第2話 徳は教わることができるか
その夜、ポテイダイア包囲陣は、昼の小競り合いの話でたいそう賑わった。
あの、若きアルキビアデスが敵に囲まれたこと。
そこへ、ひどく醜い中年の重装歩兵が割って入ったこと。
しかもその男は、戦場でいきなり問答を始め、相手が考え込んだ隙に喉を突いたこと。
話は夕暮れまでにずいぶん立派になった。
「敵が十人まとめて黙りこんだらしい」
「いや三十人だ」
「最後には城壁の上の守兵まで考え始めたそうだ」
「そのうち城門に向かって、門とは何かと聞くぞ」
「門が考え込み始めたら厄介だな」
笑いが起きる。
包囲戦というものは、待つ戦である。
待っている間、人はよく喋る。腹が減れば飯の話をし、敵が出てこなければ女の話をし、何か珍しいことが起きれば十倍にして喋る。
今日は、珍しいことが起きすぎた。
アルキビアデスは焚き火のそばで水を飲みながら、その笑い声を聞いていた。
気分はひどく悪い。
自分が死にかけたのが面白おかしく広まっているのも癪だし、それ以上に癪なのは、話の主役が自分ではなく、あの裸足の中年兵になっていることだった。
少し離れた場所で、ソクラテスは黒パンをちぎっていた。
まるで自分の噂など耳に入っていない顔である。
その無関心さもまた腹立たしい。
アルキビアデスは立ち上がった。
向こうから見れば、自分が近づいてくるのは見えているはずだ。なのにソクラテスは顔も上げない。ただ黒パンを噛んでいる。
そのパンもまた実に貧しげだった。石で焼いたのか泥で焼いたのか判然としない色で、犬でも少し考えてから噛みそうな質感をしている。
「おい、ソクラテス」
ソクラテスはようやく顔を上げた。
「何だ、若者よ」
「若者よはやめろ」
「では、美しい若者よ」
「もっとやめろ」
近くにいた兵が吹き出した。
アルキビアデスは振り返らずに言う。
「笑うな」
「無理です」
「なぜだ」
「ちょうど今、いちばん面白いところなので」
兵は真顔で答えた。包囲戦が長引くと兵というものは図々しくなる。
アルキビアデスは諦めて、ソクラテスの向かいに腰を下ろした。
「昼の件だ」
「君が膝をついた件か」
「そこから離れろと言ったはずだ」
「では、助けた件か」
「そうだ」
ソクラテスは黒パンをもう一口かじった。
歯が丈夫なのだろうかと、どうでもいいことが一瞬気になる。
「何だ?」
「何だ、ではない。私は聞きに来たのだ」
「何を?」
「貴様のあの問答だ。どうして戦場であんなものをやる?」
「昼にも聞いたな」
「昼は貴様がまともに答えなかった」
「今もまともかどうかはわからぬが」
アルキビアデスは額を押さえた。
会話というものは、普通、こう、道があるものだ。少なくとも目の前の男のように、わざわざ脇の藪へ突っ込んでは戻ってくるものではない。
「ソクラテス」
「何だ?」
「私は今、真面目に話してる」
「それは結構」
「だから貴様も真面目にしろ」
「私はいつも真面目だ」
その顔で言われると、冗談か本気か判別がつかない。いや、たぶん本気なのだろう。それがなおさら厄介だった。
「では聞く」
アルキビアデスは言った。
「貴様はあの時、敵に考えさせた。人は考えれば強くなるのではないのか」
「場合による」
「ずるい答えだな」
「だが戦場には向いている」
ソクラテスは焚き火の向こうに視線をやった。炎の赤が、その潰れた鼻を妙な具合に照らしている。
「人は、自分がよく知っていることなら、考えても速い。だが、知らぬことを急に考えさせられれば、たいてい止まる」
「それで敵を止めた」
「止まったので刺した」
「言い方が軽い」
「重く言えば、結果が変わるのか」
アルキビアデスは少し黙った。
言葉だけ聞けばひどい。だが戦場で起きたことを思い出すと、たしかにその通りなのだった。
止まった。
止まったから死んだ。
それだけだ。
「つまり貴様は、相手が知らないことをぶつけて止めるのか」
「たいていは、相手が知らぬことではない」
「何?」
「自分が知っていると思い込んでいることだ」
ソクラテスは言った。
「死とは何か。勇気とは何か。徳とは何か。人は皆、それらを知っているつもりで喋る。だが、いざ答えよと言われると、うまく答えられぬ」
「なら貴様は答えられるのか」
「答えられぬことが多い」
「ではなぜ聞く?」
「答えられぬと知るためだ」
アルキビアデスは顔をしかめた。
「それで何になる?」
「少なくとも、知った顔で間違えずに済む」
焚き火がぱちりと鳴る。
