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第3話 赤ん坊はメモが取れない

 現実だと認めた翌日、俺はまず作戦を立てることにした。


 いや、正確には、立てようとした。

 だが、ここで重大な問題が発生した。


 俺は赤ん坊だった。


 作戦会議を開けない。

 紙に書けない。

 壁に相関図も貼れない。

 攻略サイトも見られない。

 というか、そもそも首がすわっていない。


 世界を救う以前に、俺の頭部が自力で世界に耐えられていなかった。


 難易度調整、おかしいだろ。

 ただ、何もできないわけではない。


 目はぼんやり見える。

 耳はそこそこ聞こえる。

 記憶もある。

 そして、泣けば誰かが来る。


 つまり、今の俺にできる攻略行動は、聞く、見る、泣く、寝る。


 少ない。

 少なすぎる。

 だが、初期ステータス赤ん坊としては妥当なのかもしれない。


 俺は心の中で、第一目標を決めた。


 まずは情報収集。

 この家の状況。両親の性格。教会の関与。左手の黒痣くろあざがどこまで知られているのか。

 このあたりを把握しないと、十六年後の王立高等学院入学式で詰む。


 ゲームならプロローグ数行で済むところを、現実では地道にやるしかない。

 赤ん坊の諜報ちょうほう活動、開幕である。



     ◆



 最初に覚えた名前は、母の名前だった。


「奥様、マリアンヌ様。少しお休みになってください」


 若い女中がそう言った。

 マリアンヌ。

 母の名前だ。


 マリアンヌ・ヴェイル。


 ゲーム本編では、ほとんど触れられなかった人だ。設定資料集の家系図に、たしか小さく名前が載っていた気がする。

 俺を抱いている腕は細い。だが、抱き方は慎重だった。

 マリアンヌは、よく俺に話しかけた。


「エリアス、今日はよく眠ったわね」


「寒くない?」


「大丈夫よ。お母様はここにいるわ」


 母親というものはすごい。

 赤ん坊相手に、返事がないのに会話を成立させてくる。

 俺は内心で「大丈夫です、むしろ状況が大丈夫じゃないです」と返していたが、口から出るのは、


「あう」


 だった。


 弱い。

 会話力ゼロ。


 前世で攻略掲示板に長文考察を書き込んでいた俺は、いま母親に「あう」しか返せない存在になっている。


 人間、落ちるところまで落ちると発音が母音になる。

 ただ、マリアンヌはそんな俺を見て、少し笑った。


「ええ、そうね。分かっているわ」


 いや、分かってないと思う。

 でも、分かろうとしてくれている。


 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 そして同時に、少しだけ怖くなった。


 この人を、俺のせいで不幸にするかもしれない。


 いや、違う。


 俺のせいじゃない。

 この痣のせいでもない。

 王国だか教会だか、まだよく見えない何かのせいだ。


 そう理屈では思う。


 だが赤ん坊の身体は、理屈より先に、母の腕の震えを覚えてしまう。

 マリアンヌは、俺の左手を見るときだけ、ほんの少し息を止める。


 毎回ではない。

 でも、たまにある。


 そのたび、俺の中に小さな針が刺さる。

 このゲーム、家庭内描写まで地味に痛い。



     ◆



 父の名前を覚えたのは、その少し後だった。


「レオン様、王都教会から返書が届いております」


 老執事らしき男が、書斎でそう言った。

 俺はその場にいた。

 正確には、母に抱かれていた。


 赤ん坊は移動権を持たない。運搬される存在である。

 だが、運搬されるおかげで、意外と大人の会話を聞ける。

 これは赤ん坊転生の数少ない利点だった。


 父、レオン・ヴェイルは、手紙の封を切った。


 痩せた男だった。

 神経質そうな顔。きっちり整えられた髪。いかにも下級貴族の当主という感じの、堅い空気。

 ゲームの印象では、主人公エリアスの父親は冷たい人間だった。


 左手に痣を持つ息子を隠す。人前に出したがらない。教会の言いなり。

 プレイヤー時代の俺は、正直あまり好きではなかった。

 だが、現実に見るレオンは、少し違った。


