第2話 夢にしてはおむつがリアルすぎる
夢だと思っていた。
いや、普通そう思うだろう。
深夜まで『灰かぶりのエリアス』をやって、攻略サイトと設定資料集を机に広げたまま寝落ちした。そこから、ゲームの主人公エリアスの赤ん坊時代に入り込む夢を見た。
流れとしては、まあ、分かる。
ゲームをやりすぎた時に、夢の中でもまだ同じゲームをしていることはある。テトリスをやった夜にブロックが降ってくる、あれの豪華版だ。
問題は、夢にしてはやたら長いことだった。
俺は寝た。
赤ん坊なので、寝る以外にやることがなかった。
そして目を覚ました。
日本の自室ではなかった。
白い天蓋。金糸の刺繍。重そうなカーテン。遠くで鳴る馬車の音。知らない女の人の声。
そして、俺の口から出る謎の泣き声。
「……あ、あぶ」
喋れない。
何度試しても喋れない。
俺の発音能力は、完全に赤ん坊だった。
いや、夢だからだ。夢だから喋れないだけだ。そういう夢、ある。走ろうとしてもうまく走れない夢みたいなものだ。
そう思って、もう一度寝た。
起きた。
まだ赤ん坊だった。
もう一度寝た。
起きた。
まだ赤ん坊だった。
何回寝ても、赤ん坊だった。
おかしい。
夢なら、そろそろ場面転換くらいあっていい。学校の教室にいたと思ったら急にプールになったり、なぜか昔の友達が出てきたり、そういう雑な展開があっていい。
なのに、この夢は妙に律儀だった。
朝になる。誰かに抱かれる。乳を飲まされる。寝る。泣く。布を替えられる。寝る。夜になる。灯が落とされる。また寝る。
赤ん坊生活の反復。
ゲーム的に言えば、進行不能バグである。
しかも、やたらリアルだった。
腹が減る。
眠い。
寒い。
眩しい。
泣きたくないのに泣く。
泣いたら大人が来る。
来なかったらさらに泣く。
自分の意思とは別に身体が全力で赤ん坊をしている。
正直、精神的にきつい。
俺は一応、中身は日本でゲームをやり込んでいた男である。公式設定資料集を鈍器みたいな厚さまで読み込んで、攻略不能サブキャラの台詞差分までメモっていた男である。
その俺が今、泣くしかできない。
尊厳というものが、まだ首のすわっていない身体に入っていると、かなり邪魔だと知った。
◆
左手の痣は、ずっとそこにあった。
黒い痣。
蛇に見えるような、ただの染みにも見えるような、嫌な形。
俺は知っている。
この痣は、王立高等学院の入学式で行われる聖印検査に反応する。反応すると、ただの痣ではなく、黒い蛇が月を喰う紋様として浮かび上がる。
原作では、そこで教会監視ルートに入る。
つまり、将来爆発する爆弾みたいなものだ。
ただ、今の時点では本当にただの痣にしか見えないらしい。
大人たちの反応も、恐怖半分、困惑半分だった。
父らしき男は、俺の左手を見るたびに眉間にしわを寄せた。
母らしき女は、俺を抱く腕に力を込めた。優しい。優しいが、左手を見ると一瞬だけ息を止める。
あれは地味に刺さる。
理屈では分かる。
自分の子どもの手に黒い変な痣があったら、そりゃ怖い。しかもここは中世風ファンタジー王都である。病院ではなく教会が出てくる世界である。
怖くない方がおかしい。
でも、赤ん坊の身体は理屈にあまり強くない。
抱きしめられて安心した直後に、左手を見られて怯えられる。
これを何度か食らうと、心の中の何かが、じわっと冷える。
俺は夢の中でまで家庭環境デバフを食らっているのか。
このゲーム、本当に容赦がない。
◆
何日目かは分からない。
赤ん坊なので日付管理ができない。
いや、できないというより、寝落ちが多すぎて時間感覚が細切れになる。プレイ時間が勝手にスキップされるタイプのゲームみたいだ。
その日、部屋に白い法衣の男が来た。
司祭だ。
たぶん、家付き司祭。
名前はまだ分からない。ゲームの設定資料集にそれっぽい人物はいた気がするが、赤ん坊の耳で聞き取れる情報には限界がある。
司祭は俺の左手を見た。
俺は内心で固まった。
やばい。
ここで「これは黒蛇紋です」とか言われたら終わる。
ただし、設定上、この段階ではまだ黒蛇紋として起動していないはずだ。分かる人間が見ても、せいぜい霊障っぽい痣。
頼む。
ただの変な痣扱いで通してくれ。
司祭はしばらく見て、低く言った。
「……古い霊障の痕かもしれません」
セーフ。
いや、全然セーフではない。
でも即死ではない。
父が尋ねる。
「この子は、異端なのか」
声が硬かった。
母が俺を抱く腕に力を込める。
やめろ。
赤ん坊の前で異端とか言うな。情操教育に悪い。
司祭は首を横に振った。
「ただちにそう判断するものではありません。王都教会へ照会しましょう。定期的な観察が必要です」
