第1話 邂逅の槍
ポテイダイア包囲は、英雄譚よりずっと退屈だった。
朝は固い黒パンを噛み、昼はぬるい水を飲み、夕方は埃まみれで槍を磨く。合間に見張りがあり、土を運び、罵声を飛ばし、たまに矢が飛んできて誰かが死ぬ。
死ぬ時も、思ったほど劇的ではない。
うめいて、倒れて、運ばれて、それで終わりだ。
若きアルキビアデスは、そういう退屈が嫌いだった。
彼は若く、美しく、そして自分が若くて美しいことをよく知っていた。陣営の中でも、立っていれば目立つ。歩けばなお目立つ。怒鳴れば、たいていの者は振り向く。
だからこそ、こんな包囲戦は性に合わない。
英雄というものは、本来、城門を蹴破るとか、敵将の首を取るとか、少なくとももう少し見栄えのする働きをするべきなのだ。
なのに現実ときたら、ぬるい水である。
アルキビアデスは水桶を受け取り、一口飲み、顔をしかめた。
「ぬるい」
水を運んできた兵が、困った顔で言う。
「井戸が遠いんですよ」
「遠いなら近づければよかろう」
「井戸の方をですか」
「話の腰を折るな」
兵は真顔で少し考えた。
「土を掘れば、似たようなことはできるかもしれません」
「本当に考えるな」
周囲で笑いが起きた。アルキビアデスは舌打ちし、水桶を返した。
その時だった。
「若者よ」
後ろから、妙に落ち着いた声がした。
振り返る。
そこにいた男を見て、アルキビアデスは一瞬、何の冗談かと思った。
髪は薄い。鼻は潰れ、目は少し飛び出している。若くもない。立派な鎧を着ているわけでもない。見た目だけで言えば、山羊と市場の魚屋を半分ずつ混ぜたような顔だった。
しかも裸足だった。
よりによって、朝の冷え込みがまだ土に残る時間にである。
「何だ、お前は?」
アルキビアデスが言うと、男は平然と答えた。
「重装歩兵だ」
「見ればわかる」
「では一つ賢くなったな」
近くの兵がまた吹き出した。アルキビアデスは眉をひそめる。
「笑うな」
「はい」
と言いながら兵はまだ笑っている。まったく兵というものは、貴族が少しでも出し抜かれると嬉しそうな顔をする。
アルキビアデスは裸足の男を睨んだ。
「それで何だ。若者よ、とは?」
「水がぬるいと怒っていた」
「聞いていたのか」
「耳があるのでな」
「で?」
「ぬるい水と熱い怒りでは、どちらが喉を焼くと思う?」
兵たちが声を殺して震え始めた。今にも吹き出しそうである。
アルキビアデスは、目の前の男を見た。
からかわれている。
確実にからかわれている。
だが困ったことに、この男の顔には、からかう者特有の悪意の艶がなかった。本当に、ただ聞いているだけの顔である。なお腹立たしい。
「怒りは喉を焼かん」
アルキビアデスは言った。
「怒りは敵を焼くものだ」
「ほう」
裸足の男はうなずいた。
「では、怒りに焼かれて死んだ者より、怒りで敵を皆殺しにした者の方が多いのだな」
アルキビアデスは口を開き、少し詰まった。
周囲の兵が、こちらを見ている。
黙るのは負けだ。
「少なくとも、私は前者にはならん」
「それは結構」
男はそう言ってから、空を見上げた。まるで話は終わりとでも言うように。
「名は?」
アルキビアデスが言うと、男はまた視線を戻した。
「ソクラテス」
「覚えておく」
「忘れてもよい。槍は覚えている」
また笑いが起きた。
アルキビアデスは顔をしかめたが、それ以上言い返す前に、合図の角笛が鳴った。
見張り線の前方で、小競り合いが起きたのである。
畑を焼き払う部隊に、ポテイダイア側の兵が出てきたらしい。
退屈にうんざりしていたアルキビアデスは、むしろ好機だと思った。
見せ場である。
包囲戦の泥臭さの中にも、たまには英雄の働きがあってよい。
「行くぞ」
彼は槍を取り、盾を持ち上げた。
数人の兵が後につづく。誰かが、あまり前へ出過ぎるなと忠告したが、アルキビアデスは聞かなかった。前へ出なければ見えないものがある。前へ出れば、皆が自分を見る。
それでいい。
乾いた畑の上を駆ける。焼け残った麦束。崩れた石垣。土煙。城壁からの罵声。
最初は上々だった。
出てきた軽装兵を追い散らし、一人の槍を盾で払い、脇腹へ返した。敵が倒れる。味方が歓声を上げる。そうだ、それでいい。
もっと前へ。
もっと目立つ場所へ。
そう思って踏み込んだ時、地形が変わった。
低い石垣の陰。乾いた溝。捨てられた荷車。
その死角から、傭兵たちが現れた。
前に二人。横に三人。後ろに二人。
気づいた時には囲まれていた。
「しまっ」
言い終えるより早く、棍棒が肩口に叩き込まれた。視界が白く弾ける。喉を狙う短剣が光った。
アルキビアデスは盾で受け、押し返し、槍を突き出す。一本は浅い。もう一本は空を切る。美しく勝つはずの戦いが、急に泥臭く、醜くなった。
誰かが笑った。
「高く売れそうな鎧だ!」
次の一撃で終わる。
そうわかった瞬間、円い青銅の大盾が横から叩き込まれた。