 冷たいというより、いつも何かを計算しているように見える。

 怖がっている。焦っている。だが、それを表に出さないようにしている。

 父は手紙を黙読し、眉間にしわを寄せた。


 母が小さく尋ねる。


「何と?」


 父は少し間を置いてから答えた。


霊性過敏れいせいかびんの疑い。定期観察。左手の露出は避けること。家外の者に不用意に見せぬこと」


 はい出た。

 定期観察。

 その言葉、前世でも会社の健康診断以外では聞きたくなかった。


 母の顔が曇る。


「それは……この子が危険だということですか」


「教会は、そうは書いていない」


「では、治るのですか」


「それも書いていない」


 父の声は硬かった。

 母は俺を抱く腕に力を込める。

 俺は内心でうなった。


 これは、あれだ。


 病名がつかないのに経過観察だけされるやつ。

 現代日本でも不安になるのに、ここはファンタジー教会社会である。

 不安の上限が高すぎる。


 父は手紙を机に置き、低く言った。


「マリアンヌ。この子の左手は、今後、屋敷の外では必ず隠す」


「……はい」


「使用人にも詳しいことは言わない。産婆には口止めする。マティアス司祭への対応は私がする」


 マティアス。

 司祭の名前だ。

 前に来た白い法衣の男。


 家付き司祭マティアス。


 名前ゲット。


 攻略メモに書きたい。

 書けない。

 赤ん坊はメモが取れない。


 この不便さ、誰かパッチで直してほしい。

 父は俺の方を見た。

 目が合った。

 いや、赤ん坊の視力なので本当に合ったかは怪しい。


 だが、父は確かに俺を見ていた。


「エリアス」


 初めて父に名前を呼ばれた。

 その声には、愛情らしきものは少なかった。

 けれど、嫌悪でもなかった。


 むしろ、責任に近い。


「お前は、目立つな」


 生後何日かの息子に言う台詞ではない。

 だが、この世界ではたぶん正しい。

 俺は泣いた。


 泣きたかったわけではない。身体が勝手に泣いた。

 父は少しだけ困った顔をした。

 母が俺を揺らしながら言う。


「大丈夫よ。エリアス。大丈夫」


 たぶん、大丈夫ではない。

 でも、この家の大人たちも、それを分かった上で大丈夫と言っている。

 俺はそこで、父を単純な敵にするのをやめた。


 好きにはなれない。

 でも、悪役ではない。

 この世界、そういう面倒な人間が多そうだった。


     ◆


 次に俺が始めたのは、身体の検証だった。

 検証と言っても、赤ん坊なので、内容はかなり地味である。

 指を動かす。


 動かない。

 いや、たまに動く。


 ただし、俺の意思というより、魚が跳ねるみたいに動く。

 手を握る。

 握れない。


 たまに握る。

 でも、自分で握ったのか、反射なのか分からない。


 声を出す。


「あう」


 またお前か。


 泣く。

 これは出る。

 強い。


 赤ん坊の泣き声は、この世界で唯一まともに使えるアクティブスキルだった。

 ただし、発動条件が曖昧で、使用者本人にも制御しきれない。


 クールタイムも不明。

 燃費は悪い。

 そして使うと大人が来る。


 俺は数日かけて、泣き声の効果範囲をなんとなく把握した。

 短く泣くと、女中が来る。

 長く泣くと、母が来る。


 夜中に泣くと、全員が疲れる。

 父の前で泣くと、父が固まる。

 最後のやつは、ちょっと面白かった。


 ただ、泣き声で情報操作は難しい。


 たとえば、俺が父と母の会話をもっと聞きたいと思って泣いても、普通に別室へ連れて行かれることがある。


 当然だ。

 赤ん坊が泣いたからといって、「この子は情報収集したがっているのね」とはならない。

 なったら怖い。


 だから、俺の赤ん坊諜報は基本的に受け身だった。


 運ばれる。

 聞く。

 寝落ちする。


 起きたら話が終わっている。

 これが一番つらい。


 大事そうな話の途中で意識が落ちる。

 前世で言えば、イベントムービー中に強制スリープが入るようなものだ。

 しかも巻き戻せない。


 俺は何度も心の中で叫んだ。

 今の話、もう一回!

