第4話 譲られた武勲
戦のあとには、たいてい二種類の人間がいる。
自分は英雄だったと語る者と、語る元気もなく寝る者だ。
ポテイダイア包囲陣のその日は、前者がやけに多かった。
「俺は敵を三人倒した」
「私は五人見た」
「お前は見ただけだろう」
「見届けるのも大事だ」
「では私は八人見届けた」
「多すぎる。もうそのへんで一個小隊が壊滅している」
焚き火の周りでは、あちこちで武勲が増殖していた。
肉を焼く匂い。汗の匂い。油の匂い。傷口に塗る薬草の青臭さ。勝った負けたの喧噪に、包囲戦の埃っぽい空気が混じる。
アルキビアデスは、そのどれにも加わらず、少し離れた木箱の上に座っていた。
脚の傷は浅かったが、歩くとまだ痛む。
それ以上に痛いのは、別のところだった。
二度救われた。
一度なら運が悪いで済む。二度となると、さすがに自分の方に問題があると認めるしかない。
しかもその二度とも、助けたのはあの男である。
醜い。裸足だ。腹が立つ。なのに戦場では強い。しかもただ強いだけでなく、助けた相手にまで平然と問いを残していく。
まったく迷惑な男だ。
「旦那」
見回り帰りの兵が声をかけてきた。
「何だ?」
「沈んでますね」
「沈まぬ方がおかしいだろう」
「まあ、それはそうです」
兵は素直にうなずいたあと、少しだけ身を乗り出した。
「でも朗報です」
「何だ」
「明日、武勲の記録をまとめるそうです」
アルキビアデスは顔をしかめた。
「それが朗報か」
「貴族には大朗報でしょう。戦働きが話になります」
「話にはなるだろうな。私が二度も助けられたことが」
「そこは皆、助けた方ばかり喋ってます」
「余計悪い!」
兵は笑いながら去っていった。
アルキビアデスは深く息をついた。
武勲。
本来なら、自分が最も好む言葉のはずだった。市民集会で語られ、酒宴で称えられ、女たちの耳に入る。美しい若者にはよく似合う。
なのに今、その言葉は妙に重い。
少し離れたところで、ソクラテスはいつもの黒パンをちぎっていた。
戦のあとでも変わらない。勝っても負けても、貧しげな飯を、同じ顔で食べる。
ある意味、武勲より腹が立つ。
人は普通、何かにつけて顔を変えるものだ。名誉とか屈辱とか、そういうものに。だがあの男は、それらを一歩横に置いて歩いているように見える。
だから目立つ。
目立つくせに、目立とうとしていない。
いちばん始末が悪い。
*
翌朝、陣営の中央は妙に整っていた。
整っていると言っても、もともと兵営である。木箱は木箱だし、土は土だし、風が吹けば埃は舞う。だが一応、兵たちが集まり、隊ごとに並び、指揮官たちがもっともらしい顔をして立つと、それらしくは見える。
武勲の記録と、簡単な褒賞の通達があるのだ。
言ってしまえば、誰がどれだけ目立ったかを皆で確認する場である。
アルキビアデスは並びながら、ひどく気分が悪かった。
理由は一つではない。
まず、脚が少し痛い。
次に、周囲の兵が時おりこちらを見て、何とも言えない顔をする。哀れみと面白がりと期待が半分ずつ混ざったような顔だ。
さらに悪いことに、ソクラテスがまったく平然としている。
裸足ではなかった。一応その場にふさわしく、草履のようなものは履いている。だが顔はいつも通りである。少しも晴れがましそうでない。たぶん市場で魚を買う列に並ばせても同じ顔をしている。
「おい」
アルキビアデスは小声で言った。
「何だ?」
「今日は少しは緊張しろ」
「なぜ?」
「こういう場だからだ」
「場が緊張するのなら、私まで緊張する必要があるのか」
「ある程度はある」
「それは大変だな」
まるで大変そうに聞こえない声だった。
前に立つ指揮官が咳払いをし、記録係が木板を持ち上げた。木板には、昨日までの戦働きが刻まれているらしい。刻まれる側の気持ちは、あまり考えられていない顔つきで記録係は読み上げ始めた。
誰それが斥候として働いた。誰それが敵の進出を食い止めた。誰それが負傷兵を運んだ。
兵たちは、そのたび少しだけざわつく。知り合いの名が出れば肩を叩き、そうでもなければ退屈そうに鼻をほじり、偉い者が睨むと手を下ろす。
やがて、記録係が声を少し張った。
「先日の小競り合いにおいて、敵中に突出しつつも奮戦し、陣の前面にて勇を示した者」
周囲の空気が少し変わる。
アルキビアデスは、胃の奥が重くなるのを感じた。
「アルキビアデス」
名が読まれた。
ざわめきが起こる。
そのざわめきの中には、たしかに称賛もあった。だが同時に、もう一つの名前が口に上りかけている気配もあった。
