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剥製男爵

 窓の外では、春の柔らかな陽光がロンドンの街並みを照らしていたが、レスフォード邸のタウンハウスには、それとは対照的な湿り気を帯びた空気が漂っていた。エドワード・レスフォード伯爵は、書斎の窓から退屈そうに外の街並みを眺めていた。そこへ、執事の先導でサリヴァン警部とキングズリー警部補が現れた。

「……またか、サリヴァン警部。君はスコットランドヤードの無能さを報告しに、わざわざここまで足を運んでいるのか」

 エドワードは二人の方には顔を向けず、冷淡な声だけを投げかけた。

「今度は何だ。私の貴重な午後の時間を割くに値する、マシな事件であることを願いたいものだが」

「ご機嫌麗しゅう、伯爵」サリヴァンは、帽子を脱いで慇懃にお辞儀をした。「お忙しいところを恐縮ですが、この春の陽気に誘われて、少々厄介な事件が起こっていましてぇ」

サリヴァンの後ろに控えるキングズリーは、緊張した面持ちで分厚い捜査資料を抱えていた。

「天下のスコットランドヤードが解けない事件だとでもいうのか」

 エドワードが鼻で笑うと、サリヴァンは少々居心地悪そうにした。

「それがそうなんでして。……通称『死体のない殺人事件』。ヤードの無能どもが三年間、尻尾も掴めずにいる事件です」

サリヴァンが目配せをすると、キングズリーが資料を机に広げた。そこには、数人の女性たちの淑やかな肖像写真と、それとは対照的に悍ましい、路地裏にぶちまけられた肉の塊が写った不気味な現場写真が並んでいた。

「死体のない殺人事件?」

「左様で。三年前、キャリー・ゴールドスタインという女性が行方不明になりました。目撃情報は皆無。ですが、彼女の失踪現場のすぐ近くから、おぞましい量の血液と、丁寧に切り取られた脳が見つかったんですよ」

サリヴァンは忌々しげに、手元の調書を指で叩いた。

「検視官のベイリー博士は即座にそれが『人間のもの』だと断定しました。ですが肝心の『本体』がどこにもない。脳を抜き取られておきながら、彼女が死んだという物理的な証拠——つまり死体が見つからない以上、我々は彼女を『行方不明者』として扱うしかなかったのです。その後もマーガレット・ハバード、エミリー・セントジョン・レントンと続き、その都度、脳だけが現場に遺棄されてきました」

サリヴァンが顔を上げ、エドワードの冷徹な瞳を仰ぎ見る。

「そして先週、三年ぶりに同様の事件が起こりました。クリスタベル・ケネディ。彼女が行方不明になった直後、またしても脳が見つかった。だが、肝心の本体が見つからない。肉も、骨も、顔も。……犯人は、脳だけでは逮捕できないと知ってこちらをあざ笑っているんですよぅ」

「……なるほど、切り裂きジャックとは逆、というわけか」

エドワードは写真の一枚を指で弾いた。ジャックは死体の臓器を切り取り、死体を町中に晒した。だがこの犯人は、命の維持に不可欠な臓器をゴミのように捨て、その外側だけを執拗に求めている。必要なのは、死んだ外側なのだ。

「奴は彼女たちを人間だと思っていない。その脳は、まるで精密機械を分解するように、丁寧に置かれていたのではないか?」

「……おっしゃる通りで。現場に残されていたのは、損壊のない、見事なまでに摘出された人間の脳でした。それが、銀のトレイにでも載せるかのように、路地裏にぽつんと置かれていましたよ」

「なるほど。ならば、彼女たちは今もロンドンのどこかで、美しい形のまま生き長らえているのかもしれんな。……思考することも、言葉を発することもできない状態でね」

「どういう意味です?」

「そのままの意味だ――彼女たちは剥製にされている。サリヴァン警部。彼女たちが中流階級以上の淑女であること以外に共通点は?」

「それが、キャリー・ゴールドスタインもマーガレット・ハバードもエミリー・セントジョン・レントンもクリスタベル・ケネディも熱心なサフラジェットだったらしくてですねぇ。犯人は、物言う女性であるサフラジェットたちを狙っているものかと」

「閣下、こちらの地図をご覧ください」

 キングズリーが地図を広げた。ロンドンの地図に、赤い印がいくつもついている。

「この印は、被害者のものとみられる脳が見つかった場所です。クレメント・インをはじめとして複数ある。そして、これらの場所は、サフラジェットの集会場所でもある。サフラジェットたちへの見せしめであることは明白だ」

「見せしめ、か。……いや、警部。これはただの見せしめではない。装飾化だよ」

「装飾化ですって?」

キングズリーが素っ頓狂な声を上げた。

「犯人にとって、彼女たちの権利を叫び、不遜に思考する脳は、女性の美しさを損なう不純物でしかない。被害者は皆、教育を受けた淑女だ。そんな彼女たちを、物言わぬ、従順な、ただそこに在るだけの『置物』に作り替える。奴は脳という『意志』を掻き出し、代わりに石膏を流し込むことで、彼女たちをようやく『飾るに値する美しい調度品』へ昇華させているのだよ。奴の目には、生きて動く女は未完成のガラクタにしか見えていない。中身を捨て、肉体という殻だけにしてこそ、永遠の淑女、『家庭の天使』として完成する。……この異常な執着と、解剖学的な精密さを併せ持つ人間。サリヴァン警部、この博物学隆盛のロンドンで、人体を芸術の域まで高めて標本にできる男が、一体何人いると思う?」