周りではまだ、どこかの兵たちが昼の話をして笑っている。肉を焼く匂い。汗の匂い。油の匂い。遠くで誰かが笛を吹いている。あまり上手くない。
包囲戦の夜は騒がしい。
なのに、この焚き火の周りだけ、妙に会話の音がはっきりしていた。
「では聞く」
アルキビアデスは身を乗り出した。
「徳とは何だ?」
「それを私に聞くのか」
「貴様が話をそう持っていった」
「ではまず、君の考えを聞こう」
「またそれか」
「便利なのでな」
「卑怯だな」
「戦場で卑怯を嫌うと、長生きできぬ」
アルキビアデスは舌打ちした。
そして少し考える。
徳。
戦場で、男たちが好んで口にする言葉だ。勇敢だ、立派だ、誉れだ。そういうものをまとめて、なんとなく徳と呼ぶ。
「徳とは」
言いかけて、アルキビアデスは周囲の兵たちの耳がこちらへ寄ってきているのに気づいた。
「おまえたちは、聞くな」
兵たちはいっせいに目を逸らした。聞いていないふりがひどく下手だ。
ソクラテスは平然としている。
アルキビアデスは向き直った。
「徳とは、優れた行いのことだ」
「優れたとは、何においてだ?」
「は?何において、とは?」
「走るのに優れていれば速い馬だ。噛むのに優れていれば良い犬だ。人間において優れた行いとは何だ?」
アルキビアデスは口をつぐんだ。
何だ、その聞き方は?
こちらは徳を聞いているのに、急に馬や犬が出てくる。しかも妙に筋は通っている。
腹立たしい。
「人間にふさわしい行い、だ」
「では人間にふさわしいとは何だ?」
「それは、今から考える!」
「結構」
ソクラテスはうなずいた。
アルキビアデスは思った。
こいつは、人を論破して喜ぶ類ではない。
むしろ、人が答えに詰まると、少し嬉しそうである。嫌な男だ。
「なら貴様はどう思う?」
アルキビアデスは身を乗り出した。
「徳とは何だ?」
「難しいな」
「貴様が振っておいてそれか」
「難しいから振ったのだ」
「最悪だな」
ソクラテスは肩をすくめた。
「では別の角度から聞こう。君は戦場で、徳ある者とはどんな者だと思う」
「勇敢な者だ」
「勇敢とは?」
「前に出る者だ」
「では、何も考えずに突っ込んで真っ先に死ぬ者は、もっとも徳ある者か」
アルキビアデスは詰まった。
「それは無謀だ」
「ほう。では勇敢と無謀は違うのだな?」
「違う」
「どこが?」
「それは」
また詰まった。
周囲で、こちらを聞き耳立てていた兵の一人が、隣へ小声で言う。
「面白いな」
「何がだ」
「美しい方が、だんだん追い込まれていくぞ」
「最初から裸足の男のペースでは?」
「それはそうだな」
アルキビアデスはそちらを睨んだ。
「お前たちは散れ」
「でも気になります」
「何がだ」
「徳ですよ」
兵は真面目な顔で答えた。たぶん半分くらいは本当に気になっているのだろうが、半分くらいは面白がっているに違いない。
ソクラテスは気にせず続けた。
「勇敢が、ただ前に出ることではないなら、徳もまた、ただ目立つことではないかもしれぬな」
「誰も目立つことだとは言っていない」
「君は少し言っている」
「言っていない」
「では、武勲は欲しくないのか」
アルキビアデスは即答した。
「欲しい」
「正直で結構」
「悪いか」
「いや。隠して腐るより良い」
焚き火の向こうで、ソクラテスはまた黒パンを噛んだ。よく噛む。あの硬そうなパンを噛みながら、こんなややこしい会話を続けられるのだから器用である。
「では、武勲を欲しがることは徳か」
ソクラテスが言う。
「そうとは限らん」
「なぜ」
「名誉欲だけでは立派とは言えんからだ」
「ほう」
ソクラテスはうなずく。
「では、徳とは、名誉欲とは別の何かを含んでいるのだな」
「たぶん」
「それは何だ?」
「それを今考えている!」
「結構」
またそれだ。
アルキビアデスは、なぜこのやり取りだけで妙に疲れているのかわからなくなってきた。
戦場で槍を振るう方が楽なのではないか。
少なくとも、相手は真正面から殴ってくる。目の前の男のように、言葉で地面を掘って落とし穴を作ったりはしない。
「ソクラテス」
「何だ?」
「貴様は、私に何をさせたい?」
「何も」
「嘘をつけ」
「本当に何かをさせたいわけではない」
「ならなぜこうして問う?」
「君が答えたがっているからだ」
アルキビアデスは言葉を失った。
それは、半分は当たっていた。
腹が立つ。だが、昼からずっと頭に引っかかっていたのも本当だ。あの問答。あの槍。あの一拍。知った顔で話していた敵が止まり、死んだ。
自分もまた、昼からずっと、何かを答えたがっている。
「私は」
