第3話 真似る者
次の小競り合いは、三日後に来た。
包囲戦というものは、退屈と騒乱が、前触れもなく入れ替わる。昨日まで城壁の上から悪口しか飛んでこなかったくせに、今日は急に敵が門外へ出てきて畑を焼き返し、井戸の周りで石を投げ、こちらの見張り線を試してくる。
アテナイ側の陣営は朝からばたついた。
盾を持て、槍を出せ、遅い、寝ていたのか、いや見張り明けです、知るか、走れ。
いつものことである。
アルキビアデスは、今日はやけに機嫌がよかった。
正確には、機嫌がよいというより、胸の奥が妙に澄んでいた。
やることが決まっているからだ。
前に出る。
今度は救われる側ではなく、自分が主導する。
しかもただ突っ込むのではない。考えがある。技がある。あの男のやり方を見た。問えばいいのだ。相手の足を止めればいい。
たったそれだけのことではないか。
「顔がいいだけでなく、今日は機嫌もいいな」
横から声がした。
ソクラテスである。
相変わらず、ひどい顔だった。戦支度をしている時だけは多少ましに見えるかと思ったが、そんなことはなかった。兜を抱えて立っていても、潰れた鼻は潰れたままだし、目は少し出ているし、どう見ても英雄の顔ではない。
なのに、落ち着いている。
「今日は勝つからだ」
アルキビアデスは上機嫌で答えた。
「ほう。昨日までは勝たなかったのか」
「いちいち鼻につくな、貴様は」
「鼻は昔からこうだ」
「そういう意味ではない」
近くの兵が吹き出した。
別の兵が言う。
「でも旦那、今日は本当に調子よさそうですよ」
「見ればわかる」
「では一つ賢くなりましたね」
兵たちが笑い、アルキビアデスは舌打ちした。
よくない。完全に陣営の遊びになっている。しかも出どころは目の前の裸足男だ。
「ソクラテス」
「何だ?」
「今日は私が前に出る」
「そうだろうな」
「止めぬのか」
「止めてやめる君なら、前回も突出していない」
まったく腹立たしいほど話が早い。
アルキビアデスは槍の柄を握り直した。
「見ていろ」
「見ていよう」
「そして驚け」
「それは君の働き次第だ」
角笛が鳴った。
前線から声が飛ぶ。敵影あり。軽装兵多数。重装歩兵も混じる。井戸の南。
アルキビアデスは兜をかぶり、盾を取った。
乾いた朝の空気が、鼻の奥へ鋭く入る。砂埃。汗。油。革。包囲戦の匂いだ。
彼は歩き出し、やがて駆けた。
自分の後ろに何人ついてきているのか、正確には見ていない。見る必要もない気がした。今日は前だけ見ればいい。前へ出ることと前が見えていることは違う、とソクラテスは言った。なら見てやろうではないか。今日は見えている。
たぶん。
井戸の周りでは、すでに小競り合いが始まっていた。
敵の軽装兵が石を投げ、こちらの兵が罵声とともに盾を構え、両側から槍が牽制し合う。乾いた地面に足が滑り、倒れた兵の上を誰かが飛び越え、遠くでは城壁上の見物人がやたら楽しそうに騒いでいる。
戦というより、ひどく騒がしい市場の喧嘩だ。
だが、その喧噪の中に一人、目立つ敵がいた。
髭を編み込んだボイオティア兵。青銅の胸当て。丸盾。こちらを見て笑っている。いかにも殴り合いが好きそうな顔だった。
ちょうどよい。
アルキビアデスは前へ出た。
「おい!」
敵兵がこちらを見た。
周囲の動きが、少しだけ遅く見えた。いける。ここでやる。問うのだ。相手の足を止める。そうすれば、あとは槍が届く。
「勇気とは何だと思う!?」
アルキビアデスは叫んだ。
一瞬、場が止まった。
よし、と思った次の瞬間。
「何だと!」
敵兵は止まらなかった。
むしろ喜んだ。
「ふはは!面白い小僧だ!」
そう怒鳴るや、盾を前にして一気に踏み込んでくる。
速い。
いや、速いのではない。こちらが期待していた一拍が、なかったのだ。
アルキビアデスは槍を出した。だが半歩遅れた。相手はすでに盾を叩きつけてくる。肩に衝撃。息が詰まる。つづいて横から別の軽装兵が石を投げた。兜に当たる。視界がぶれる。
「くそっ」
勇気とは何か。
問いは投げた。
だが相手は考え込まなかった。考えるどころか、楽しそうに殴りかかってきた。
アルキビアデスは二歩下がり、盾を立て直し、もう一度槍を出す。今度はかすった。敵兵の腕に血が走る。
だが浅い。
「それが勇気の答えか!」
敵兵が笑う。
うるさい。