「それは……確かに、剥製技術を持つ者は限られますが。ですが閣下、人体の剥製など、倫理的にも医学的にも容易なことでは……」

「だからこそ、プロトタイプが必要だ。……ウィル、学会の名簿を持ってきなさい」

すると、ハルとともにずっとそばで控えていたウィルが、書斎の本棚から一冊の分厚い冊子を抜き取って差し出した。

「博物学および解剖学学会の、過去五年の会員名簿です」

「博物学は今や英国の誇りですからねぇ。これほど候補がいては、絞り込みも……」

サリヴァンが名簿を覗き込むが、エドワードの指はある一点で止まった。

「……いたよ。レオポルド・ラグランシュ男爵だ」

「ああ、あの愛妻家の……。ですが閣下、彼は剥製を『愛の形』として昇華させた聖人とまで言われていますよ。奥方のエヴァ夫人は、研究熱心な夫を支えた内助の功で知られていた。彼女自身の希望で剥製になったと聞いていますが……」

「内助の功、か。そのエヴァ夫人の剥製はどうなった?」

「しばらくは、夫人の遺言どおり後世のために展示されていたそうですが、ラグランシュ男爵が『妻が見世物になるのが耐えられない』と非公開にしたと聞いています。でも、男爵の愛は有名でしたから、確か雑誌の記事になっていたかと」

「雑誌の記事か。何年ごろだ?」

 雑誌を取り寄せると、その記事の挿絵として、目を伏せ、控えめに微笑むエヴァの剥製の姿が描かれていた。

「……解せないな。エヴァ夫人は、夫の研究に実質的に寄与したと言われるほどの才女だったはずだ。だが、このポーズはどうだ? これは研究用の解剖資料ではない。ただの『貞淑な妻』の押し付けだ。知性あふれる妻を、自分の思い通りの形に固定して黙らせる。……エヴァ夫人でもって、ラグランジュ男爵はこの『成功体験』を手に入れたのだよ。そして今、彼はその喜びを街中のサフラジェットたちに広げようとしている。……彼女たちを、死んだ妻と同じ『理想の天使』に変えるためにね」

「ですが、挿絵だけでそこまで……大衆に受けるように美しく描いたのかもしれません」

 キングズリーが反論した。

「写実で有名な挿絵家、ジョージ・スモールが?スモールは、真実エヴァの剥製がこうだったからそのように描いたんだろう。……見てみろ。脳を抜かれたエヴァ夫人のこの表情を。これは研究資料ではない。……『ようやく黙って私に従うようになった』と喜ぶ、男の身勝手な欲望の写し絵だ」

 エドワードは言い切ると、サリヴァンに向き直った。

「……サリヴァン警部、この男爵の日常を調べさせろ。これほどまでに『静止した美』に執執する男が、どこで次の獲物を品評しているのかをな」

サリヴァンは困惑しながらも、手帳をめくった。

「……ラグランシュ男爵については、ヤードでも素行を洗ったことがあります。目立った醜聞はありませんが、異常なほどのオペラ愛好家として知られています。シーズン中は毎晩のようにロイヤル・オペラ・ハウスのボックス席に陣取っているとか。ですが、それが今回の事件とどう繋がるのです?」

「オペラハウスは、ロンドンで最も美しく装飾された女たちが、一堂に会する場所だ。奴にとって、そこは劇場ではなく見本市であることだろう」

エドワードは言うと、冷たい目つきで二人を眺めた。

「さて、警部。君たちは君たちの仕事をしたまえ。私は、男爵がどのような基準で『素材』を選んでいるのか、その下俗な審美眼を直接拝ませてもらうことにする。……サリヴァン警部、君たちはせいぜい、公文書の整理でもして夜を明かすといい」

キングズリーはあまりの言われように顔を怒りで赤くしたが、サリヴァンはエドワードの独断的な態度をさらりと受け流した。

「では、閣下。のちほど」

サリヴァンはキングズリーを連れて退室していった。


「……ロイヤル・オペラ・ハウスか。あそこはロンドンで最も高価な標本箱だよ。ラグランシュ男爵のような男にとっては、舞台のソプラノ歌手よりも、ボックス席で静かに息を潜めている名家の娘たちの方が、よほど鑑賞に値する『作品』に見えるだろうな」

「最近は抗議のためにサフラジェットカラーを身に着けて社交に乗り込む女性たちもいるらしいしね」とハルが言った。

「なら、男爵はオペラハウスでも獲物を物色しているかもしれませんね」ウィルが言った。

「ハル、ウィル。正装に着替えるぞ。ロイヤル・オペラ・ハウスのボックス席に相応しい、最高に退屈で、最高に贅沢なやつにな」

 エドワードは、オペラ鑑賞に行く貴族へと変身するために主寝室の奥にある更衣室へと入った。ここは三姉妹以外の立ち入りが厳格に禁じられた、この屋敷で最も閉ざされた場所だ。

