぱっと顔を明るくした。
「まあ、エリアス。今、ママって言ったの?」
言ってない。
言いたいことはもっと別にある。
教会の検査日をずらした方がいいのでは、という話をしたい。
だが、俺は空気を読んだ。
「ま……ま」
母が泣いた。
勝った。
何に勝ったのかは分からないが、母の好感度は上がった。
現実で好感度という言葉を使うのはどうかと思うが、便利なので使う。
◆
父を呼ぶ言葉は、少し遅れた。
理由は単純で、「父上」が難しい。
発音が重い。
赤ん坊の口には、貴族語が厳しすぎる。
父はそれを気にしていないように見えた。
いや、気にしていないふりをしていた。
ある夜、父が俺の寝台のそばに立っていた。
母は別室で休んでいる。
部屋には燭台の火と、紙をめくる音だけがあった。
父は小さな声で言った。
「……お前は、私を怖がっているのか」
怖いか怖くないかで言うと、怖い。
顔が怖い。
声も硬い。
あと俺の左手を見る目が、いつも計算しているようで怖い。
でも、嫌いではない。
この人は、たぶん俺をどう扱えばいいのか分からないだけだ。
黒痣を持つ息子。
教会に記録された子。
家の名誉に関わる不安材料。
それでも父は、俺を教会施設に預けようとはしていない。
少なくとも今は。
俺は寝台の柵に手を伸ばした。
左手ではなく、右手。
父の袖を掴む。
父は目を見開いた。
俺は口を開いた。
「ち……ち」
父は固まった。
いや、違う。
俺としては「父上」と言いたかった。
だが赤ん坊の発音能力では、どう頑張っても「ちち」が限界だった。
父はしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ顔を背けた。
「……そうか」
声が少し震えていた。
この人、意外と効いている。
俺は学んだ。
言葉は武器である。
特に赤ん坊の「まま」と「ちち」は、貴族家庭において攻撃力が高い。
◆
言葉を覚えると、世界の解像度が上がった。
人名が分かる。
場所の名前が分かる。
日付の感覚が少しずつ掴める。
女中たちは、俺の前でよく噂話をした。
「奥様、最近お痩せになったわ」
「旦那様、また教会からのお手紙を隠していたみたい」
「エリアス様の左手、やっぱり見せない方がいいのかしら」
赤ん坊の頃より、会話の意味がはっきり分かる。
同時に、分かりすぎてしんどいことも増えた。
母は俺を愛している。
父は俺を守ろうとしている。
だが二人とも、俺の黒痣を恐れている。
教会は、俺を治療対象として見ていない。
観察対象として見ている。
ここまでは、以前掴んだ状況と同じだ。
ただ、今の俺は少しだけ違う。
泣くだけではない。
頷ける。
首を振れる。
言葉を選べる。
たとえば、左手に触られそうになった時。
泣くだけではなく、右手で手袋を掴む。
自分から差し出す。
すると大人たちは言う。
「まあ、エリアス様は手袋がお好きなのね」
好きではない。
必要だからだ。
でも、そう思われておけばいい。
赤ん坊時代の癖づけは、幼児期の性格になる。
幼児期の性格は、少年期の習慣になる。
少年期の習慣は、十六年後の聖印検査で俺を救う。
たぶん。
たぶん、というのが怖い。
攻略サイトなしの現実プレイ、精神に悪い。
◆
三歳になる頃、俺はだいぶ喋れるようになった。
もちろん、前世のようにすらすら話すわけにはいかない。
あまりにも大人びたことを言えば、別の意味で教会行きである。
だから、俺は子どもらしく振る舞う練習をした。
これが意外と難しい。
子どもらしい質問。
子どもらしい沈黙。
子どもらしい間違い。
全部、演技が必要だった。
たとえば父が歴史書を読んでいる時。
本当は聞きたい。
王国建国史のどの版か。
六聖女の記述は称号だけか。
灰月蝕について触れているか。
だが三歳児がそんな質問をしたら、即アウトだ。
だから俺は、表紙を指差して言う。
「これ、なに?」
父は答える。
「王国の歴史だ」
「れきし?」
「昔あったことを、忘れないように書いたものだ」
俺は内心で思った。
なるほど。
では、書かれていないことは、忘れさせるために消したものかもしれない。
口には出さない。
三歳児なので。
代わりに俺は、無邪気な顔で言った。
「よみたい」
父は少し驚いた。
それから、薄く笑った。
「まだ早い」
早くない。
むしろ遅い。
だが、焦るな。
まずは文字。
次に本。
そして、禁書ではなく、普通の本から矛盾を探す。
俺は心の中で次の目標を決めた。
言葉は覚えた。
次は、文字だ。
世界を救う前に、まず読み書き。
本当に教育熱心な救世主である。




