骨折り伯爵
暖炉の火が爆ぜる音を聞きながら、エドワードは、書き終えた書類を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。暖炉の上、金色の額縁に縁取られた鏡が、冷徹な理性を湛えた「エドワード・レスフォード」を正確に映し出している。そこに映っているのは、一分の隙もない夜会服に身を包み、冷徹な理性を湛えた金髪碧眼の貴公子だ。
だが、エドワードは知っていた。この完璧な「伯爵」は、精巧に作り上げられただけの虚像に過ぎない。その上質な布地を一枚剥けば、そこにあるのは、泥水を啜り、獣のように喉を鳴らして生き延びてきたスラムのどうしようもない少女だ。
「エドウィナ」。そう、スラムの子どもにはおおよそ似合わない大層な名前を付け、長く伸びた髪を帽子の中に押し込んで私たちに男装をさせながら、「いつか必ず王子様が迎えに来る。今はちょっと道に迷っているだけよ」と言い聞かせてきた母さん。娘が貴族に見初められ、レディになることを夢見ていた母さんは、今の私を見れば、泣いて喜ぶだろうか。……いや、きっと怯えるはずだ。鏡の中にいるのは、あの日「俺たち」が夢見た幸せを、すべて血で汚して奪い取った怪物なのだから。
俺たちが夢見ていたのは、安心して帰れる家だった。母さんがいて、父さんがいて、ご飯を不自由なくお腹いっぱい食べられて、夜にはふかふかのベッドで眠りにつく。たったそれだけの夢が、俺らには叶えられないものだった。
俺が育ったのは、都会の掃き溜めのような場所だった。セント・ジャイルズの薄汚い小さな家。華やかなハーレイ・ストリートの高級住宅地を通る馬車の音が、壁の向こうで子守唄のように響く。だが、こちらの肥溜めには、そのひとかけらの恩恵すら届かない。 ――そこは、神様が目を逸らしたまま忘れていった、どん底だった
俺たちの母さん――アリスは、セント・ジャイルズにありふれた娼婦だった。父親が誰かもわからない娘を三人産み、いつか立派な王子様が迎えに来て娘たちはレディとして幸せな人生を送ると信じてエドウィナ、ハリエット、ウィルヘルミナと舌を噛みそうな名前をつけた。
母さんは昼も夜も客を取っていたから、俺たちは一日の大半をストリートで過ごした。馬の糞と石炭の煙にまみれ、野良犬のように食い扶持を探し回る日々。けれど、仕事の合間に家に戻れば、母さんは汗と安物の香水の匂いをさせたまま、俺たちにべたべたと鬱陶しいほどのキスをし、壊れ物を扱うように深く抱きしめた。 その時だけは、彼女は娼婦ではなく、ただの「母親」の顔をしていた。
「いい、エド、ハル、ウィル。あなたたちには、いつか必ず王子様が迎えに来る。今はちょっと道に迷っているだけよ。だから、その日が来るまでは仮の姿でいるのよ」
毎朝、客が帰った後、ガタのきた古びた鏡台の前で、母さんは俺たちの長く伸びた髪を丁寧に梳いてまとめ、古い帽子の中に押し込みながら必ずそう言った。俺たちに男物の汚れた服を着せ、エド、ハル、ウィルと男の名前で呼びながら、うっとりと夢を見るような瞳で鏡越しに囁くのだ。
「あなたたちを王子様がいつか必ず見つけ出して、本当の居場所へ連れて行ってくれる。だからそれまでは、その綺麗な髪も、その立派な名前も、大切に隠しておきなさいね」
それは祈りであり、呪いだった。
他の娼婦たちは、そんな母さんを「いかれた変わり者」だと指差して笑った。明日のパンにも事欠くどん底で、娘をレディにする夢など、阿片の見せる夢よりも質の悪い夢だと誰もが知っていたからだ。だが、母さんだけは本気だった。鏡の中の、男の格好をした愛娘たちの向こう側に、いつか現れる「白馬の王子様」の姿を、母さんだけははっきりと見ていたのだ。
朝の儀式は毎日続いたが、季節が巡るたび、母さんの身体は確実に内側から壊れていった。 頬は削げ、白粉の下の肌は土気色を通り越して、死人のような灰汁色に淀んでいった。喉は爛れ、吐き出す息からは安物の香水では到底隠しきれない、臓器が腐りゆくような独特の甘い死臭が漂い始めた。セント・ジャイルズに身を浸している者なら誰でもわかる。娼婦がよくかかる病気、梅毒だ。それでも、母さんは、毎朝の儀式だけは欠かさなかった。客を送り出した後の、静まり返った絶望のような朝の光の中、母さんは小刻みに震える指で、俺たちの髪を梳いた。病の影響か、その手元はおぼつかなく、時折、櫛が頭皮に食い込んで痛みが走る。それでも母さんは、一言一句同じ文言を繰り返すのだ。