まず、日中のシャツが脱ぎ捨てられ、肌に近い層からエドワードの「伯爵」としての肉体が構築されていく。女性特有の柔らかな線を殺し、少年のようにも、あるいはあまりに細身の紳士のようにも見える体躯へと作り替えられる過程を、ハルとウィルが手際よく支えた。糊のきいた真っ白なスターチド・シャツが補正布で押しつぶされた胸を覆う。胸元には、真珠のスタッズボタンが等間隔に並んでいる。エドワードの指先が、硬く詰められた高い立ち襟を整え、そこに純白のシルクで作られたホワイト・タイを、一分の隙もなく結び上げた。

エドワードは、その上からさらに燕尾服を着せてもらった。そのカッティングは、エドワードの細身ながらもしなやかな肢体を完璧に際立たせるよう計算し尽くされたものだった。肩のライン、絞られたウエスト。袖を通した瞬間、エドワードの背筋がさらに一段、冷たく伸びた。

仕上げに、左胸に白いクチナシの花のブートニエールを挿す。数時間で萎れてしまうこの生花を飾ることは、この階級特有の、無意味で贅沢な儀式の仕上げだった 銀の懐中時計のチェーンをベストに渡し、エドワードは鏡の中の「完璧な伯爵」を一瞥する。

「……さて、行こうか。今夜の演目はヴェルディの『アイーダ』だ。悲劇のヒロインが窒息死する物語だ。男爵の好みに、これほど誂え向きな夜はない」

エドワードは、翻した燕尾服の裾を夜の空気になびかせ、更衣室を後にした。その足取りは、これから獲物を追い詰める猟犬のそれでありながら、同時に、自らも「最高に美しい囮」として舞台へ上がる役者のような、優雅な毒を孕んでいた。


馬車がコヴェント・ガーデンの石畳を叩く音とともに、ロイヤル・オペラ・ハウスの前に滑り込んだ。エドワードとハルとウィルは、夜会服の規定に従い、燕尾服とホワイト・タイ、シルクハットという完璧な正装に身を包んでいた。

エドワードは馬車を降り、夜の冷気に紛れる微かな馬糞と香水の匂いを無視して、大階段を上がった。

ロビーは、最新の流行を競い合う貴族や富裕層で溢れかえっていた。女性たちは白や淡い色のドレスに身を包み、扇子や宝石で自らを飾っている。その華やかな光景の中に、エドワードはサフラジェットたちを見つけた。数人の女性が、ドレスに、紫・白・緑のサフラジェットカラーのリボンやブローチをそれとなく忍ばせている。彼女たちは騒ぎ立てることはせず、毅然とした態度で周囲の保守的な視線を受け流していた。

エドワードが彼女たちをどこかで見ているであろうラグランジュ伯爵を探すと、彼は友人らしき紳士たちと談笑していた。

「やあ、ジョン。君はまだ独身を貫くつもりか?」

「いやぁ、そろそろ家庭という落ち着きも欲しいとは思いますよ。ですが、独身の気楽さに勝るものもなくてね」

「……嘆かわしいことだ。この大英帝国の淑女の質は、年々下がる一方だよ。かつてのような、静謐で、慈愛に満ちた『家庭の天使』は、一体どこへ消えてしまったのかね」

 周囲の男たちは、男爵の言葉に調子を合わせた。

「正解だ。嫁など貰っても、家でヒステリックに文句を垂れるだけで、良いことなど一つもありはしない。その上、年を追うごとに劣化していく一方だ」

ドッと下品な笑い声が弾ける。

「全くだ。うちの家内など、今や見る影もありませんよ」

「ウォルター、君の奥方はかつて社交界の華だったじゃないか」男爵が言った。

「それが子供を産んだ途端、体型が崩れてしまいましてね。この前など、コルセットを少し締めただけで気絶する始末だ。女というのは、母になれば女ではなくなる。家庭の天使どころか、悪魔のように口うるさくなるばかりで、もう……」

ウォルターと呼ばれた男は、大袈裟に嘔吐する真似をして見せた。

「そういうあなたこそ、再婚はされないのですか? 奥様が亡くなられて、もう随分と経つでしょう」

問いかけられたのは、輪の中心に立つラグランシュ男爵だった。

「なかなか、理想に適う者がいなくてね」

伯爵は杖を忌々しげに握りしめ、客席を睥睨した。

「見てみろ。あちらの令嬢は、一言でいって不細工だ。大根のように太い脚に、貧相な骨格。骨相学的に見れば一目瞭然だ、あの額の突出は、女には不要な『自己主張』の肥大化を示している。あんな歪な造作の女に、私の傍らで微笑む資格はない。…… ではあちらは? 下品なこと極まりない。知性の欠片もなく、ただ乳をぶら下げているだけの乳牛だ。あのように肉ばかりが弛んだ個体は、精神の気高さとは無縁だよ」

そして、ラグランジュ男爵の視線が、ロビーの端でサフラジェットのリボンを付けた、痩身で神経質そうな女性に止まった。

「……そして、あれを見たまえ。権利を主張するブスどもだ。あんな風に、本来の役割を忘れて男の学問や政治に首を突っ込むから、生命力が脳に吸い取られ、肝心の子宮が萎縮してしまうのだ。見てみろ、あの乾いた肌、浮き出た血管、余裕のない口元。……あれはもはや女ではない、ヒステリーという病を煮詰めただけの不毛な装置だ。知性が増えるほど、肉体は瑞々しさを失い、可愛げのない怪物へと成り下がる」