その笑顔が、自分の失敗を見抜かれたようで腹立たしかった。
アルキビアデスは踏み込み返した。今度は力で押す。美しく勝てぬなら、せめて押し切る。だが焦りは槍の穂先を鈍らせる。敵兵の盾が上がる。別の敵の短槍が脇を狙う。さらに横から足元へ石。
まずい。
そう思った瞬間、肩ではなく太腿に鈍い痛みが走った。
誰かの槍尻だ。
膝が揺れる。
視界の端で、敵が三人に増えていた。いや、もとから三人いたのだ。自分が一人しか見ていなかっただけだ。
前に出ることと、前が見えていることは違う。
ソクラテスの声が、やけに鮮明に蘇った。
今それを思い出してどうなる。
次の一撃が来る。
アルキビアデスは歯を食いしばり、盾を上げた。間に合わない。棍棒が振り下ろされる。視界が狭まる。
そこで、その棍棒は横から弾かれた。
ごつん、と鈍い音。
あの、円い青銅の大盾。
見慣れた、いや見たくもないその影が、視界の横に入る。
「学びは早いが、早すぎるな」
ソクラテスだった。
「遅い!」
アルキビアデスは叫んだ。
「君は助かったのだから、少なくとも遅すぎはしない」
そう言いながら、ソクラテスの槍が走る。
短い。低い。無駄がない。
さっきまで笑っていた敵兵の腿を裂き、踏み込みを止め、返す一手で喉元へ穂先を突きつける。敵兵は慌てて下がった。
さらに横から来た軽装兵の手首を、盾の縁で打つ。石が落ちる。軽装兵が悲鳴を上げる。そこへアルキビアデスの後ろにいた兵が飛び込み、尻を蹴って転ばせた。
「今のは私でもできる!」
アルキビアデスが言うと、ソクラテスは平然と答えた。
「では次は頼む」
頼まれても困る。
敵はもう一度前へ出ようとしている。ソクラテスは半歩前へ。アルキビアデスは無意識に半歩後ろへ。
その事実が、アルキビアデスをさらに苛立たせた。
まただ。
また自分は救われる側に回っている。
「下がるぞ」
ソクラテスが言う。
「まだやれる!」
「君はそう思っているが、脚は別のことを思っているようだ」
言われて初めて、アルキビアデスは左脚に熱が広がっているのに気づいた。太腿の革当てのあたりが裂け、血がにじんでいる。
痛みはあとから来た。
「大したことでは……」
「ある」
ソクラテスは即答した。
「君が大したことないと思い始めた時、たいてい大したことになる」
その間にも、敵がまた押してくる。
二人は後退した。逃げるのではない。面を作り、一歩ずつ引く。ソクラテスの動きに合わせると、不思議と乱れない。合わせているのが少し癪だが、乱れるよりはよい。
殺されるより、ずっと良い。
追ってきた敵兵の一人が何か叫んだ。
「さっきの問いの続きはどうした!?」
アルキビアデスは思わず怒鳴り返した。
「うるさい!」
「答えられんのか!」
「貴様がまず止まれ!」
「止まるか!」
完全にその通りだった。
横でソクラテスが小さく言う。
「よい返答だ。失敗しているが」
「今それを言うか!」
「今だからだ」
味方の線が見えた。後ろからアテナイ兵が駆け出てくる。敵はそれ以上深追いせず、罵声を飛ばしながら下がった。
アルキビアデスはようやく息を吐いた。
脚が痛い。肩もまだ痛い。腹も立つ。しかも今回は、前回より質の悪い腹立ちだ。
前回は敵にやられた。
今回は、自分が失敗した。自分で自分の失敗がわかってしまった。
それが悔しい。
「座れ」
ソクラテスが言った。
「命令するな」
「では勧める。座れ」
アルキビアデスは顔をしかめながらも、その場の石に腰を下ろした。すぐ衛生兵が来て、傷を見て顔をしかめる。
「浅いが汚れてますね」
「それは見ればわかる」
「では一つ賢く……」
「お前もか!」
衛生兵は肩をすくめ、傷口を洗った。
冷たい水が触れた瞬間、アルキビアデスは歯を食いしばる。痛い。ひどく痛い。英雄譚はこのへんを実に雑に書く。たいていは一行で済ませる。実際にはもっと長く、じわじわ、情けなく痛い。
衛生兵が去ると、ソクラテスがその前に立った。
「何だ?」
アルキビアデスは不機嫌に言った。
「何が足りなかった?」
慰めもなしに、それを聞くのか。
アルキビアデスは一瞬、本気で石を投げつけたくなった。だが脚が痛いのでやめた。脚が痛くなくても、たぶん当たらない気がした。
「貴様」
「何だ?」
「なぜ止めなかった」
「止めた」
「足りん!」
「君は止められて止まる顔ではなかった」