ごつん、と鈍い音がして、短剣が弾かれる。
つづいて槍が一閃した。
一人。
喉を貫かれた傭兵が、声も出せず崩れる。
さらにもう一人。
盾の陰から伸びた穂先が、目の下から頭蓋へ潜り込んだ。
敵がたじろいだ。
その中央に立っていた男を見て、アルキビアデスは息を呑んだ。
あの裸足の男だった。
英雄には見えない顔。貧相な頭。潰れた鼻。出た目。
だが大盾と長槍を構えた姿だけは、異様なほど静かで、ぶれなかった。
「立てるか、若者よ」
ソクラテスが言った。
アルキビアデスは歯を食いしばる。
「……立てる」
「よろしい」
髭面の傭兵長が、槍を構えて唾を吐いた。
「何者だ、てめえ」
「アテナイの重装歩兵だ」
「見ればわかる!」
「では一つ賢くなったな」
さっきと同じことを言っている。
よりによって戦場で。
アルキビアデスは頭が痛くなった。肩も痛いが、それ以上に頭が痛い。
ソクラテスは、戦場にはあまりに不似合いな落ち着いた声で言った。
「死とは何だと思う?」
傭兵長が目を剥いた。
「……は?」
「君はいま、この若者を殺そうとしていた。ならば知っているはずだ。死とは何か」
「ふざけてるのか」
「いや、たずねている」
あまりに真顔だったので、傭兵長は逆に怒鳴り返す間を失った。
「死とは終わりだ!」
「ほう」
ソクラテスはうなずく。
「では今この瞬間、お前がまだ生きている根拠は?」
傭兵長が詰まる。
ほんの一拍。
その一拍で十分だった。
盾の陰から槍が走る。
短く、鋭く、無駄がない。
穂先は傭兵長の喉へ吸い込まれ、次の瞬間には血が噴いていた。
ソクラテスは槍を引き抜き、静かに言った。
「考え込むには、少し遅かったな」
傭兵たちが一斉に後ずさる。
アルキビアデスは呆然と、その背中を見た。
問うた。
相手を考えさせた。
足を止めた。
そして刺した。
問答そのものが戦術になっていた。
「来るぞ」
ソクラテスが言う。
「呼吸を整えろ。怒りは喉を焼く」
「それを今言うか!」
「今だからだ」
敵がまた踏み込みかける。
アルキビアデスは歯を食いしばり、立ち上がった。肩は痛む。腹も立つ。だが立つしかない。
二人は後退した。
逃げるのではない。重装歩兵の足取りで、一歩ずつ引く。
敵が踏み込めば槍が出る。ためらえば距離が開く。
途中、軽装兵が横から飛びかかってきた。アルキビアデスは反射的に盾をぶつけ、体勢を崩した相手の胸を槍で突いた。
手に残る感触で、自分もまた、生き延びるために人を刺したのだと知る。
「よそ見をするな」
ソクラテスが言った。
「死にたいなら止めはしないが」
「死にたくない!」
「なら結構」
やがて味方の陣列が見えた。アテナイ側の重装歩兵が前へ出ると、敵はそれ以上追ってこなかった。
罵声だけ残して、城壁の方へ下がっていく。
アルキビアデスはようやく息を吐いた。兜を脱ぎ、肩を押さえる。痛い。土埃で口の中がじゃりじゃりする。英雄譚というものが、いかに書き手に優しい嘘かよくわかった。
「おい」
ソクラテスは自分の盾についた血を布でぬぐっていた。
「何だ?」
「さっきのは何だ?」
「敵襲だな」
「そうじゃない。問答だ。どうして戦場であんなものをやる?」
「どうしてだと思う?」
「私が聞いている!」
「ではまず、君の考えを聞こう」
アルキビアデスは思わず天を仰いだ。
この男は、会話というものを前に進める気がないのではないか。
いや、あるのかもしれないが、自分が進みたい方向には決して進めないだけかもしれない。
「貴様、本当に人を苛立たせるな」
「そうか。なら役に立つ」
「何にだ?」
「戦場で」
ソクラテスは平然と言った。
アルキビアデスは返す言葉を失った。
目の前の男は、老いて、醜く、裸足で、見たところたいして裕福でもなく、しかも腹立たしい。だが戦場では異様に強い。そしてその強さは、腕力だけでは説明がつかない。
「貴様、名は?」
「さっき言った」
「もう一度言え」
ソクラテスは少しだけ目を細めた。
「ソクラテス」
その名を、アルキビアデスは今度こそ覚えた。
忘れてもよいと言われたが、たぶん忘れない。
忘れられるような救われ方ではなかった。
「若者よ」
ソクラテスが言う。
「何だ?」
「なぜ自分が助かったと思う?」
アルキビアデスは顔をしかめた。
その問いには、いくつも答えがありそうで、どれも安っぽく見えた。
この男が近くにいたからか。
たまたま間に合ったからか。
自分が若く、美しく、将来有望だからか。
だが、どれを口にしても負ける気がした。
「……知らん」
そう答えると、ソクラテスは満足そうにうなずいた。
「結構」
「何が結構だ?」
「今のところは、それでよい」
アルキビアデスは肩の痛みも忘れて、しばらくその顔を睨んだ。
この男は厄介だ。
そしてたぶん、自分はこの厄介さを、知らないままではいられない。