アルキビアデスは前へ出た。
脚は痛む。だが顔には出さない。ここで顔をしかめたら、その瞬間に全部が負けになる気がした。
記録係がさらに読み上げようとした時だった。
「待て」
声がした。
ソクラテスだった。
兵たちの視線が一斉に集まる。醜い顔というものは、こういう時に便利かもしれない。美男ならざわめきが二手に割れるところを、醜男は一方向に空気を集める。
指揮官が眉をひそめた。
「何だ、ソクラテス?」
「その記録だが」
「異論でもあるのか」
「ある」
ざわめきがさらに大きくなる。
アルキビアデスは、心臓がいやな音を立てるのを感じた。
やめろ。
それ以上喋るな。
そう言いたかったが、その前にソクラテスが口を開いた。
「彼の武勲は、彼に十分ではない」
兵たちが一瞬、意味を測りかねて静まった。
記録係までぽかんとしている。
「どういうことだ?」
指揮官が言う。
「追加が必要だということか」
「いや」
ソクラテスは首を振った。
「私の分も、彼に付けよ」
今度こそ、場が止まった。
風が吹き、土が少し舞った。誰かがくしゃみをしたが、さすがに今は笑う者がいない。
アルキビアデスは、一拍遅れて言葉を絞り出した。
「何を言っている?」
「聞こえなかったか」
「聞こえたから言っている!」
兵たちがざわつく。
「おいおい」
「何だそれは?」
「そんなことがあるのか」
「美しい方が二倍美しくなるな」
「黙れ」
最後の一言はアルキビアデスだった。
彼は前へ出て、ソクラテスを睨んだ。
「ふざけるな」
「ふざけてはいない」
「これは貴様の武勲だ!」
「そうだ」
「なら、なぜ私に寄越す!」
「お前に要るからだ」
平然と答えるので、アルキビアデスは一瞬、言葉を失った。
兵たちも同じ顔をしている。まるで、酒宴の途中で急に哲学が始まった時のような顔だ。たぶん似たようなものなのだろう。
「施しなら受けん」
アルキビアデスは低く言った。
「施しではない」
「では何だ」
「判断だ」
またそれだ。
また、こちらの一番腹立つところへ、迷いなく踏み込んでくる。
指揮官がさすがに間へ入った。
「ソクラテス、理由を言え。場を止める以上は」
「簡単だ」
ソクラテスは言った。
「この若者は、これから人の前へ立つ。人の先へ出る。名誉も、非難も、武勲も、失敗も、まとめて背負う」
ざわめきが少し静まる。
兵たちは意味を完全にはわかっていなくても、声の重みは感じたらしい。
「その時、武勲が軽い飾りだと思っていては困る」
ソクラテスは、アルキビアデスをまっすぐ見た。
「だから今のうちに、重さに慣れておけ」
アルキビアデスは、何も言えなかった。
怒るべきだった。
ふざけるなと、もう一度言うべきだった。
だがソクラテスの顔は、いつものように平然としているのに、その言葉だけが妙に重かった。
飾りではない。
重さに慣れろ。
武勲を、褒められるためのものではなく、背負うものとして言われたのは初めてだった。
「私は」
アルキビアデスはやっと声を出した。
「私は二度も助けられた」
「そうだな」
「なのに受け取れというのか」
「だからこそだ」
ソクラテスは言った。
「お前は、勝っても自分を見失うし、負けても自分を見失う」
兵たちの間から、うわあ、という顔がいくつか出た。
そこまで言うか。
しかもこんな場で。
アルキビアデスもそう思った。思ったが、否定しきれないのがまた腹立たしい。
「ならなおさら、受け取れぬ」
「なぜ?」
「重すぎる」
「そうだ」
ソクラテスはうなずいた。
「だから、持て」
言葉が喉につかえた。
重いから持て。
普通は逆だ。重いから避ける。自分にふさわしい日まで待つ。もっと勝ってから、もっと立派になってから。
だが目の前の男は、それを許さない。
「お前はこれから、アテナイそのものを背負う男になる」
ソクラテスは静かに言った。
「武勲など、今のうちに慣れておけ」
その瞬間、ざわめきが消えたように感じた。
実際には兵の誰かが鼻をすすり、遠くで誰かが木箱を倒し、記録係はまだ困惑した顔で木板を抱えていた。場は普通にうるさい。
だがアルキビアデスの耳には、その一言だけが残った。
アテナイそのもの。
大きすぎる。
笑うべきだ。買いかぶりだと言うべきだ。そんなものを自分に背負わせるなと言うべきだ。
なのに、笑えなかった。
自分の中のどこかが、その言葉を、途方もなく恐ろしいものとして受け取っていたからだ。
そして同時に、少しだけ、嬉しいと思ってしまったからだ。
指揮官が咳払いをした。
「……記録は、そのように付ける」