「確かに! 今の女性は、少しばかり主張が激しすぎますな」

 周囲の男性たちはこぞって膝を打った。

「……劣化だ。これは帝国の衰退そのものだよ。出来損ないの素材ばかりが街に溢れている。私の妻、エヴァンジェリンのように貞淑な女性はもはや絶滅危惧種だ」

「はっはっは、相変わらず厳しい!」

男たちの無神経な品評に、周囲を通る淑女たちが冷ややかな視線を送るが、彼らはそれに気づく様子もない。熱っぽく語るラグランジュ男爵の瞳には、愛する者を失った悲しみではなく、未完成のガラクタを壊して作り直したいという、職人的な、あるいは神にでもなったかのような傲慢な意志が宿っていた。


一幕が終わり、劇場のガス灯が明るく灯されると、観客たちは一斉にロビーへと流れ出した。エドワードは柱の影から、獲物を見据える視線でラグランジュ男爵を追う。ラグランジュ男爵は友人たちと別れると、人混みの中を、先ほど彼が「ヒステリーの不毛な装置」と蔑んでいたサフラジェットの女性に向かって歩き出した。

彼女は一人、回廊の窓際で夜風に当たっていた。ラグランジュ男爵は熟練の役者のような柔和な笑みを浮かべて彼女に近づく。

「……行くぞ」

エドワードの短い合図とともに、ハルとウィルが音もなく動いた。

ラグランジュ男爵は、ぐいと乱暴に彼女の腕をつかんだ。女性が驚きのあまり声を失っていると、男爵は、白く清潔なハンカチを取り出し、クロロホルムのしみ込んだそれを押しつけようとした。

「君が悪いんだ」

「嫌……たすけ、て……」

 女性の声は、恐怖のあまり掠れて小さくて、誰にも届かない。

そのとき、ハルがわざとらしく足をもつれさせ、ラグランジュ男爵と女性の間に割り込んだ。

「あれ、お姉ちゃん。こんなところにいたの?お義兄ちゃんが探してたよ?」

 ハルは自然な動作で女性の肩を抱き寄せ、ラグランジュ男爵の射程圏内から彼女を引き剥がした。

ラグランジュ男爵の顔から一瞬、紳士の仮面が剥がれ、獣のような殺意が漏れ出た。だが、その怒りが爆発する前に、ウィルが反対側から男爵の肘を軽く払い、床に落ちたハンカチを拾い上げた。

「お召し物が汚れてはいけません、閣下」

 ウィルは無表情にその布を男爵の手へと戻した。ラグランジュ男爵の手が微かに震え、彼は舌打ちをしてその場を去っていった。

その様子を一部始終観察していたエドワードは、ラグランジュ男爵が犯人だと確信を持った。

「大丈夫?危なかったね。ごめん、オレら、助けに入るの遅かったよね?」

 そのころ、ハルは気がすっかり動転している女性を介抱していた。

「いえ。助けていただき、ありがとうございます」

「あ、兄ちゃん。あいつはどこいった?」

 エドワードが来たのを見て、ハルが聞いた。

「何食わぬ顔で自分の席に戻って行ったよ。すまない、お嬢さん。オペラどころではなくなってしまいましたね。おうちに帰られるならお送りしますよ。それとも警察がいいですか?」

「いえ……いえ……本当に、大丈夫なんです。でも、そうですね、うちの旦那に言って、今日のところは家に帰ります」

 ちっとも大丈夫じゃなさそうな女性がいった。

「では、ハル。旦那様のもとまでお送りしなさい」

「はーい」

 ハルは女性の夫を探してロビーの人込みの中に戻っていった。

「……ラグランジュ男爵は黒だな」エドワードがウィルにいった。

「ええ、ぼくが拾ったあのハンカチ、薬品がしみこませてありました。おそらく、クロロホルムかと」

「ああ、そして獲物を逃した時のあの眼。奴は『家庭の天使』が絶滅したと嘆きながら、自らの手でそれを作り出すことに悦びを感じている」

「でも、兄さん。これだけでは証拠になりません。ヤードを動かすには、消えた死体が必要です」

ウィルの言葉に、エドワードは冷酷な笑みを浮かべた。

「ああ。だからこそ、奴が消えた死体を隠している聖域へ招いてもらう必要がある。……ウィル、例の準備を。」

「わかりました」


レスフォード邸の広々としたエントランス・ホールは、今やロンドンの裏路地よりも騒がしい喧騒に包まれていた。

「連絡が来てみれば、なんなんですかねぇ、これは」

駆けつけたサリヴァン警部が、珍しく驚いた様子でいった。

隣のキングズリー警部補にいたっては、目の前を通り過ぎる巨大なホッキョクグマの剥製に、あわやぶつかりそうになって飛び退いている。

大階段の下では、白手袋をはめた大勢の博物館職員たちが、上から下への大騒ぎで重量物を運び込んでいた。

「そこ、角をぶつけるな!」

「もっと慎重に運べ、羽が折れたらどうする!」

 博物館の責任者らしき男が、大声を張り上げている。

「閣下、一体どういう風の吹き回しです? あなたの屋敷が、まるで自然史博物館の別館のようになっていますが」

 サリヴァンがエドワードに問いかけた。

「……ウィルのつてでね。ある貴族から博物館に寄贈された剥製を、しばらくこの屋敷で預かることになった。相続した息子さんの趣味ではなかったようで、寄贈されたはいいものの、急なことで博物館側にも保管場所がなかったらしくてな。新しい建物を建設するまでの間、場所を提供してほしいと泣きつかれたのさ」

