表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

第3話 真似る者


 次の小競り合いは、三日後に来た。


 包囲戦というものは、退屈と騒乱が、前触れもなく入れ替わる。昨日まで城壁の上から悪口しか飛んでこなかったくせに、今日は急に敵が門外へ出てきて畑を焼き返し、井戸の周りで石を投げ、こちらの見張り線を試してくる。


 アテナイ側の陣営は朝からばたついた。


 盾を持て、槍を出せ、遅い、寝ていたのか、いや見張り明けです、知るか、走れ。


 いつものことである。


 アルキビアデスは、今日はやけに機嫌がよかった。


 正確には、機嫌がよいというより、胸の奥が妙に澄んでいた。


 やることが決まっているからだ。


 前に出る。


 今度は救われる側ではなく、自分が主導する。


 しかもただ突っ込むのではない。考えがある。技がある。あの男のやり方を見た。問えばいいのだ。相手の足を止めればいい。


 たったそれだけのことではないか。


「顔がいいだけでなく、今日は機嫌もいいな」


 横から声がした。


 ソクラテスである。


 相変わらず、ひどい顔だった。戦支度をしている時だけは多少ましに見えるかと思ったが、そんなことはなかった。兜を抱えて立っていても、潰れた鼻は潰れたままだし、目は少し出ているし、どう見ても英雄の顔ではない。


 なのに、落ち着いている。


「今日は勝つからだ」


 アルキビアデスは上機嫌で答えた。


「ほう。昨日までは勝たなかったのか」


「いちいち鼻につくな、貴様は」


「鼻は昔からこうだ」


「そういう意味ではない」


 近くの兵が吹き出した。


 別の兵が言う。


「でも旦那、今日は本当に調子よさそうですよ」

「見ればわかる」

「では一つ賢くなりましたね」


 兵たちが笑い、アルキビアデスは舌打ちした。


 よくない。完全に陣営の遊びになっている。しかも出どころは目の前の裸足男だ。


「ソクラテス」


「何だ?」


「今日は私が前に出る」


「そうだろうな」


「止めぬのか」


「止めてやめる君なら、前回も突出していない」


 まったく腹立たしいほど話が早い。


 アルキビアデスは槍の柄を握り直した。


「見ていろ」


「見ていよう」


「そして驚け」


「それは君の働き次第だ」


 角笛が鳴った。


 前線から声が飛ぶ。敵影あり。軽装兵多数。重装歩兵も混じる。井戸の南。


 アルキビアデスは兜をかぶり、盾を取った。


 乾いた朝の空気が、鼻の奥へ鋭く入る。砂埃。汗。油。革。包囲戦の匂いだ。


 彼は歩き出し、やがて駆けた。


 自分の後ろに何人ついてきているのか、正確には見ていない。見る必要もない気がした。今日は前だけ見ればいい。前へ出ることと前が見えていることは違う、とソクラテスは言った。なら見てやろうではないか。今日は見えている。


 たぶん。


 井戸の周りでは、すでに小競り合いが始まっていた。


 敵の軽装兵が石を投げ、こちらの兵が罵声とともに盾を構え、両側から槍が牽制し合う。乾いた地面に足が滑り、倒れた兵の上を誰かが飛び越え、遠くでは城壁上の見物人がやたら楽しそうに騒いでいる。


 戦というより、ひどく騒がしい市場の喧嘩だ。


 だが、その喧噪の中に一人、目立つ敵がいた。


 髭を編み込んだボイオティア兵。青銅の胸当て。丸盾。こちらを見て笑っている。いかにも殴り合いが好きそうな顔だった。


 ちょうどよい。


 アルキビアデスは前へ出た。


「おい!」


 敵兵がこちらを見た。


 周囲の動きが、少しだけ遅く見えた。いける。ここでやる。問うのだ。相手の足を止める。そうすれば、あとは槍が届く。


「勇気とは何だと思う!?」


 アルキビアデスは叫んだ。


 一瞬、場が止まった。


 よし、と思った次の瞬間。


「何だと!」


 敵兵は止まらなかった。


 むしろ喜んだ。


「ふはは!面白い小僧だ!」


 そう怒鳴るや、盾を前にして一気に踏み込んでくる。


 速い。


 いや、速いのではない。こちらが期待していた一拍が、なかったのだ。


 アルキビアデスは槍を出した。だが半歩遅れた。相手はすでに盾を叩きつけてくる。肩に衝撃。息が詰まる。つづいて横から別の軽装兵が石を投げた。兜に当たる。視界がぶれる。