「いい、エド、ハル、ウィル……あなたたちには、いつか必ず王子様が迎えに来る。今は、ちょっと、道に、……」
激しい咳がその言葉を遮る。ハンカチで口元を押さえる母さんの背中は、驚くほど小さく、脆かった。俺は鏡台の前に座り、母さんの死の匂いに肺を焼かれながら、じっと耐えていた。
「……ちょっと、道に迷っているだけ。だから、その日が来るまでは……」
母さんの指先が、俺の帽子を深く被せる。その震えが俺の額に伝わるたび、俺は王子様なんてどこにもいないこと、そして、この掃き溜めの中のかろうじて家と呼べる場所さえも、もうすぐ完全に閉ざされてしまうことを予感せずにはいられなかった。
行き止まりだった。母さんが鏡の中に見ている黄金の輝きなんて、どこにもない。俺たちの立っている場所は、ただ冷たくて、湿った、逃げ場のない泥沼だ。それも地獄行きの泥沼だ。
そのころ、ストリートでは子どもが消えるという噂が流れていた。でも、わざわざ「消える」ことがなくても死が身近な生活だったから、俺は大して気に留めていなかった。ストリートの生活は厳しい。どんなに若くて健康な人でも路上生活を始めると数年で体がボロボロになる。非力な子どもが死ぬこともざらだったから、大抵の人がくだらない噂だと聞き流していたし、俺もそうだった。ただ後から振り返ってみると、あのとき、俺は確かにあいつの姿を見たのだ。
「あの方が探しているのは、金髪碧眼の少女です。身寄りがなくて貧しく、突然消えても怪しまれない子を誰か知りませんか」
その男は紳士風の男で、明らかにこのストリートの人間ではなかった。しかも、誰の客でもない。その姿を俺は今でも覚えている。しっかりとしたつくりの正絹のハット。上質なウールのコートからのぞく上質な布地のズボン。ぴかぴかに磨き上げられた傷ひとつない皮靴の前には、高級そうな木で作られた飾りの美しいステッキをついていて、そのステッキ上に重ねられた真っ白な手袋をはめた大きな手が重ねられていた。今から思えば、あいつがすべてのはじまりだった。でも、そのときはほとんど気にせず、俺は通り過ぎたのだ。
その日、母さんはまるで病に打ち勝ち、生き返ったかのようだった。前日まで、喉を鳴らして血を吐き、シーツに沈んで動けなかったはずの身体に、どこからそんな力が湧いたのか。俺たちを部屋に呼び出し、踊るような足つきで部屋に入ってきた母さんの後ろには、一人の紳士がいた。
「今日はあなたたちに、最高に素敵なお知らせがあるのよ」
母さんの声はいつものように掠れていなかった。歌うような、けれどどこか現実を切り離したような高揚した響き。まるで燃え尽きる前のろうそくが炎の勢いを増すような輝きがあった。
紳士の名前はジョン・スミスといった。明らかな偽名だ。だが、母さんがいうには、そのジョン・スミスはとある貴族から秘密の依頼を受けてやって来たらしい。そして、そのジョン・スミスなる紳士は、レスフォード伯爵なる貴族がかわいそうな子どもたちを引き取って育てる慈善事業をやっているので、伯爵の代理として子どもたちを選んでいる最中だといった。
「それで、スミスさんが誰かいい子を知らないかっていうから、あなたたちの話をしたら、まさに条件にぴったりですって。ああ、神様。これでようやく、あなたたちを本当の居場所へ帰してあげられる……!」」
母さんはとてもうれしそうにいうと、痩せ細って骨の浮いた手で俺たちの肩を掴み、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せた。その指先からは、病の冷たさではなく、内側から燃え上がるような異様な熱が伝わってくる。
引き取る? 貴族が? こんな馬の糞と石炭の煙にまみれた、ストリートの子供を?