兵たちがわっと騒ぎ出す。
「本当にやるのか」
「やるらしいぞ」
「では私は明日から美しい若者の部下だな」
「もともと違うのか」
「いや心はもう」
アルキビアデスはそちらを睨みつけたが、今日はあまり効かなかった。自分の中の方が、よほど騒がしかったからだ。
*
数日後、アテナイへの帰還が決まった。
包囲戦はまだ終わらない。終わらないが、部隊の入れ替えと報告のため、一部の兵が本国へ戻る。アルキビアデスもその列に入った。
港へ向かう道は、兵の列と荷駄でひどく混んでいた。
槍。盾。鍋。黒パンの袋。傷薬。誰かの私物らしい妙に立派な杯。なぜこんなものまで戦場へ持ってきたのか理解に苦しむ。
海風が吹くと、陣営の埃の匂いが少し薄れた。
アルキビアデスは歩きながら、横のソクラテスを見た。
相変わらず、荷は少ない。槍と盾と、ぼろい袋だけだ。あまりにも荷が少ないので、逆に何か忘れてきたのではないかと思えてくる。
「おい」
「何だ?」
「本当に私に寄越したのだな」
「何を?」
「武勲をだ」
「記録係が困った顔をしていたから、たぶん本当だ」
「そういうことを言っているのではない」
ソクラテスは少しだけ空を見た。
「なら、もう答えた」
「納得していない」
「それは君の役目だ」
アルキビアデスは舌打ちした。
「何でも問いで返すな」
「便利だからな」
「嫌な男だ」
「よく言われる」
少し沈黙があった。
前を行く荷駄の車輪が石に乗り上げ、ぎい、といやな音を立てる。兵の一人が荷物を落とし、中から干し魚が転がり出た。別の兵が拾って、食うかと聞き、やめろそれは昨日落としたやつだと怒鳴られる。
帰還の道は、英雄譚よりずっと間抜けだ。
だが、そういうところが少し好きだと、アルキビアデスは思った。
「ソクラテス」
「何だ?」
「私は本当に、背負うことになるのか」
「何を?」
「アテナイをだ」
ソクラテスは即答しなかった。
珍しいこともあるものだと思った。
「なるかもしれぬし、ならぬかもしれぬ」
やがて彼は言った。
「ただ一つ言えるのは、背負わぬ者ほど、背負う顔をしたがる」
「それは私のことか」
「少しは」
「少しか」
「かなりかもしれぬ」
アルキビアデスは鼻で笑った。
それでも前よりは怒らなかった。
怒る前に、自分でもそうかもしれないと思ってしまうからだ。
港が見えた。
船が並び、帆がたたまれ、人夫たちが怒鳴っている。海の匂い。タールの匂い。魚の匂い。アテナイへ戻る船の上では、また別の種類の退屈が待っているのだろう。
その時、道の脇から、鋭い女の声が飛んだ。
「ちょっとそこの兵隊! それ、うちに届ける荷じゃないでしょうね!」
皆が一瞬そちらを見る。
兵の一人が、抱えていた壺を慌てて持ち直した。
「違います!」
「違うならそんなに挙動不審になるな!」
道端には、水瓶を抱えた若い女が立っていた。
顔立ちはきつい。目は鋭い。声も鋭い。道を塞ぐ兵の列を少しも恐れていない顔である。むしろ兵の方が、少し道を開けた。
アルキビアデスは思わず笑った。
「強そうだな」
「そうだな」
隣でソクラテスが、妙に素直に答えた。
「知っているのか」
「まだ、あまり」
「まだ?」
ソクラテスはそれには答えず、女の方を少しだけ見て、それから前へ向き直った。
アルキビアデスは、その沈黙に何となく気づくものがあった。
「ほう」
「何だ」
「貴様にも、ああいう相手がいるのか」
「どういう相手だ?」
「喉が焼けそうになる相手だ」
ソクラテスは少し黙った。
「君は時々、余計なところだけ賢いな」
「では一つ賢くなったのだ」
「そうかもしれぬ」
アルキビアデスは笑った。
武勲はまだ重い。問いはまだ多い。自分が何を背負うのかも、まだよくわからない。
だが少なくとも、一つだけははっきりしていた。
この厄介な男との縁は、ポテイダイアで終わらない。
戦場でも、帰り道でも、たぶんこの先も、問いは残り続ける。
そしてその問いは、槍よりもしつこく、何度でも胸に刺さるのだろう。
アテナイ行きの船が、風を待って軋んだ。
アルキビアデスは海の匂いを吸い込み、隣のソクラテスを横目で見る。
醜く、貧しく、腹立たしく、戦場では誰よりも静かな重装歩兵。
その男が自分に何を見ているのか、まだ全部はわからない。
だが、わからぬまま終えるには、多分もう手遅れだ。
【完結・次章予告】
ポテイダイア編、お読みいただきありがとうございました。
次章『重装歩兵ソクラテス ―デリオンの撤退戦―』を準備中です。
ご期待下さい。