アルキビアデスは言いかけて、少し黙った。
「私は、知りたいのだ」
「何を?」
「勇気が何かを。徳が何かを。貴様のあの戦い方が、卑怯なのか、賢いのか、それとも別の何かなのかを」
ソクラテスは少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えたが、焚き火の光のせいかもしれない。
「それは結構」
「だから結構とは何だ」
「知らぬまま、知った顔をしているより良い、ということだ」
「それで教えてくれるのか」
「何を?」
「徳が何であるか、をだ」
ソクラテスは首をかしげた。
「教えられるかどうか、まだ定かでないものを、どうして教えると言える」
「では教えられぬのか」
「それもまだ定かでない」
「本当に腹が立つな」
「よく言われる」
近くの兵がまた吹き出した。
アルキビアデスは焚き火の向こうの男を睨む。
醜い。貧乏そうだ。裸足だ。見てくれだけなら、酒宴で隣に座った瞬間に場所を変えたい部類の男である。
だがこの男は、間違いなく戦場で強い。
しかも、その強さは腕力だけではない。
「なら、学べるものかどうか、試してやる」
アルキビアデスは言った。
「何を?」
「徳だ。勇気だ。貴様のあの問答だ」
「どうやって?」
「次の戦でだ」
ソクラテスは少し黙った。
「ほう」
「私は見ていた。貴様のやり方を。相手が知らぬと思っていることではなく、自分が知っているつもりのことを問うのだろう?」
「それだけではない」
「だが一つではある」
「そうだな」
「なら、次は私がやる」
言ってから、アルキビアデスは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
見返したかった。
昼、自分は救われた。助けられた。格好悪く。無様に。
そのままでは終われない。
「次の戦で、私が前に出る」
アルキビアデスは言った。
「そして証明する。勇気も徳も、教わらずとも掴めると」
焚き火の向こうで、ソクラテスはしばらく何も言わなかった。
周囲の兵たちも、今度は笑わなかった。
ようやく本当に面白くなってきたと、そういう顔をしているだけである。
やがてソクラテスは言った。
「前に出ることと、前が見えていることは違う」
「説教か」
「忠告だ」
「私はやるぞ」
「そうだろうな」
「止めないのか」
「止めてやめる君なら、そもそも昼に突出していない」
アルキビアデスは少しだけ口元を歪めた。
それは、その通りだった。
「なら見ていろ」
「見ていよう」
ソクラテスは静かに答えた。
「そして問おう」
「何を、だ?」
「君が本当に、何を掴んだのかを」
アルキビアデスはそれにすぐ返せなかった。
焚き火が揺れる。
夜の陣営は相変わらずうるさい。誰かが賭けに勝って怒鳴り、誰かが肉を焦がし、誰かが恋人の名を酔って叫んでいる。
だが、その騒がしさの中で、アルキビアデスの胸の内だけは妙に静かだった。
昼、自分は助けられた。
今夜、自分は問い詰められた。
次は、自分が前に出る。
今度こそ、ただ救われる側では終わらない。
「ソクラテス」
「何だ?」
「徳は教えられるか」
ソクラテスは焚き火を見つめたまま言った。
「それを知りたいなら、まず君は、学ぶ気があるのかを自分に問え」
アルキビアデスは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「勝ちたいだけの者は、たいてい学びたがっているのではなく、飾りたがっている」
アルキビアデスは言い返そうとした。
だが、その言葉が喉のあたりで止まった。
勝ちたい。
それは本当だ。
目立ちたい。武勲が欲しい。称えられたい。美しい勝ち方をしたい。
それも本当だ。
では、自分は学びたいのか。
それとも、学んだ顔をして、さらに立派に見えたいだけなのか。
焚き火の向こうで、ソクラテスはまた黒パンを噛んでいた。
まるで、こちらが考え込むのを最初から知っていたかのような顔で。
アルキビアデスは思った。
この男は厄介だ。
昼よりもっと厄介だ。
槍で人を刺すより先に、言葉で足を止めてくる。
しかも敵だけではない。
味方にも。
自分にも。
アルキビアデスは、焚き火の赤を見つめながら、答えを口にできずにいた。
そして答えられぬまま、胸の奥に、昼とは別の熱が残っているのを感じていた。
次の戦で、自分は何を証明したいのか。
勇気か。
徳か。
それとも、ただ自分自身か。
そのどれを問われても、まだうまく答えられなかった。




