第4話 最初の装備は手袋です
現実だと認めてから、俺の目標はひとつ増えた。
情報を聞く。
状況を覚える。
そして、できれば動く。
問題は、俺が赤ん坊だということだった。
動く、と言っても、剣を振るとか、魔術を撃つとか、そういう格好いい話ではない。
首を右に向ける。
手を握る。
布を掴む。
泣くタイミングを選ぶ。
世界を救う以前に、まず自分の右手と左手が別々の存在だと理解するところから始まる。
ハードモードすぎるだろ。
赤ん坊操作、チュートリアルが長い。
ただ、少しずつ分かってきたこともある。
俺の左手の黒痣は、家の中ではかなり慎重に扱われている。
母マリアンヌは、俺の左手を見ても抱きしめてくれる。
父レオンは、左手を見せるなと何度も言う。
家付き司祭マティアスは、定期観察という名目で俺を見に来る。
第3話で分かったのは、この家と教会が俺をどう見ているか。
第4話で俺がやるべきなのは、その視線の中でどう振る舞うかだ。
つまり、赤ん坊なりの攻略行動である。
なお、現時点での俺の攻略コマンドは「泣く」「寝る」「手を動かす」くらいしかない。
少ない。
でも、ゼロではない。
◆
最初に試したのは、左手を隠すことだった。
俺の左手には、蛇にも染みにも見える黒い痣がある。
この時点ではまだ、黒蛇紋として起動していない。
ただの不吉な痣。
ただし、俺だけは知っている。
十六年後、王立高等学院の入学式。
聖印検査でこいつが反応した瞬間、俺は教会監視ルートに突入する。
なので、今から左手を隠す習慣を作る。
赤ん坊の俺が何をするか。
まず、左手を胸元に引き寄せる。
布を掴む。
手を開かれそうになったら泣く。
地味。
めちゃくちゃ地味。
でも、これを続ければ、大人たちはこう思う。
この子は左手を触られるのが嫌いなのだ、と。
それでいい。
将来、手袋をつけても不自然ではない子どもになる。
左手を隠しても「いつものこと」と流される。
世界救済の第一歩が、赤ん坊の癖づけ。
本当に絵面が弱い。
◆
ある日の午後、母が俺の左手を取った。
母の指は細くて、少し冷たかった。
彼女は俺の黒痣を見つめて、小さく息を吸った。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、怖がった。
その顔を見るたびに、俺は少しだけ胸が痛くなる。
いや、俺は中身だけなら前世込みで大人だ。
母が怖がるのも分かる。
自分の赤ん坊に変な黒い痣があったら、普通に怖い。
でも、赤ん坊の身体は理屈を聞いてくれない。
母のわずかな怯えを、ちゃんと痛みとして受け取ってしまう。
面倒くさい。
人間の心、ステータス画面で管理させてほしい。
母はすぐに俺の手を包み込んだ。
「ごめんなさい、エリアス」
謝らなくていい。
怖いよな。分かる。
そう言いたかった。
だが口から出たのは、
「あう」
だけだった。
赤ん坊語、感情の解像度が低すぎる。
俺は代わりに、母の指を握った。
右手で。
左手ではなく、右手。
左手は胸元に隠したまま。
母は少し驚いて、それから泣きそうに笑った。
「……優しい子ね」
違う。
攻略行動です。
とは言えなかった。
◆
父レオンが俺に最初の手袋を用意したのは、それからしばらく後だった。
小さな、小さな布の手袋。
白ではなく、薄い灰色。
赤ん坊用なので、実用性はほぼない。
ただ、左手の黒痣を隠すには十分だった。
父は母に言った。
「今のうちに慣れさせる」
母は少しだけ顔を曇らせた。
「まだ、こんなに小さいのに」
「小さいうちだからだ」
父の声は硬い。
けれど、俺を嫌っている声ではなかった。
この人はたぶん、不器用だ。
息子を守りたいのか、家を守りたいのか、自分でも分かっていない。
いや、両方なのだろう。
俺は差し出された手袋を見た。
剣ではない。
魔術書でもない。
伝説の神器でもない。
俺の最初の装備は、手袋だった。
地味。
地味すぎる。
でも、分かっている。
このゲームは、こういう地味な装備を軽視した瞬間に詰む。
俺は泣かなかった。
むしろ左手を差し出すように動かした。
父がわずかに目を細める。
「……嫌がらないのか」
嫌がるわけがない。
これは初期装備だ。
しかも十六年後の即死イベントを回避するための必須装備である。
俺は手袋をはめられながら、内心で頷いた。
世界を救う前に、まず左手を隠す。
主人公の初期装備が手袋。
やっぱりこのゲーム、地味なところで難易度が高い。