エドワードは二階の回廊から、不機嫌そうに搬入作業を見下ろしていた。

「いいですか、閣下!」

書類を抱えた博物館の職員が、エドワードの元へ駆け寄り、詰め寄るように言った。

「くれぐれもカビを生やしたり、虫が湧いたりするようなことはしないこと。直射日光にも気を付けてください。剥製が退色して美しい色が損なわれてしまいます。汚い手でべたべたと触るのもなしです。絶対に、ぜぇったいに、タバコの火を近づけて焦がしたり、手を滑らせて紅茶をぶっかけたりしないでください。それから!」

職員は、そばにいたハルとウィルを鋭い目つきで指差した。

「やんちゃな子供を決して剥製に近づけないように!」

名指しをされたハルとウィルは、これ以上ないほど不服そうな顔をしていたが、エドワードは「わかった、わかった。責任をもって私が預かろう」と、なだめるように言って職員を送り出した。

職員はなおも信用していない顔を隠さなかったが、それ以上は口をつぐみ、搬入作業の完了を確認すると、足早に屋敷を去っていった。

「ひどいです。僕が博物館と兄さんを繋いだのに、僕を資料の価値もわからない子供扱いをするなんて」

 ウィルが肩を落として呟くと、ハルが苦笑してその肩を叩く。

「まあ、まあ。あの人は剥製が心配でたまらないんだよ」

ようやく静かになったホールを見渡し、サリヴァンが改めて尋ねた。

「……それで、閣下。この騒動が、例の『死体のない殺人事件』とどう繋がるのです?」

「……さて。このコレクションは、元の持ち主の個性が強すぎるな。生涯にわたって大金を投じて集めただけあって種類も質も多岐にわたっているが……よし、コレクションを組み直そう。ハル、ウィル」

エドワードは、ずらりと並んだ剥製たちを冷徹な目で見定めた。

「そこに少ないが魚のコレクションがあるな、それはそのままだ。貝も置いていけ。虫……蝶は穏当なものを少し。動物を中心にする。そこのライオンとトラ、それから色鮮やかな鳥を一式持っていこう。……そのホッキョクグマはダメだ。流通が限られているから、借り物だとわかってしまうかもしれない」

「……で、私は一体何を見せられているんです?」

サリヴァンが、こめかみを押さえながら聞いた。

「近々、ごく限られた剥製愛好家の間で、秘密の博物館の開館式が行われる。……どうもそこには、人間の剥製がコレクションされているらしい」

「人間の……?」

キングズリーが素っ頓狂な声を上げた。

「もちろん、表向きは同意を得た科学的標本だ。だが調べたところでは、攫われたサフラジェットたちが標本にされている疑いが強い。……サリヴァン警部、ここにある剥製は、犯人と目されるラグランシュ男爵を釣るための餌だ」

エドワードは、わざと出来の悪いライオンの剥製を指差した。

「今からコレクションを揃えるのでは時間がかかりすぎる。この剥製たちは、記録上は博物館にあることになっていて、ここにあることは誰も知らない。……私はこれらを並べ、『金が有り余っているだけの、残念な成金コレクター』を演じて男爵の信用を取り付ける。そして、秘密の博物館の開館式の招待状を掴む。サリヴァン警部たちは開館式の日に屋敷に入り、ラグランジュ男爵が女性たちを殺した証拠を押さえてほしい」

「そううまくいきますかねぇ?」サリヴァンは疑問を呈した。

「私とハルとでここまで調べた。だが、剥製が屋敷の中に隠されているというのが難点だ。こちらが探っているとわかれば、証拠を隠滅する可能性もある。一番ラグランジュ男爵が油断している日は、開館式の日だろう。我々がラグランジュ男爵を追い詰める。それまでに逮捕の準備をしておいてほしい」

「わかりました。仰せのままに」

サリヴァンはわざとらしくお辞儀をすると、キングズリーを促して去っていった。残されたのは、博物館から届いたばかりの、玉石混交の剥製たちが並ぶ異様な空間だけだ。

「……さて、ハル、ウィル。ここからは、いかに私が『審美眼の壊滅した、金だけが取り柄の若造』に見えるかの勝負だ」

エドワードは、あえて首の角度が不自然なライオンの剥製を見つめ、冷たく口角を上げた。

数日後、レスフォード邸は剥製にしか興味がない少年伯爵の悪趣味なコレクションルームへと作り替えられた。そこへ、獲物であるラグランジュ男爵が足を踏み入れる。

「レスフォード伯爵閣下、お初にお目にかかります」

「ようこそ、ラグランジュ男爵」

エドワードは、派手なガウンを羽織り、いかにも成金らしい尊大な態度で彼を迎えた。

「剥製で高名なあなたをお迎えできて実に嬉しい。いや、実は、先代の趣味が狩りでしてね。若いころは、インドやアフリカで虎狩りやライオン狩りをして、何十頭も仕留めたそうです。その影響で、私もまた、剥製に興味を持ちまして。自分でも集めるようになったんです」