「くそっ」


 勇気とは何か。


 問いは投げた。


 だが相手は考え込まなかった。考えるどころか、楽しそうに殴りかかってきた。


 アルキビアデスは二歩下がり、盾を立て直し、もう一度槍を出す。今度はかすった。敵兵の腕に血が走る。


 だが浅い。


「それが勇気の答えか!」


 敵兵が笑う。


 うるさい。


 その笑顔が、自分の失敗を見抜かれたようで腹立たしかった。


 アルキビアデスは踏み込み返した。今度は力で押す。美しく勝てぬなら、せめて押し切る。だが焦りは槍の穂先を鈍らせる。敵兵の盾が上がる。別の敵の短槍が脇を狙う。さらに横から足元へ石。


 まずい。


 そう思った瞬間、肩ではなく太腿に鈍い痛みが走った。


 誰かの槍尻だ。


 膝が揺れる。


 視界の端で、敵が三人に増えていた。いや、もとから三人いたのだ。自分が一人しか見ていなかっただけだ。


 前に出ることと、前が見えていることは違う。


 ソクラテスの声が、やけに鮮明に蘇った。


 今それを思い出してどうなる。


 次の一撃が来る。


 アルキビアデスは歯を食いしばり、盾を上げた。間に合わない。棍棒が振り下ろされる。視界が狭まる。


 そこで、その棍棒は横から弾かれた。


 ごつん、と鈍い音。


 あの、円い青銅の大盾。


 見慣れた、いや見たくもないその影が、視界の横に入る。


「学びは早いが、早すぎるな」


 ソクラテスだった。


「遅い!」


 アルキビアデスは叫んだ。


「君は助かったのだから、少なくとも遅すぎはしない」


 そう言いながら、ソクラテスの槍が走る。


 短い。低い。無駄がない。


 さっきまで笑っていた敵兵の腿を裂き、踏み込みを止め、返す一手で喉元へ穂先を突きつける。敵兵は慌てて下がった。


 さらに横から来た軽装兵の手首を、盾の縁で打つ。石が落ちる。軽装兵が悲鳴を上げる。そこへアルキビアデスの後ろにいた兵が飛び込み、尻を蹴って転ばせた。


「今のは私でもできる!」


 アルキビアデスが言うと、ソクラテスは平然と答えた。


「では次は頼む」


 頼まれても困る。


 敵はもう一度前へ出ようとしている。ソクラテスは半歩前へ。アルキビアデスは無意識に半歩後ろへ。


 その事実が、アルキビアデスをさらに苛立たせた。


 まただ。


 また自分は救われる側に回っている。


「下がるぞ」


 ソクラテスが言う。


「まだやれる!」


「君はそう思っているが、脚は別のことを思っているようだ」


 言われて初めて、アルキビアデスは左脚に熱が広がっているのに気づいた。太腿の革当てのあたりが裂け、血がにじんでいる。


 痛みはあとから来た。


「大したことでは……」


「ある」


 ソクラテスは即答した。


「君が大したことないと思い始めた時、たいてい大したことになる」


 その間にも、敵がまた押してくる。


 二人は後退した。逃げるのではない。面を作り、一歩ずつ引く。ソクラテスの動きに合わせると、不思議と乱れない。合わせているのが少し癪だが、乱れるよりはよい。

 殺されるより、ずっと良い。


 追ってきた敵兵の一人が何か叫んだ。


「さっきの問いの続きはどうした!?」


 アルキビアデスは思わず怒鳴り返した。


「うるさい!」


「答えられんのか!」


「貴様がまず止まれ!」


「止まるか!」


 完全にその通りだった。


 横でソクラテスが小さく言う。


「よい返答だ。失敗しているが」


「今それを言うか!」


「今だからだ」


 味方の線が見えた。後ろからアテナイ兵が駆け出てくる。敵はそれ以上深追いせず、罵声を飛ばしながら下がった。


 アルキビアデスはようやく息を吐いた。


 脚が痛い。肩もまだ痛い。腹も立つ。しかも今回は、前回より質の悪い腹立ちだ。


 前回は敵にやられた。


 今回は、自分が失敗した。自分で自分の失敗がわかってしまった。


 それが悔しい。


「座れ」


 ソクラテスが言った。


「命令するな」


「では勧める。座れ」


 アルキビアデスは顔をしかめながらも、その場の石に腰を下ろした。すぐ衛生兵が来て、傷を見て顔をしかめる。


「浅いが汚れてますね」

「それは見ればわかる」

「では一つ賢く……」

「お前もか!」


 衛生兵は肩をすくめ、傷口を洗った。


 冷たい水が触れた瞬間、アルキビアデスは歯を食いしばる。痛い。ひどく痛い。英雄譚はこのへんを実に雑に書く。たいていは一行で済ませる。実際にはもっと長く、じわじわ、情けなく痛い。