 誰にも届かなかった。



     ◆



 ある日の午後、マティアス司祭が再び来た。


 白い法衣。

 細い指。

 穏やかな声。


 やっぱり悪人には見えない。

 むしろ、近所にいたら普通に信頼されそうなタイプだ。

 それが厄介だった。


「王都教会からの指示は、定期的な観察と祈祷です」


 マティアスは父にそう説明した。


「痣そのものに強い魔性ましょうは認められません。ただし、成長に伴い変化する可能性があります」


 変化します。

 十六年後に入学式でやらかします。

 俺は心の中で補足した。


 マティアスは俺の左手に触れようとした。

 その瞬間、左手の痣が少しだけ熱を持った。


 ほんの少し。

 大人たちは気づいていない。

 でも俺には分かった。


 これ、反応してる。


 まだ黒蛇紋こくじゃもんとして起動してはいない。

 ただ、司祭の祈祷か、聖印せいいんか、何かに痣が反応している。


 まずい。

 俺は反射的に泣いた。

 全力で泣いた。


 マティアスの手が止まる。

 母が慌てて俺を抱き直す。


「すみません、この子、今日は少し機嫌が」


「いえ。赤子とはそういうものです」


 マティアスは穏やかに笑った。

 セーフ。

 いや、たぶんセーフ。


 痣の熱はすぐに引いた。

 俺は泣きながら考えた。


 なるほど。

 泣くの、使える。

 痣が反応しそうな時に泣けば、検査を中断できるかもしれない。

 赤ん坊スキル、意外と有能。


 ただし、十六年後の聖印検査せいいんけんさで泣いて中断するのは無理だ。

 十六歳男子が入学式で全力泣きしたら、別の意味で詰む。


 今のうちに、泣く以外の抑え方を覚える必要がある。


 呼吸。

 魔力。

 感情。


 たぶん、このへんが鍵だ。

 まだ何もできない。

 でも、最初の観察結果は得た。


 左手の黒痣は、教会の祈りに反応する。

 メモしたい。

 できない。


 赤ん坊はメモが取れない。



     ◆



 夜。

 母が子守歌を歌っていた。


 灰かぶりの夜に、灯をともす歌。


 俺は、その旋律を知っている。

 ゲーム本編では、終盤のイベントで流れる曲だった。きれいな曲だと思っていた。


 でも、母が歌うと、少し違った。


 音程は揺れる。

 途中で歌詞を間違える。

 最後の伸ばし方も、ゲームのBGMほど美しくない。


 だが、その分だけ本物だった。

 この歌は、サウンドトラックのためにあるんじゃない。

 子どもを眠らせるためにある。


 灰かぶりの夜に迷わないように、灯を忘れないためにある。

 俺は、そのことに少しだけ驚いた。


 ゲームの中では、背景設定だったもの。

 設定資料集の民俗歌謡欄に載っていたもの。

 それが今、母の口から下手な子守歌として流れている。


 この世界は、イベントだけでできていない。

 人が、普通に暮らしている。

 赤ん坊の俺は、その普通の暮らしの中に放り込まれている。


 だからこそ、失敗できない。

 ゲームで村が滅ぶのは、画面の向こうのイベントだった。


 だがこの世界で村が滅ぶなら、そこには母みたいに歌う人がいて、父みたいに黙って手紙を読む人がいて、名前も知らない女中や執事がいる。


 そして俺は、その人たちを「イベント被害者」として片づけられない。

 重い。

 急に重い。


 まだ首もすわっていないのに、背負うものだけ重すぎる。


 バランスがおかしい。

 俺は泣きそうになった。

 いや、実際に泣いた。


 母が慌てて俺を抱き直す。


「どうしたの、エリアス。怖い夢でも見た?」


 夢ならよかった。

 俺はそう思った。

 けれど、もう認めるしかない。


 これは夢じゃない。

 俺は本当に、『灰かぶりのエリアス』の世界で、エリアスとして生まれている。

 原作で飛ばされた十六年間を、これから生きる。


 だったら、やることは決まっている。


 情報を集める。

 身体を育てる。

 痣を隠す。

 教会の検査をやり過ごす。


 将来出会うはずの人間たちと、ゲームにはなかった関係を作る。


 そして、あの破滅エンドを全部壊す。


 ただし、今日のところは無理だ。

 俺は赤ん坊である。

 まずは寝る。

 寝て、育つ。


 世界を救うには、首をすわらせるところから。


 この一文だけ見ると、だいぶ頭がおかしい。

 でも仕方ない。

 これが俺の、最初の攻略方針だった。



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