「ほう」

ラグランジュ男爵は、部屋に並べられた「出来の悪い」剥製たちを、馬鹿にするような目で見渡した。

「永遠で崇高な美たる自然を閉じ込め、いつでも感じられるというのは素晴らしい。保管に手間がかかりますが、その時間もまた愛おしくて。特に、私は生命を感じられる剥製を選んで買うようにしているんです」

エドワードは、わざと自分のコレクションに満足し、専門家に自慢するようなうっとりとした口ぶりでいった。

「生命を感じられる?」

ラグランジュ男爵は専門家として、質の悪いコレクションに嫌悪感を示しながら聞き返した。

「そうです。大自然に生きたままというか、今にも動き出しそうな……」

 エドワードがそれに気づかないフリをして話を続けると、「ハハハ。失礼ながら閣下。それは、生きて大地を駆けるこれらの動物を実際に目にしたことがないから言えることですな」 とラグランジュ男爵は我慢しきれない様子で、嘲笑を漏らした。

「というと?」

「ここにあるコレクションは、『生命を感じられる』という出来からは程遠い。いや、立派な剥製であることは認めましょう。しかし、一流の出来ではない。この鳥なんて、撃たれて地面に落ちた姿のままじゃないですか。こんなものは、イングランドで野鳥を撃ち落せばいくらでも見られますよ。そこらの鳩や雁じゃないんだから、こんな風にしてはもったいない。私に任せてもらえば、もっと質の高いものを提供しますよ」

「本当ですか? いいものでしたら、たとえいくらでも即金で買いますよ。何しろ、それぐらいしか趣味がないもので」

エドワードは、コレクター欲を刺激されたいいカモを演じて食いついて見せた。

「またまた、閣下。これしか趣味がないってことはないでしょう。金に飽いているなら、女はどうなんです?レスフォード伯爵家ともなれば、素敵な許婚の一人や二人、いるんじゃありませんか?」

「家同士の約束はありましたが、先代の父が早くに亡くなったので、すぐにご破算となってしまいました。ですから、モテない独身の私は、ひとり侘しくこのような趣味にお金をつぎ込んでいるわけですよ」

「ハッハッハ。いや、失礼。しかし、まあ、それも悪くはないですよ。何しろ、昨今は女性の質が悪い」

ラグランジュ男爵の目に、先日のオペラハウスで見せたような、冷酷な光が宿った。

「ときに、ラグランジュ男爵」

「なんです?」

「私は生きている女性に興味はないが、剥製の女性には興味があります」

「剥製の女性? なんとも奇妙なことをおっしゃる」

「ごまかさないでください。私はしかるべき筋からその話を聞いたんですよ」

「誰から聞いたんです?」

ラグランジュ男爵の眉が跳ね上がった。エドワードは、身振りで耳を近づけるようにと示すと、ラグランジュ男爵の耳に「その名前」をささやいた。三人で調べ上げた、推薦人としておかしくない人物の名前だ。一か八かの掛だったが、ラグランジュ男爵は、その名前を聞いてハッとした様子でエドワードを見つめ返した。

「どうですか?」

エドワードは、無邪気で残酷な、金持ちの子供のような笑みを浮かべた。

「冴えない、モテない、独身の私を憐れんで、ここはひとつ」

「……まあ、いいでしょう。招待しましょう、閣下。これは特別ですよ」

「ありがとうございます。ああ、それから、いい剥製をご紹介くださる件も忘れないでください」

「もちろんですとも」

「では、これにて。玄関まで案内いたしましょう」

 男爵は、ガウンのまま自分を見送ろうとする主人の無作法さに、内心で失笑した。

「いえいえ。それには及びません」

 だがエドワードは、子供が新しい玩具を見せびらかすような足取りで、廊下を並んで歩き出した。

「いやいや。剥製のことでここまで話が弾んだのは初めてです。これからもぜひよいお付き合いをしたいので、そのぐらいさせてください。……ああ、ラグランジュ男爵。次の『例の場所』での再会が、今から待ち遠しくてたまらないのですよ」

玄関ホールで執事から帽子を受け取ったラグランジュ男爵は、エドワードの「必死さ」に満足げな笑みを浮かべ、一礼して馬車へと乗り込んだ。

扉が閉まり、その姿が見えなくなった瞬間。エドワードの顔から熱っぽい笑みが消え、凍り付くような無表情が戻った。

「うまくいったね、兄ちゃん!」

「言わないでくれ。今、連続殺人鬼をもてなしたことで自己嫌悪に陥っているんだ」

「でも、兄さんのやり方は完璧でした!」

「俺が『おバカな道楽者のボンボン』だって信じてくれて助かった。そのためにわざと粗悪な剥製を選んで隙を作り、モテないアピールをして同情を引いたわけだが。……さて、このままうまくいくといいな」