ぐうの音も出ない言い方である。
アルキビアデスは顔を背けた。
「笑いたければ笑え」
「何を?」
「私の失敗をだ」
「失敗はよい」
ソクラテスは言った。
「答えにならぬ」
「では少し足す。失敗はよい。失敗したことを、うまく負けたと思い込むのが悪い」
アルキビアデスは眉をひそめた。
「うまく負けた?」
「君はいま、自分は挑んだ、試した、惜しかった、と思っているか」
思っていた。
正確には、思おうとしていた。
少なくとも、ただの無様ではない、と。挑戦ではあった、と。そういう言い訳を、胸のどこかで準備していた。
ソクラテスはそれを見ていたようだった。
「何が足りなかった?」
もう一度、ソクラテスが言った。
アルキビアデスはしばらく黙った。
周囲ではまだ前線のざわめきが残っている。遠くで誰かが勝手に武勲を盛って話し始め、別の誰かがそれは盛りすぎだと笑っている。
戦場は終わっても、騒がしさはすぐには終わらない。
「相手が……」
アルキビアデスは言いかけ、首を振った。
「違うな」
「ほう」
「相手が止まると思った。そこからもう間違っていた」
「なぜそう思った?」
「貴様がそうしたからだ」
「では、私と君は同じか」
「違う」
「どこが?」
またそれだ。
だが今回は、少し違った。腹立たしいのに、問いがまっすぐ胸に刺さる。
「私は」
アルキビアデスは言った。
「私は、問いそのものが技だと思っていた」
「それは半分だ」
「もう半分は何だ?」
「問う者だ」
ソクラテスは当たり前のように言った。
「相手は、問いに答えるのではない。問いかけた者に答えるのだ。相手はまず、誰に問われたかを見る」
アルキビアデスは黙った。
たしかに敵兵は、自分の問いを面白がったが、止まらなかった。考え込まなかった。挑発だと思ったのか、若造の見栄だと思ったのか、その両方か。
少なくとも、昼の傭兵長がソクラテスに向けたあの一拍とは、まったく違った。
「では私は、まだ使えないのか」
「今のままではな」
「教えろ」
「何を?」
「問う者になる方法をだ」
ソクラテスは少しだけ考えた。
その間が、やけに長く感じられた。
「止められねば学ばぬ問いもある」
ようやく彼はそう言った。
アルキビアデスは顔をしかめる。
「それは、さっき私を止めなかった言い訳か」
「半分は」
「残り半分は」
「本当だ」
アルキビアデスは、怒るべきか笑うべきかわからなくなった。
この男は、本当に腹立たしい。
だが、腹が立つだけで終わらない。言われたことが、胸の中に残る。
消えない。
「ソクラテス」
「何だ?」
「私はまたやるぞ」
「そうだろうな」
「今度はもっと上手くな」
「それもあるかもしれぬ」
「止めるなよ」
「君が止まる時は、たいてい誰に止められた時でもない」
アルキビアデスは、そこで少し笑ってしまった。
脚は痛いし、負けたし、また救われた。状況としては最悪に近い。なのに少し笑えるのが、自分でも癪だった。
「何だ、その顔は?」
「今の君は少し学んだ顔をしている」
「学んだ顔とは何だ」
「前より少し、安い答えで済ませたくなさそうな顔だ」
アルキビアデスは返事をしなかった。
できなかった。
図星だったからだ。
自分は負けた。しかも、ただ敵に負けたのではない。自分の浅さに負けた。技だけ真似て、問う者になる前に、問う形だけをなぞった。
それが悔しい。
そして悔しいままでは終われない。
ソクラテスが背を向けかけたところで、アルキビアデスは言った。
「おい」
「何だ?」
「なぜまた助けた?」
ソクラテスは振り返り、少し考えるような顔をした。
「君がまだ、死ぬには惜しいほど、うるさいからだ」
「前と同じだな」
「よい答えは、何度使ってもよい」
アルキビアデスは鼻で笑った。
それから脚の痛みをこらえつつ、ゆっくり立ち上がる。立てる。まだ立てる。
ソクラテスはその様子を見て、何も言わなかった。
だがアルキビアデスには、その沈黙が、昼のどんな言葉よりも重く感じられた。
また救われた。
二度目だ。
一度目より、なお悪い。
だからこそ、今度は問いが残る。
なぜなお、この男は自分を助けるのか。
なぜ自分に、まだ何かを期待したような顔をするのか。
そして、二度救われた自分に、なお武勲などというものが似合うのか。
そのどれにも、まだ答えられなかった。