俺の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく脈打っていた。ジョン・スミスは、慈悲深い微笑を湛えながらも、その視線は市場で家畜を品定めする商人のように、俺たちの骨格を、肉付きを、冷徹に舐め回しているような気がしたからだ。だが、俺はその不吉な予感を飲み込んだ。目の前にいるのは、母が、あまりに「王子様」の到来を信じていたからだ。俺もまだそのときは子どもだったから、母さんが信じているという理由でその話を信じることにした。だが、俺はそれでも拭えない困惑と疑念を込めて、ジョン・スミスを見つめた。
ジョン・スミスは、俺たちの疑念を見透かしたように、懐から一通の厚手の封筒を取り出した。スラムの湿った空気にはおよそ不釣り合いな、上質な羊皮紙。そこには、毒々しいほど鮮やかな赤い蝋が垂らされ、精緻な紋章――左足の意匠にLの文字――が刻印されていた。
「これが、我が主、レスフォード伯爵からの正式な招聘状です」
母さんはそれを見た瞬間、喉の奥で震えるような声を漏らし、恭しく封筒を受け取ると、恍惚とした表情でその封蝋を指でなぞった。
「ああ……この紋章。本物。本物なのね」
母さんは、次いでまるで十字架を拝む聖女のようにジョン・スミスの手に恭しく口づけを落とそうとしたが、男は、母さんの汚れた唇が自分の肌に触れる直前で、巧みに、けれど優雅に手を引いた。そして、再び襟を正すと、今度はその手で俺の顎を乱暴にしゃくり上げたのだ。
「では、アリスさん。改めて、彼女たちの『正しい名前』を伺いましょう。我が主人の名簿に、高貴な魂として刻むために」
その言葉に、母さんはうっとりとした表情を浮かべた。俺たち三人を一人ずつ、震える指先で指し示す。
「ええ、喜んで。……この子が、長女のエドウィナ。隣が次女のハリエット。そして、その隣が末娘のウィルヘルミナです」
隠し続けてきた真名が、母さんの爛れた喉から、秘蔵の宝石を差し出すような誇らしさとともに零れ落ちた。ジョン・スミスは、その名前を丁寧に、けれど事務的な筆致で手帳に書き留めていった。
その時、俺が感じていたのは「裏切り」ではなく、足元がふかふかと浮き上がるような、正体不明の心細さだった。エド、ハル、ウィル。その母さんがつけた愛称で呼ばれるたびに、俺たちはストリートという戦場で「男」として生きるための鎧を纏ってきた。けれど今、母さんの手によって、その鎧はすべて剥がされ、ただの無力な少女へと引き戻された。
「さあ、これで準備は整いました。明日の朝、迎えの馬車を出しましょう」
男は満足げに手帳を閉じ、再び白い手袋を整えた。
俺の心臓は、相変わらず早鐘を打っていた。だが、母さんの頬に差した、あの呪わしいほど鮮やかな「生の赤み」を前にして、それを「不吉な予感だ」と突きつけることは、当時の俺にはできなかった。
母さんは、俺たちが貴族の屋敷に入れると聞いて、安定した未来が約束されたと喜んでいた。俺たちがいなくなることを寂しい、寂しいと言いながら、あなたたちのために喜ばなくちゃと張り切った。母さんは、少しでも俺たちをきちんと見せるために、必死に稼いだお金を使ってよそ行きの服まで買ってくれた。
母さんが何枚か用意したそれは、安物のレースがこれでもかとあしらわれた、ひどく時代遅れな色彩のドレスだった。母さんは、俺たちの長く伸びた髪を古い帽子から引き出し、慣れない手つきでリボンを結んだ。これまで泥にまみれて「エド」として生きてきた俺の身体が、ピンク色の窮屈な布地に包まれていく。いつものように鏡の中にいたのは、たくましい浮浪児ではなく、母さんの歪な夢を押し付けられた、ひどく場違いで無力な「少女」の姿だった。それでも、俺はまだ、この夢が本物の夢につながると信じていた。
そして、俺たちが母さんと過ごした最後の日。母さんは、俺たちによそいきの服を着せると、愛情をこめて順番にお別れのキスをした。それから、何度も何度も俺たちを抱き寄せた。母さんの目には、涙が溜まっていて、とても名残惜しそうにしていた。
迎えの馬車が到着したとき、御者は俺たちの姿を一瞥すると、鼻で笑うような声を漏らした。そのとき、俺はひどく恥ずかしかった。貴族の館に暮らす者にとって、母さんが身を削って用意したこのよそいきは、セント・ジャイルズの娼婦が精いっぱい背伸びした、薄汚いドレスに過ぎなかったのだ。ジョン・スミスが、スラム街にも、貴族の館にも場違いな恰好をした俺たちを見て、一瞬嘲るような笑みを浮かべたのを、俺は見逃さなかった。
だが、母さんは何も気づいていなかった。俺たちに何度も何度もお別れのハグをし、最後にとうとう、後ろに控えているジョン・スミスを見やると、母さんは「エド、ハル、ウィル。この方が助けてくださるわ。いい子にしてるのよ」と言い聞かせて、俺たちを送り出した。
馬車の扉が閉まり、遠ざかる母さんの姿を見つめながら、俺は自分の膝の上でレースの端をぎゅっと握りしめていた。この服が、屋敷の冷たい石畳を踏んだ瞬間に、ゴミのように剥ぎ取られてしまうことも知らずに。