 「秘密の博物館」と銘打たれたその場所は、異様な熱気に包まれていた。最新の科学的知見を求める紳士たちが、ワイングラスを片手に、整然と並ぶ「女性の標本」を鑑賞している。彼らにとって、これは残酷な見世物ではなく、野蛮な感情を排除した「高尚な教養の場」であった。

エドワードが頭を巡らせて招待主であるラグランジュ男爵を探すと、彼は一人の男性と熱心に歓談中だった。名目上は科学的に女性を扱った展示会であるため、その男性は事もあろうに妻と年若き娘を伴っている。

「思春期特有の少女の体つきを見事に再現していて素晴らしいですな。この頬のまろみと、曲線美。……剥製とはいえ、これほどまでに瑞々しいとは。裸体だったらもっと存分に堪能できたのになんとも惜しい」

「ははは。あとで個人的にお見せしましょうか」

「それはいい!」

下俗な欲望を「芸術への感銘」という言葉ですり替え、男たちは笑い合う。そこへエドワードが、成金らしい足取りで近づいた。

「ようこそ、伯爵」

「お招きいただき感謝いたします。……素晴らしい趣旨の展覧会ですね」

「わかっていただけますか!」

ラグランジュ男爵の瞳に、パトロン候補を見つけた期待の色が浮かぶ。

「私は、大英帝国における女性の質の向上のためにこの展示を企画したんです。よろしければ案内いたしましょう」

エドワードは黙って頷き、ラグランジュ男爵に従って歩き出した。そこには、精巧なジオラマに閉じ込められた女性たちがいた。化粧台の前で髪を結う者、夫への献身を象徴するようにお盆を捧げ持つ者、ピアノの前で連弾する姉妹。彼女たちの肌は蝋人形のように滑らかで、その表情には一片の「不満」も「意志」も存在しない。

 薔薇色の頬をした幼い少女と戯れる女神のような女性の姿を見た瞬間、エドワードの喉の奥に苦いものが込み上げた。この男は、成長という変化すら奪い、子供までをも「置物」へと作り替えたのか。

そして、展示の最後、最も高い祭壇のような場所に、その剥製はいた。

「最愛にして、最高の妻」

ラグランジュ男爵は誇らしげに胸を張り、その像を仰ぎ見た。

「閣下。これが私の妻、エヴァンジェリンです。彼女は至上の女性だった。名家の出身で、美しく、常に優しく、愛情深い……。決してふしだらではなく、献身的で、慎みというものを知っていた。昨今の女どもとは違う。彼女は病で亡くなりましたが、自ら私の手で剥製になることに同意したのです。彼女こそが、全ての女性の規範となるべき『完成形』だ」

周囲の観客からも、感嘆の溜息が漏れる。しかし、その静寂をエドワードの冷徹な声が切り裂いた。

「……私が聞いた話とは、いささか違いますね」

ラグランジュ男爵の笑顔が、ぴくりと引きつる。

「ラグランジュ男爵夫人、旧姓エヴァ・コートネイは、田舎のお屋敷で緑に囲まれて育ちました。幼いころは動物が大好きで、活発な女性だったそうです。規則の多い寄宿学校の生活は彼女の肌には合いませんでしたが、それも淑女の定めと教育を受け、結婚をします。あなたを結婚相手に選んだのは、あなたが動物学者で、あなたとフィールドワークに出かけたり、研究の手助けをしたりして、動物と接点のある生活を送ることを望んだからでした。しかし、エヴァの期待は裏切られます。それは、あなたが異様に嫉妬深い人だったからです。あなたは、妻が耳目を集めることを嫌いました。一度、火かき棒を振り回し、彼女にやけどをさせたことがあったそうですね。あ、ほら。ここにやけどの痕があります。さすが当代随一の剥製師として名高いだけありますね。それがきっかけで、エヴァは家の外に出ることをあきらめ、妻として、あなたの仕事を支えることもあきらめました。それでも、あなたの手で剥製になることに同意したのは、このような個人の欲を満たすためのジオラマにされることを想定してではなく、そんな自分の体でも自然科学の発展に寄与できると考えたからでした」

 ここまでくると、展示会のお客もみなラグランジュ男爵を見ていた。

「嘘だ!こいつはうそつきだ!どこにそんな証拠がある?」

 ラグランジュ男爵夫人は激高した。

「エヴァ本人が妹に書き送った手紙です」

エドワードは、手書きの紙の束を出して見せた。

「このほかにも、エヴァは、一人で動物の研究を続けていました。庭にやってくる鳥を観察し、丁寧にその生態の記録をつけていたのです。その記録は、彼女の妹と従兄を筆頭に、親族がお金を出し合って近々出版されるそうです。自分の妻が文字を書き、研究をしていたとはご存じありませんでしたか」

 すると、ラグランジュ男爵は、つかつかとエドワードに歩み寄り、紙の束を奪って放り投げた。エヴァの文字が綴られた紙の束は、バラバラになって散らばり、博物館の床に落ちた。