定期的な観察。
嫌な言葉だ。
ゲームでも現実でも、観察される側になって嬉しいことはあまりない。
父は黙って頷いた。
母は俺の頬に触れた。
「大丈夫よ、エリアス」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が変な感じになった。
エリアス。
やっぱり、俺はエリアスなのか。
ゲームの主人公。将来、人柱候補。ヒロイン全員死亡済みのクソ仕様を背負わされた男。
いや、待て。
まだ夢だ。
名前が一致したくらいで慌てるな。
夢というものは、知っている設定を勝手に使う。むしろ一致するのが普通だ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
ただ、母の声があまりにも温かかった。
司祭の手が、あまりにも冷たかった。
父の沈黙が、あまりにも重かった。
夢にしては、情報量が肌に来る。
◆
さらに何度か寝て、起きた。
まだ赤ん坊だった。
さすがに焦ってきた。
俺は現実世界で寝落ちしたはずだ。自室の机には、攻略メモと設定資料集が広がっていたはずだ。明日、いや、もう今日かもしれないが、普通に予定もあったはずだ。
それなのに戻れない。
夢なら長すぎる。
それに、夢の中でこんなに何度も空腹になるだろうか。
夢の中でこんなに何度も布を替えられるだろうか。
夢の中で、こんなに首が重いだろうか。
俺は何度か、これは明晰夢だと思って操作しようとした。
手を握れ。
握れない。
起き上がれ。
無理。
声を出せ。
「あう」
弱い。
魔術を使え。
使い方が分からない。
ログアウトしろ。
どこから?
詰んでいる。
いや、赤ん坊だから詰んでいるのは当たり前かもしれないが、精神的にはかなり詰んでいる。
その夜、俺は母に抱かれながら、窓の外を見た。
ぼやけた視界の向こうに、灰色の月があった。
完全な灰色ではない。
普通の月だ。
でも雲に薄く隠れて、どこか灰をかぶっているように見えた。
その瞬間、前世で読んだ設定資料集の一文を思い出した。
百年に一度、月が灰に染まる夜を、白燭教会は灰月蝕と呼ぶ。
灰月蝕。
ゲームのラストに近づくほど、画面の月が少しずつ灰色になっていく演出があった。
あれは格好よかった。
格好よかったが、来たらだいたい終わりだった。
今見えている月は、ただ雲に隠れているだけだ。
でも俺は、ぞっとした。
これは夢じゃないのではないか。
そう思った瞬間、母が小さく子守歌を口ずさんだ。
知らない歌だった。
いや、違う。
知っている。
設定資料集の民俗歌謡欄に載っていた。
王都の古い子守歌。
灰かぶりの夜に、子どもが迷わないよう灯をともす歌。
ゲーム本編では、中央ルートの終盤で一度だけ流れる。
俺は、その旋律を覚えていた。
母の歌は、ゲームのBGMより少し下手だった。
息継ぎも雑で、途中で音程も揺れた。
でも、その分だけ、生々しかった。
ああ。
これ、夢じゃないかもしれない。
俺はようやく、そう思った。
いや、認めたくはない。
認めたくはないが、そろそろ逃げ道がない。
俺はゲームの世界にいる。
それも、本編開始前の十六年間。
原作では三行で流された、赤ん坊のエリアスとして。
攻略サイトはない。
設定資料集もない。
セーブロードもない。
あるのは、前世の記憶と、赤ん坊の身体と、左手の黒い痣だけ。
最悪だ。
でも、ほんの少しだけ、別の考えも浮かんだ。
もしこれが現実なら。
もし本当に、俺がゲームで飛ばされた十六年間を生きられるなら。
王立高等学院の入学式までに、あの聖印検査をどうにかできるかもしれない。
図書館の禁書トラップを避ける知識も積めるかもしれない。
お茶会で失言しない礼法も覚えられるかもしれない。
野外実習で靴擦れして死ぬ前に、足腰を鍛えられるかもしれない。
ゲームでは攻略不能だった生きている連中とも、早くから関係を作れるかもしれない。
いや。
気が早い。
今の俺は、自分の首もまともに支えられない。
世界を救う以前に、まず首をすわらせるところからだ。
難易度調整おかしいだろ。
俺は泣き疲れて、母の腕の中で目を閉じた。
次に目を開けても、きっとまだこの世界だ。
そう思うと、怖かった。
けれど同時に、ほんの少しだけ、腹が立った。
全ルート破滅?
主人公自己犠牲?
ヒロイン全員死亡済み?
だったら、せめて準備くらいさせろ。
十六年あるなら、やってやる。
まずは、寝る。
赤ん坊は寝ないと死ぬ。
破滅エンド回避の第一歩が睡眠なの、やっぱりこのゲームはどこかおかしい。