馬車が止まった先は、めくるめくような色彩に満ちていた。レスフォード家の屋敷は、石炭の煙に霞むセント・ジャイルズとは別世界の、萌えるような緑と咲き誇る花々に囲まれていた。美しい春の陽光が、磨き抜かれた石造りの外壁を白く輝かせている。
この世にこんなにも素晴らしい場所があるのか――。
母さんが夢見た「王子様の城」を目の当たりにして、俺は一瞬だけ、自分の胸に渦巻いていた不吉な予感ではなく、これからの安定した未来を信じようとさえした。
だが、重厚な扉が背後で閉ざされた瞬間、その淡い期待は音を立てて崩れ去った。
屋敷の空気は、外の春陽とは裏腹に、凍りつくように冷たかった。そこで俺たちを待っていたのは、寒さでも空腹でも病気でもない。意思を持ち、知性を備え、そして底なしの悪意を湛えた「人間」という名のおぞましい怪物だった。
俺たちを引き取ったレスフォード伯爵は、子供が恐怖に歪む顔を何よりも愛でる、壊れた魂の持ち主だった。到着して早々、母さんが身を削って買い与えてくれたあのドレスは、「汚らわしいゴミ」として無慈悲に剥ぎ取られた。代わりに与えられたのは、逃げ出すことさえ許されない、薄い寝着のような布切れ一枚だった。
「お願い。お願いだから、ハルとウィルには手を出さないで」
俺は毎晩、伯爵の寝室へと引きずり出された。広すぎるベッドの上、蝋燭の火に照らされた伯爵の瞳は、獲物をいたぶる猟師のそれだった。彼は、弱く幼い子供が怯え、痛みに泣き叫ぶ姿を見ることに、至上の悦びを感じる異常者だったのだ。
パキ、と。静かな寝室に、俺の指の骨が折れる音が響く。 「いい声だ。貧しい奴らは、何の役にも立たないくせに子沢山だからな。こうして少しずつ、無駄な数を減らしてやるのが世のため人のためというものだよ」
伯爵は陶酔したような笑みを浮かべ、俺の震える指を一本ずつ、丁寧に、確実に壊していった。母さんが「いい子にしてるのよ」と送り出したその場所で、俺は初めて悟った。ここは救いの場などではない。俺たちは、ただ壊されるためだけに、この美しい檻へと買い取られたのだ。
伯爵の背後の壁には、巨大なタペストリーが揺れていた。それは、皮を剥がれた人間が逆さまに吊るされ、内臓の腑分けを詳細に描いた、おぞましい逆さ解剖図だった。のちに五肉祭の信奉者たちが掲げるタペストリーだとわかる、不気味な図証に見下ろされながら、俺はいつも恐怖の時間を味わった。伯爵は、いつも枕の下に隠している回転式の拳銃をちらつかせながら、俺を脅して骨を折った。下卑た笑いと、拳銃と、指にきらめく左足の意匠にLの文字が刻まれたシグネットリング。恐怖で白く霞がかかった視界の中で、それだけが俺の脳裏にこびりついた。
何の躊躇もなく子供の骨を折るぐらいだ。こいつが何をするかわかったもんじゃない。だから、俺は伯爵に一切の抵抗ができなかった。この屋敷に俺たちを助けてくれる人は居ない。俺たちがここにいると知っている人すらいない。だから、俺は必死に懇願した。せめて、弟たちには手を出さないように。弟たちがほんの拍子に殺されることがないように。
俺が恐怖に泣き狂いながら、惨めな懇願をする様子は、よほど面白かったんだろう。伯爵は、俺をいじめるだけで、弟たちに手は出さなかった。だが、見せしめのように弟たちの前で俺をいじめた。俺は痛みと恐怖で叫び声を上げ、弟たちはそんな俺を見て怯えた。そんな風に、終わりの見えない毎日が続いた。
そんなある日、俺たちは屋敷で少年を見かけた。俺たちが閉じ込められている檻のような部屋の前に、いきなり金髪の少年が現れたのだ。そいつは、部屋の前に立つと、青い目で俺らをじろじろと観察した。
俺たちは、そいつが不気味だったので、自然と身を守るように何もない部屋の隅に寄った。そいつの視線は、奇異なものを見るような不躾なものだった。俺は、その視線から弟たちを守るために、そいつの前に立ちはだかると、じっとにらみ返した。だが、相手の少年は、鉄格子の向こう側の俺たちがどんな表情だろうと気にするそぶりは見せなかった。そいつは、俺たちを頭のてっぺんからつま先まで検分するように眺め回すと何も言わずに去っていった。
屋敷のメイドたちのひそひそ話によれば、あいつは伯爵がメイドに産ませた不義の子だという。伯爵は、自分の爵位と財産が忌み嫌う実弟の家系に渡るのを病的なまでに嫌悪していた。その執念ゆえに、かつて汚点として植民地の果てへと追いやっていた息子を、後継者の椅子を埋めるためだけに「正妻との間に生まれた息子」だと偽って呼び戻したらしい。
だが、そこまでして手に入れたはずの息子は、誰からも愛されていなかった。伯爵にとっては弟への当てつけのためだけの道具であり、使用人たちにとっては忌むべきスキャンダルの象徴だ。彼はいつも一人で、誰からも、そして父親であるはずの伯爵からさえも気にかけられず、幽霊のように屋敷をふらふらとしていた。