 衛生兵が去ると、ソクラテスがその前に立った。


「何だ?」


 アルキビアデスは不機嫌に言った。


「何が足りなかった?」


 慰めもなしに、それを聞くのか。


 アルキビアデスは一瞬、本気で石を投げつけたくなった。だが脚が痛いのでやめた。脚が痛くなくても、たぶん当たらない気がした。


「貴様」


「何だ?」


「なぜ止めなかった」


「止めた」


「足りん!」


「君は止められて止まる顔ではなかった」


 ぐうの音も出ない言い方である。


 アルキビアデスは顔を背けた。


「笑いたければ笑え」


「何を?」


「私の失敗をだ」


「失敗はよい」


 ソクラテスは言った。


「答えにならぬ」


「では少し足す。失敗はよい。失敗したことを、うまく負けたと思い込むのが悪い」


 アルキビアデスは眉をひそめた。


「うまく負けた?」


「君はいま、自分は挑んだ、試した、惜しかった、と思っているか」


 思っていた。


 正確には、思おうとしていた。


 少なくとも、ただの無様ではない、と。挑戦ではあった、と。そういう言い訳を、胸のどこかで準備していた。


 ソクラテスはそれを見ていたようだった。


「何が足りなかった?」


 もう一度、ソクラテスが言った。


 アルキビアデスはしばらく黙った。


 周囲ではまだ前線のざわめきが残っている。遠くで誰かが勝手に武勲を盛って話し始め、別の誰かがそれは盛りすぎだと笑っている。


 戦場は終わっても、騒がしさはすぐには終わらない。


「相手が……」


 アルキビアデスは言いかけ、首を振った。


「違うな」


「ほう」


「相手が止まると思った。そこからもう間違っていた」


「なぜそう思った?」


「貴様がそうしたからだ」


「では、私と君は同じか」


「違う」


「どこが?」


 またそれだ。


 だが今回は、少し違った。腹立たしいのに、問いがまっすぐ胸に刺さる。


「私は」


 アルキビアデスは言った。


「私は、問いそのものが技だと思っていた」


「それは半分だ」


「もう半分は何だ?」


「問う者だ」


 ソクラテスは当たり前のように言った。


「相手は、問いに答えるのではない。問いかけた者に答えるのだ。相手はまず、誰に問われたかを見る」


 アルキビアデスは黙った。


 たしかに敵兵は、自分の問いを面白がったが、止まらなかった。考え込まなかった。挑発だと思ったのか、若造の見栄だと思ったのか、その両方か。


 少なくとも、昼の傭兵長がソクラテスに向けたあの一拍とは、まったく違った。


「では私は、まだ使えないのか」


「今のままではな」


「教えろ」


「何を?」


「問う者になる方法をだ」


 ソクラテスは少しだけ考えた。


 その間が、やけに長く感じられた。


「止められねば学ばぬ問いもある」


 ようやく彼はそう言った。


 アルキビアデスは顔をしかめる。


「それは、さっき私を止めなかった言い訳か」


「半分は」


「残り半分は」


「本当だ」


 アルキビアデスは、怒るべきか笑うべきかわからなくなった。


 この男は、本当に腹立たしい。


 だが、腹が立つだけで終わらない。言われたことが、胸の中に残る。


 消えない。


「ソクラテス」


「何だ?」


「私はまたやるぞ」


「そうだろうな」


「今度はもっと上手くな」


「それもあるかもしれぬ」


「止めるなよ」


「君が止まる時は、たいてい誰に止められた時でもない」


 アルキビアデスは、そこで少し笑ってしまった。


 脚は痛いし、負けたし、また救われた。状況としては最悪に近い。なのに少し笑えるのが、自分でも癪だった。


「何だ、その顔は?」


「今の君は少し学んだ顔をしている」


「学んだ顔とは何だ」


「前より少し、安い答えで済ませたくなさそうな顔だ」


 アルキビアデスは返事をしなかった。


 できなかった。


 図星だったからだ。


 自分は負けた。しかも、ただ敵に負けたのではない。自分の浅さに負けた。技だけ真似て、問う者になる前に、問う形だけをなぞった。


 それが悔しい。


 そして悔しいままでは終われない。


 ソクラテスが背を向けかけたところで、アルキビアデスは言った。


「おい」


「何だ?」


「なぜまた助けた?」


 ソクラテスは振り返り、少し考えるような顔をした。


「君がまだ、死ぬには惜しいほど、うるさいからだ」


「前と同じだな」


「よい答えは、何度使ってもよい」


 アルキビアデスは鼻で笑った。


 それから脚の痛みをこらえつつ、ゆっくり立ち上がる。立てる。まだ立てる。


 ソクラテスはその様子を見て、何も言わなかった。


 だがアルキビアデスには、その沈黙が、昼のどんな言葉よりも重く感じられた。


 また救われた。


 二度目だ。


 一度目より、なお悪い。


 だからこそ、今度は問いが残る。


 なぜなお、この男は自分を助けるのか。


 なぜ自分に、まだ何かを期待したような顔をするのか。


 そして、二度救われた自分に、なお武勲などというものが似合うのか。


 そのどれにも、まだ答えられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