「女が書いた文字など信用できるか!」

ラグランジュ男爵は、原稿を土足で踏みつけると、肩をいからせて怒った。

「スポンジ頭の女どもめ。あいつは私のおかげで生きていたんだ!お前も男なら、きちんと目を見開いて見ろ!」

ラグランジュ男爵は、激しい身振りでエヴァの剥製を指さすと、エドワードに迫った。

「これが正しい女性の在り方だ!」

 指さされた「美しく貞淑な」妻の剥製は、据え付けられた一段高い場所から、ガラス玉の瞳で虚空を見つめていた。エドワードは、その剥製を見つめると、そこから生きていた一人の人間としてのエヴァの痕跡を読み取ろうとした。

「あなたはこの世に存在しない女性の姿を愛し、その幻想のために何人もの女性を殺したんですね」エドワードは静かに言った。

「殺しただと?この私が?ハッ。それこそどこにそんな証拠が?」

「あれれぇ。この女性は、行方不明になっていたクリスタベル・ケネディと特徴が一致しますねぇ」

「誰だ、お前は」

「これは失礼」サリヴァンは帽子をとって、慇懃無礼にお辞儀をしてみせた。「スコットランドヤードのユージン・サリヴァンと申します。これから、何かと顔を合わせることになるかと思うんで、以後、お見知りおきを」

「なんだ、浮浪者め。出ていけ!」

ラグランジュ男爵は激高した。だが、その後ろからキングズリーがやってきた。

「ユージン。あちらのご婦人は、行方不明になっていたキャリー・ゴールドスタインと特徴が一致する」

 ラグランジュ男爵は、キングズリーもにらみを利かせたが、いかにも英国紳士然としたキングズリーをサリヴァンのように頭から怒鳴りつけることはできなかった。ラグランジュ男爵が怒りのあまり、口をぱくぱくさせて言葉を発せずにいる間に、キングズリーがラグランジュ男爵のほうに向きなおってこう言った。

「私はスコットランドヤードのアルフレッド・キングズリー警部補だ。ラグランジュ男爵。殺人の容疑で逮捕します」

ラグランジュ男爵は、あまりに予想外の出来事にぽかんとした。

「待て。何かの間違いだ。そうだ、ヤードが間違っている。ここにある剥製はみな、研究用の重要なものだ!勝手に触れるな!」

「お話は署でゆっくりと聞きます」

 キングズリーがラグランジュ男爵に手錠をかけた。

「このぶんだと、余罪もきっとありますねぇ。仕方ない。念入りに捜査しますか。はいはい、みなさん。きりきり、手順よくいきましょー」

 サリヴァンが、巡査たちに発破をかけるようにパンパンと手を鳴らした。

逮捕の喧騒の中、ラグランジュ男爵は、巡査たちに両脇を抱えられ、呪詛を吐き散らしながら引き立てられていった。

その去り際、エドワードは男爵の手首を、冷徹な力で掴んだ。

「な、なんだ! 離せ、無礼者!」

狼狽するラグランジュ男爵を無視し、エドワードはその右手に嵌められた白い手袋を、躊躇いなく剥ぎ取った。露わになった男爵の指には、左手の意匠の上にLの文字が刻まれたシグネットリングがあった。

――間違いない、五肉祭の一員だ。

エドワードの瞳が、その印章を射抜くように凝視した。

 これであの忌まわしい組織のメンバーのうち、一人を確実に絞首台へと送り届けることができた。

――あと二人……。必ず、同じ地獄へ引き摺り下ろしてやる。

エドワードは氷のような熱が燃え上がるのを感じた。

「……閣下?一体何をなさっているんです?」

サリヴァンが怪訝そうに尋ねた。

「わざわざこの男の手袋を剥いで、指輪を眺めるなんて」

エドワードは、男爵の手を放すと、いつもの無機質な微笑を唇に浮かべた。

「……いえ。剥製師にふさわしい、よく手入れされた指だと思っただけですよ。気にしないでください、サリヴァン警部」

サリヴァンは、エドワードの瞳の奥に一瞬だけ宿った、底知れない闇を見逃さなかった。しかし、彼は深く追及することをあえて避け、肩をすくめて答えました。

「……あなたが『気にするな』と言うなら、私はそうすることにしていますよ。それが、あなたと上手く付き合うコツですからねぇ」

サリヴァンが再び巡査たちへの指示に戻った。

「兄ちゃん」

エドワードのそばに、ハルたちがやってきた。

「……終わりましたね、兄さん」

ウィルが、床に散らばったエヴァの手紙を静かに拾い上げ、エドワードの手元に重ねた。その声は、いつものように冷静で、しかし確かな連帯の響きを帯びていた。

「ああ。ひとまず一人は、その報いを受けさせる準備が整った。……左手の『L』。ラグランジュ男爵」

 エドワードは、自らの掌に残る冷たい感触を確かめるように拳を握りしめた。復讐の火は、消えるどころか、さらに深く、静かにその芯を熱くしていた。

「あと少しだね、兄ちゃん。右足の『F』と、頭の『N』……。そいつらも、必ず見つけ出してお仕置きしなきゃ」

「ああ。五肉祭の宴は、まだ幕を閉じてはいない。俺たちにあんな目を合わせた組織のやつら全員に、相応の終焉を用意してやる」

エドワードは最後にもう一度だけ、ガラスの瞳の「最高の妻」の標本を見つめてから、ロンドンの夜へと歩き出した。

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