彼の名前は、エドワード。 俺と同じ愛称で呼ばれ、俺と同じ金髪碧眼を持っていた。 しかし、このエドワードは伯爵好みのすらっとした子供ではなく、背が低くふっくらとした男の子だった。ごく普通の人間なら、彼を見てとても可愛いらしいと思ったことだろう。全体的にぽちゃぽちゃとして健康そうで、如何にもその年頃の男の子らしく、大きな瞳に愛らしいりんごのような頬をしていた。もしその瞳に虚ろが張り付いておらず、明るく笑っていれば、絵画の中の天使のようだっただろう。だが、エドワードは、幸か不幸か伯爵好みの見た目ではなく、おまけに大した才能もなかったので、誰からもいないようなものとして扱われていた。いや、むしろ虐げられていたといったほうが正しいかもしれない。エドワードは、何も出来ないといっては、常に伯爵や家庭教師から怒られ、他の使用人からは居てもいなくても関係ない人のように扱われていた。
特に家庭教師の女はエドワードを好んでいじめた。女の人だって、自分の腰ぐらいまでしかない子供なら容易に捕まえて鞭で打てる。エドワードは、勉強ができないといってはぶたれ、躾がなってないといってはぶたれ、挙句の果てには、何もなくてもぶたれていた。エドワードがぶたれているのは、屋敷に響き渡る悲鳴ですぐにわかった。エドワードは、俺たちと違って悲鳴を我慢する理由がなかったから、いつも聞くに堪えないような悲痛な声で叫んでいた。だから一見優雅で豪華なお屋敷には、昼も夜も悲鳴が響き渡っていた。
ある日、俺はあの忌まわしい檻から抜け出すチャンスを得た。俺は、弟たちに自分が必ず脱出経路を見つけ出すと約束して部屋を出た。だが、ある部屋を通りかかったとき、家庭教師に鞭打たれているエドワードと一瞬目が合ってしまった。
本当は、エドワードを助ける気なんてなかった。勝手にぶたれていればいい。俺には関係ない。少なくとも、エドワードは俺たちよりは守られている。貴族の坊ちゃんがどうなろうが知ったことじゃない。でも、俺は暴力の痛みを知っていた。誰も助けてくれない、孤独の痛みを知っていた。だから、俺は気づけば、家庭教師に向かって「やめろ」と言ってしまった。
家庭教師は驚き、振り返って俺を見た。俺は自分の行動を後悔した。俺自身を守るものはなにもない。今度は、俺がエドワードの立場になるかもしれない。それも、俺が貴族の坊ちゃんではない分、苛烈さを上乗せされて。だが、おそらく家庭教師は、伯爵の玩具が突然現れて、どうしたらいいのかわからなかったのだろう。家庭教師は、「きゃあ」と叫ぶと、俺を罰することもなく俺の横を通って部屋から出て行った。
俺とエドワードは、二人きりで部屋に残された。俺は、罰せられると覚悟していた分、気が抜けると同時に、脱出の唯一のチャンスを逃してしまったという絶望に襲われて、その場にへなへなと座り込んだ。この場から逃げ出したかったが、もともと逃げ出さないように食事も少なく飢えていたところを気力だけで動いていたので、気力がなくなった今は、動こうと思っても、一ミリ足りとも手足を動かせなかった。一方、エドワードは、鞭打たれた場所がヒリヒリと痛むようで、俺と同様にその場から動けずにいた。
俺たちの間には、奇妙な、そして居心地の悪い沈黙が流れた。
「どうしてぼくを助けたの」
しばらくしてエドワードがいった。その口調は、有難がっているというよりも責めているような調子だった。とはいえ、俺も、もともと貴族の坊ちゃんを助けて感謝されるとも思ってなかったので、大して傷つくこともなかった。
「俺が見てらんなかっただけ。べつに感謝しろなんていわねぇよ」
エドワードは、俺の返事を聞いても反応すら見せず、長い間黙っていたが、やがて俺の包帯を巻かれた右手を指差して「父様にやられたの?」と聞いてきた。
俺がうなずくとエドワードは抑揚のない声で「そう」と言った。そして、続けてどこか宙を見るようにして「君たちがはじめてじゃないよ」と付け加えた。
「前にも俺たちみたいな子供が居たのか?」とたずねると、エドワードの視線が俺のほうに戻ってきた。
「父は五肉祭のメンバーだから。何人もの少女が連れてこられて、知らない間に消えていった。君たちもいずれそうなる」
エドワードの据わった目で淡々と言われると、覚悟していたはずの事実でもぞっとした。
なんとか弟たちだけでも逃がさないと。ストリートの劣悪な環境でも生き延びたのに、貴族の道楽で殺されるなんて絶対にごめんだ。伯爵がいつも言っているように、世間から見れば、俺たちは役に立たないゴミクズみたいな野良犬なのかもしれない。でも、野良犬にだってプライドはある。この時代の、あの家の、あの場所に生まれてきたことは仕方ないとしても、せめて生き方と死に方ぐらいは自分たちで選びたい。その自由を伯爵なんかに奪わせてなるものか。
俺は心の内で決心をした。そして、ふと顔を上げると、エドワードと目が合った。
エドワードは、確かに俺たちをうらやましがっていた。こんな悲惨な状況にいる俺たちを。だけど、大切な人がいて、一緒に生きようとあがいている俺たちを。
羨ましい?
俺は、エドワードの羨望を感じ取った瞬間、坊ちゃんのたわごとだと思った。本当の苦しみって奴を知らないくせに、軽々しくそんなことを考えるなんて。でも、結局のところ、この屋敷にいるってのは生き地獄で、俺もあいつも、誰からも見捨てられ、身動きが取れない存在なのだ。俺は、エドワードの中に似た色の絶望を見つけて、お互いが唯一の理解者で味方だと思った。
エドワードはしばらくしてから「君、名前はなんていうの?」と聞いてきた。
「エドウィナ。エド、って家族からは呼ばれてる」
俺が答えるとエドワードは目を丸くした。
「ぼくはエドワード。ぼくもエドだ」
たったそれだけの共通点。それだけのことで、お互いに笑みがこぼれ、俺たちは笑いだした。そして、生まれも階級も性別も越えて、一瞬で友達になった。あの忌まわしい逆さ解剖図が揺れる屋敷の中で、それだけが本物の光だった。俺たちはその瞬間、この地獄を共にする唯一無二の友人になったのだ。
だが、その日を境に伯爵の狂気は加速していった。俺は、懇願するだけじゃなくて、身を挺して弟ではなく自分にしてくれと言う日が多くなった。伯爵は、なんとなく俺たちがエドワードと話すようになったのを感じとったらしい。憐れな子供たちが、外に心のよりどころを作ったのが許せなかったようだ。俺の指を楽しみのように少しずつ折っていたが、とうとう俺の生きている指もなくなり、ハルに手を出した。俺とウィルは、部屋の中に閉じ込められたまま、ハルの悲鳴だけを聞いていた。
俺は、使いものにならない手じゃどうしようもなくて、ウィルを抱き寄せて、せめて悲鳴が聞こえないように耳を塞いでやることしかできなかった。俺は、ハルの悲鳴を聞きながら無力感に打ちひしがれた。そして、俺たちの部屋に帰ってきて、「大丈夫」と強がって笑うハルを見たとき、その感情は俺の中でどっと堰を切ってあふれ出した。
「大丈夫だよ、兄ちゃん。兄ちゃんが耐えたんだから。兄ちゃんもウィルも、おれが絶対に守ってみせる」
ハルの言葉を聞いたとき、俺は、嬉しくて、悲しくて、情けなかった。俺は、ただボロボロになったハルを抱きしめてやることしかできなかった。
俺は、何度も屋敷から逃げる算段をしたが、どうしてもうまくいくヴィジョンが見えなかった。屋敷は広大で、しかも門までは隠れ場のない広い平地の庭だった。使用人もたくさんいたから、どこかで必ず見つかるに決まっていた。仮に逃げ出せたとしても、ここがどれぐらいロンドンから遠い場所かすらわからない。屋敷の外の人たちが俺たちの味方かどうかもわからなかった。逃げ出して肌身離さず拳銃を持っている伯爵が激高することを考えると、とてもそんな危険は冒せなかった。自分だけならまだいいが、弟たちを連れてできるかとなると自信がない。
俺は、せめて両手が使えるうちにもっと真剣に考えていれば、と無駄なことを考えた。これ以上、ハルを傷つけさせるわけにはいかない。ウィルに手を出させるわけにはいかない。
そう思っているうちに、ウィルの番になった。ハルの両手はまだ生きているのに、どうして急にそんなことになるのかわからず、俺たちは戸惑った。法則が崩れている。これは、危険なことに違いない。
「嫌だ!兄さん!兄さん!」
伯爵に連れていかれるとき、ウィルは、泣きながら俺たちに向かって手を伸ばした。俺たちもウィルに向かって手を伸ばしたが、伯爵は、杖で容赦なく俺たちを打つと、ウィルの首根っこを掴んで引きずっていった。俺たちの中で一番幼く、一番小柄なウィルは、容易く引きずられていった。
俺たちは、力の限り抵抗し、ウィルを連れていく伯爵の手にむしゃぶりついた。だが、それも無駄で、俺たちの前で扉は無情にも閉まった。だが、伯爵は、初めて俺とハルが力の限り抵抗したことに動転して、いつものようにきちんとすべての鍵をかけたか確認をせずに行ってしまった。扉の閉まりが甘かったので、俺たちは何度も体当たりをし、とうとう扉を開けた。俺とハルは、二人で顔を見合わせた。もう、何をされたっていい。ウィルを助けて、ここから逃げる。お互いに口に出さずとも、意見は固まっていた。
俺たちは、ウィルを助けるために駆け出した。廊下を走り、伯爵の趣味の部屋へ向かうと、そこには、「嫌だ!嫌だ!兄さん!兄さん!」と泣きわめくウィルと、その涙にぬれた顔が楽しいというように笑ってウィルに迫る伯爵がいた。それは、俺たちが何度も見た愉悦の顔だった。
俺は、その光景を見た瞬間、怒りで視界が赤く染まった。だが、驚いたことに、俺たちよりも前に鹿撃ち銃をひきずって歩くエドワードがいた。
伯爵は、嫌な気配を感じたらしく、はっと扉のほうを振り返ってみた。そして、鹿撃ち銃を持ったエドワードの姿を見つけると、即座に枕の下から愛用の拳銃を取り出した。俺が声を上げたり、身動きをしたりする暇すらなかった。二人は、お互いを撃ち、お互いが倒れた。
伯爵は即死だった。銃がもともとすばしっこい野生動物を仕留めるものだったから、人間は一たまりもなかったのだ。伯爵の返り血をもろに浴びたウィルがつんざくような悲鳴を上げた。隣にいたハルは、慌ててウィルに駆け寄ってベッドから引き摺り下ろし、目を覆ってやった。俺は、倒れたエドワードのほうへ向かった。
腹を拳銃で撃ち抜かれたエドワードは、まだ息があった。俺は、手で押さえて血を止めようとしたが、血は一向に止まらなかった。流れ出す血液は、見る見るうちに絨毯を濡らし、血だまりを広げていく。温かい血が流れるのに比例して、エドワードの体はどんどん冷たくなっていった。この世に引き留めようとしているのに、目の前で命が零れ落ちていくことが耐え難くて、「何てことをしたんだよ!」と気づけば俺は瀕死の奴を叱り飛ばしていた。
「ごめん……でも、こうするしかなかった……もっとはやく、こうしてればよかったんだ……こうでもしないと、あの悪魔は止まらない……」エドワードはいうと、俺に「伯爵は死んだ?」と聞いた。
それは確かめるまでもなかった。伯爵は、壁に脳髄をぶちまけて動かなくなっていたから。
「ああ、死んだ」
俺が告げると、エドワードはほっとしたような顔をした。
「よかった・・・じゃあ、今は、ぼくが伯爵だ。エドワード・レスフォード伯爵。ハハッ。ハハハハハ!」
エドワードが死にそうなのに笑うから、俺は一瞬、こいつは本気で狂ってるんじゃないかと思った。たかが称号のために、父親を殺したのか。「お前……」なんてことを言うんだ、と言いかけたとき、「でも」とエドワードが有無を言わさぬ口調でしゃべりはじめた。「ぼくは、もう長くない。この名前は、君に譲るよ、エド」
エドワードは自分の血で汚れた右手を上げると、まるで何かの儀式みたいに、俺の額に血を塗った。でも、俺は頭が着いていかなくて、「何を言ってるんだ」としかいえなかった。
「弟たちを隠して、君がぼくになれ……。大丈夫、服さえ替えてしまえば、誰も気づかないさ。ぼくのことなんて、誰も気にかけていなかったもの」
「そんな……」
そんなことない、と言おうとして喉のあたりで言葉が詰まった。この屋敷では、彼の父も、使用人たちも、誰もエドワードを気にかけていなかったのは紛れもない事実だから。
「頼むよ……頼むよ、エド」
そう言って本物のエドワード・ウォリアーズは事切れた。
部屋には二つの死体が残された。ベッドや絨毯は血に染まり、俺たち兄弟は皆放心していた。正直に言って俺は、何もかも唐突すぎて、意味が分からなかった。いったい何を頼むというんだ、とエドワードに怒りすら感じた。でも、心のどこかでこのエドワードも、銃を持ち出さざるをえないぐらい心が擦り切れてしまっていたんだろうとわかった。エドワードが伯爵愛用の拳銃を知らなかったはずはない。ただ、それでも、鹿撃ち銃を持ち出して伯爵を撃つことが、彼にとっての「生きる」ということだったのだ。
だったら、彼の望みを叶えよう。エドワード・ウォリアーズ伯爵として。
俺は、指の包帯を解いた。
「兄さん、なにを……」
ウィルが悲鳴のような声を上げ、ハルが止めようとしたが、俺は二人を制止した。俺はゆっくりと冷たくなっていくエドワードに歩み寄ると、血に汚れた上着を剥ぎ取った。そして、残りの服も着替えていく。幸い、小柄な男の子だったエドワードと、大柄な女の子だった俺とでは、血にぎょっとしさえしてくれれば、わからない程度に服は入れ替えられた。
だが、ただの入れ替わりでは足りない。俺たちをこの地獄へ売り飛ばし、なぶりものにした奴らすべてを地獄へ引きずり戻さなければ、俺たちの夜は永遠に明けない。
俺は壁に掲げられた「逆さ解剖図のタペストリー」を睨みつけた。そこには、皮を剥がれた身体の各部位に、血の色をした五つのアルファベットが刻まれている。頭にはNが、右手にはCが、左手にはRが、右足にはF、左足にはLが。伯爵のリングにある「L」は、この図像の「左足」の部分に配置されていた。タペストリーの上には「五肉祭」の文字がある。
――あと、四人。この男と同じように、人間を「素材」としか扱えない卑劣な貴族が、あと四人、このイングランドの闇に潜んでいる。
「……残りの四人も、一匹残らず地獄へ送ってやる」
俺は折れた指の激痛を、そのまま殺意へと変換した。本来なら折れた指が痛んだだろうが、俺の心臓は、怒りと復讐の炎で沸騰していた。俺は震える右手を、まだ温かい伯爵の死体へと伸ばした。俺は声を殺して絶叫し、溢れ出る涙を噛み殺しながら、伯爵の指からあのシグネットリングを力任せに引き抜いた。「左足の意匠にLの文字」。ぶかぶかのそのシグネットリングを砕けた指無理やり押し込む。これで偽りの伯爵が完成だ。
「ハル、ウィル。……聞け。お前たちは、今すぐここを出るんだ」
俺は静かな声で告げた。
「今から俺が伯爵だ。その権限で、お前たちをここから逃がす。追っ手も出さないようにする。だから、逃げろ」
「いやだ、兄ちゃん」
「嫌です、兄さん」
ハルとウィルが同時にいった。
「兄さんは、復讐をする気でしょう……?エドワード・レスフォード伯爵として。だったら、僕が弟として兄さんを支えます。兄さんの目となり、耳となります」
ウィルは言うと、伯爵のベッドルームの洗面器と水差しの近くにあったカミソリを持ってきて髪を切り落した。
「オレも」ハルもウィルからカミソリを受け取ると、片手で不器用に髪を切り落した。「オレは、兄ちゃんの手と足になる。兄ちゃんの弟として。三人で、レスフォード伯爵を作り上げよう?オレたち、ずっとどこでだって三人で無敵だったんだから、これからだって、三人でいなきゃ」
「だが、俺は……」
そう言っている間に、屋敷は大騒ぎになりつつあった。伯爵が遊んでいる間は、どんな物音が聞こえても伯爵の寝室に誰一人近づいてはいけないのは、屋敷の暗黙のルールだったが、銃声となるとさすがに勝手が違うらしい。
「わかった、ウィル、俺の髪を切れ。エドワードと同じ長さにだ。……それから、お前たちは隠れてろ。様子を見て、遠くから呼び寄せた弟たちということにする。いいか、今日から俺たちは、レスフォード家の兄弟になるんだ」
ウィルの手は時間のなさから震えていたが、俺の眼光に押されるように、俺の髪を無慈悲に切り揃えていった。
扉が激しく叩かれる。俺は激痛で白濁しそうな意識を、冷徹な「伯爵」の仮面で繋ぎ止めた。
「……旦那様。失礼いたします。……いささか、大きな音が響きましたゆえ、ご無事を確認に参りました。お怪我などは、ございませんでしょうか」
俺は、素早くハルとウィルに合図をやって、二人をウォードローブに隠した。
執事はさらに声を絞り出し、形式的な「許可」を求めた。
「お返事をいただけないようでしたら……不敬を承知で、解錠させていただきます。よろしいでしょうか?」
「――無礼者が。……入れ」
その一言で、扉の向こう側の空気が凍りついたのがわかった。予備の鍵がガチャリと音を立てる。扉が開くと同時に、執事と数人のフットマンが雪崩れ込んできた。彼らの視界に入ったのは、壁に脳髄をぶちまけて転がる伯爵と、腹を撃ち抜かれて絶命した「エドワード」の遺体。そして、返り血を浴びた服を着た俺の姿だった。
「これはいったい……旦那様……?」
俺は、動かない右手をあえて見せつけるように伯爵の椅子に置き、氷のような視線で使用人たちを射抜いた。
「見ての通りだ。……父上は、この買い取った『玩具』の一匹に逆上され、相撃ちになった」
俺は床に転がる本物のエドワードを、汚物でも見るかのように指差した。
「これは我がレスフォード家の、消し去るべき汚点だ。いいか、伯爵は急な病で身罷られた。この薄汚い野良犬の死体は、今すぐ裏庭にでも放り込んで始末しろ。……今の私の言葉に、一言でも疑念を抱く者がいるなら、主殺しの共犯として、今すぐこの場で私の『新たな素材』にしてやってもいいが?」
執事たちの顔から、血の気が引いた。彼らにとって、本物のエドワードがどんな指をしていたか、どんな声だったかなど、知る由もなかったのだ。目の前にいるのは、主人のリングを嵌め、主人の残酷さを完璧にトレースした「新たな伯爵」そのものだった。
俺の声に、使用人たちは弾かれたように動き出した。彼らはもはや、俺を「伯爵の玩具」としては見ていない。自分たちの生殺与奪の権を握る、若き暴君として傅いている。
俺は、「左足のL」のリングを、折れた指ごと強く握りしめた。指先から伝わる激痛が、心地よくさえあった。この痛みだけが、俺がまだ生きていることを、そしてこの身が復讐の道具であることを教えてくれる。
窓の外、春の陽光に照らされた美しい庭園が見える。かつて母さんが夢見た、王子様の城。 だが、その城の中は地獄で、その王子様は先ほど、この部屋で、銃で撃ち抜かれて死んだ。そして、代わりに玉座に座ったのは、髪を切り、名前を捨て、怪物のリングを嵌めた一匹の野良犬だ。
この世に救いなどない。あるのは、五肉祭のタペストリーを血で塗りつぶし、残る四つの部位を完膚なきまでに叩き潰すまでの、長い復讐の旅路だけだ。
その日、俺は、血のついた上着の襟を正し、冷徹な沈黙を纏った。
さあ、始めよう。これが、俺たちが望んだ「幸福」の結末だ。レスフォード伯爵の属していた五肉祭のメンバーを探して復讐する。決して間違えない。今この地位は、ただこの目的のために。




